「百瀬、あんなのやめて、俺にしとけ」
思わず言ってしまったのは、嫉妬で胸が悪くなったから。
あんな奴が、たとえ怒りといえど百瀬に強い感情を向けられている、だなんて。
ゴウン、と目の前の扉が再び閉まった。
雨の所為で体育倉庫内から出るに出られなかった俺たちの前に先輩が現れ、百瀬だけを連れて行ってしまったのだ。
俺は大仰に、はあーと息を吐いた。いままで息をするのを忘れていたかのように。
正直言って、ほっとした。たぶん、先輩には俺の動揺を見抜かれていたと思う。
心臓の鼓動が痛いほど速い。
あのまま薄暗い中に二人きりで閉じ込められていたら、正直言ってやばかった。
百瀬に言ったあの言葉は、ただの負け惜しみのようなものだった。
そのはずだったのに、それは思ったよりも百瀬を動揺させていたようだった。「冗談だ」と言ってしまえば、また元の鞘に収まったのかもしれない。
しかし、できなかった。たとえマイナスの方向にといえど、百瀬の感情を揺さぶっていることに、俺は密かに満足を覚えていたのだ。
百瀬は、動揺すると顔が赤くなる。それはたぶん、動揺している自分を恥じているんだと思う。その顔を俺が好きだなんて、思ってもいないだろうけど。
さっきだって、ちょっとからかってやろうとしただけなのに、百瀬が傍に来た途端理性が吹き飛んでしまった。髪が触れるほど近くに寄るなんて反則だと思う。
俺はもう、自分をコントロールできる自信がない。
「なんで来るかなあ……」
傘を持って引き返してきた百瀬を見て、俺は大げさに溜息をついた。そんな俺を見て、百瀬は柳眉を顰める。
「あんたね、せっかく迎えに来た相手に対して、その態度はどうなのよ」
「なにされたって知らねえぞ」
にやっと笑って茶化した所為か、百瀬はそれを本気にはとらなかった。
「冗談はいいから」
行くぞ、というように傘を掲げて俺を誘う。諦めた俺はその傘を取り上げて、百瀬に差し掛けた。
並んで歩く百瀬は、なにかが吹っ切れたかのように落ち着いている。
それが少しだけ悔しくて、俺は百瀬の軟らかい頬っぺたを指でつついた。
「顔赤いのは、直ったのか」
「うるさい」放っといて、というように百瀬は俺の手を叩き落とす。
だから、言ってやった。
「知らないだろ、俺がそういう顔気に入ってんの」
百瀬がかっと顔を赤らめる。くすくす笑ってやると、百瀬は言った。
「知らないでしょ、私がこんな顔するのはうさみの前だけだって」
途端に思考が停止した俺の口から滑り出たのは、間抜けな返事。
「そ……っすか」
「そ、っすよ」
ふーん、とまたも間抜けに返して、あとは黙って歩いた。
なんだそれ。期待していいのか。でも、下手に追い詰めたら、臆病なこいつは逃げてしまうだろう。
「止んだら、虹、出るかな」
百瀬が雨を見上げながら、ぼそっと言った。どう考えても、話題に困ってひねり出した文句にしか聞こえない。俺は口の中で軽く笑って、返事をした。
「そうだな、もし出たら部室からでも見えんじゃねえの」
とりあえずは、いつもどおりに。
<了>
2006 06 16