ライオンは牙をむく

 その日の私はご機嫌だった。
 鼻歌でも歌いそうな勢いでスキップをしていたら、いつものとおり、加島かしま朱子あけこセンサーにひっかかってしまったらしい。
「ずいぶんとご機嫌ですね。いいことでもあったんですか」
 いつも通りの、口の端をきゅっと上げる穏やかならぬ笑い方で、加島は私を見下ろす。
 普段ならここでむかっときて突っかかるところだが、今日の私のご機嫌度は尋常ではないのだ。我ながら珍しく、えへへへーと笑って加島にピースサインを突きつけた。
「内定! もらった!」
 もう四回生になってしまった私は、せっせと就職活動に勤しんでいたのだ。
 ここに至ってやっと、就職先の内定をもらい、落ち着けるというわけだ。
 私の態度が余裕だった所為かはわからないが、その途端、加島の雰囲気がさっと冷たくなった。
「朱子さん。それ、どういう意味かわかってます?」
「おうよ! 卒業したら前途ある未来が約束されているということだね!」
 どんな嫌味が待ち構えていようと、いまの上機嫌を遮るものなどない。私は揚々と拳を突き上げた。
「卒業したら、就職したら、俺とはもう会えない」
 その声を聞いて、へ? と私は間抜けな声を上げた。


「朱ちゃん、ひどいなあー!」
 ひどいとか言う君の方がよっぽどひどいぞ。美岐本みきもとの率直な声は、私の胸をぐさりと刺した。
「じゃあ、いっぺん君が言い寄られてみればいいんだ」
「嫌だ」
 まったく、友人の癖に美岐本は冷たい。甘々なのは自分の彼女に対してだけだ。
「加島ってあれだろ? 弥月みつきの後輩。どう見ても、加島の方がでかいし年上に見えるけど、実際は下だからすごく居たたまれない思いをしてると思うぞ」
「は? ねえちょっと美岐本、普段の私の話、ちゃんと聞いてる?」なんで加島を被害者に仕立て上げようとしてるんだ。可哀想なのは私だというのに。
 美岐本は机の上に頬杖をついて、困ったように私を見やった。
「男にとっては、たとえ一歳でも年の差って気になるもんだよ。しかも朱ちゃん、一足先に社会人になっちゃうだろ。加島はあと一年、学生身分で足踏みしてなきゃなんない。あとは朱ちゃんの卒業を待つばかりとなれば、相当焦ってるだろうから、藪をつついて蛇を出すんじゃないぞ」
「やだなあ美岐本、考えすぎじゃない? だってあの加島だよ」
 加島はそんなタイプじゃないな、と思ったのが半分。あとの半分は、なぜか私の中に芽生えていた加島への信頼だった。でも美岐本はきゅっと目を細めただけだった。
「あのねえ朱ちゃん。男だって怖いんだよ」余裕ばっかりじゃないんだよ、と美岐本の呟き。


 美岐本の指摘とは裏腹に、あれ以来、加島はどことなく私を避けているような気がした。
 そして私は美岐本の忠告を聞かなかったことを、深く、深く後悔することになる。
「かーしーま?」
 談話室のソファーにどっかと寝転がっている加島に、私は気安く声をかけ、その顔を覗き込んだ。加島は私を見てしかめっ面をする。
 なんだこの態度の変わりようは。失礼な奴だ。
 むっとした私に、加島は呆れたように苦笑した。
「朱子さん。俺は、あんたにふられたんですよ。卒業したらそれっきり、もう会う気はないと宣言されたも同然なんです。すぐに気持ちの整理がつくと思わないでください」
「別に、そこまで言ってないよ」
 私はびっくりした。確かに、積極的な返事はしなかったが、手ひどく拒絶した覚えもない。
 でも加島は、例の、酷薄な色の目をしただけだった。
「覚悟もないのに優しくしないでください」
 そこでやっと、私は加島を見くびっていたことに気づいた。ライオンだ、猛獣だと毒づきつつ、そのことについて深く考えたことなどなかった。加島は、本当はひどく冷酷なところのある男だ。過去の彼女たちを、情もなくあっさりと切り捨ててしまえるような。私に対しては、いままでそれを見せなかっただけだ。
 いつものやり取りとは違う、ひどく危ういラインに私は立っている。
 加島は、私をも切り捨ててしまうつもりだろうか。
 ――私だけは、嫌いにならないと言ったのに。
「……加島」
 どうしたらいいかわからなくて、私は加島に手を伸ばした。
 途端、強い力でその腕をつかまれ、私はソファーの上に投げ出された。
 いつの間にか、私は仰向けの姿勢のまま加島に見下ろされている。
 つかまれた両腕が、みしみしと悲鳴を上げている。馬鹿野郎、と思った。体格差と体力差を考えてほしい。痛くて怖くて、声を出すことすらできない。
 加島の顔が近づいて、荒々しく唇が重なった。
 私はぎゅっと目をつぶる。最低だ。最悪だ。何も考えられない。恐怖に涙の堤防が決壊して、ひっく、と私はしゃくりあげた。涙は、あとからあとから溢れ出してくる。
 泣き出した私をゆっくりと解放すると、加島は背を見せて吐き捨てた。
「同情されるぐらいなら、嫌われたほうがましだ」


 加島の、掠れたような声が、私の耳の中にこびりついて離れない。
 加島は傷ついている。そして、傷つけたのは私だという純然たる事実が私を打ちのめした。
 同情のような素振りを見せたのも、私が泣き出した事実も、加島を追い詰めただろう。
 ――私はただ、加島に嫌われたくなかっただけだ。
 信頼していた加島に裏切られたようで悲しかっただけだ。
 それなのに、弁解する間もないまま、私は卒業を迎えてしまった。
 加島とはそれっきりだ。
 苦い経験とともに、私は自分の至らなさを学んだことになる。


「子ネズミとライオン」に続く
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2007 09 16