雨に降られたその足で

「あんたなんか、ふられてしまえ!」
 ぱっしーん。
 手首のスナップを利かせすぎた平手打ちが、小気味よい音を立てて目の前の頬にクリーンヒットした。
 私は今しがた活用した右手をぷらぷらと振った。力いっぱい人を殴ると、自分にもダメージが来るのだ。こんな男相手にもったいない、と苦い気分になったがそれはいまさらだろう。
 しかしいま問題なのはそんなことではない。
 女に殴られたみじめな男がすっとその目を細めた。途端に、空気の色が変わる。
 そのとき、教室の戸が開けられる、ガラッという音がやけに大きく響いた。
「よう百瀬ももせ、いつも早いな。悪いけど数Bの教科書貸してくれ――」言いかけた宇佐見うさみは、目の前の不穏な状況にやっと気づいたらしい。「なんだ、取り込み中?」
 ちろり、と目の前のロクデナシを見る目に、冷ややかなものが宿っていた。文化部とはいえ、一八〇を超える身長とその体格に、ロクデナシは気圧されたらしい。
 負け惜しみのように睨んで、ロクデナシは逃げ出した。その途端、宇佐見の雰囲気がいつもの柔らかいものに戻る。げ、もしかしてさっきのは白々しい演技で、その前の会話を聞かれていたんだろうか。
「あの、うさみ――
 ああやだやだ。どう説明すりゃいいんだ。本当のことはあまり知られたくないのだ。
 しかし振り向いた宇佐見は、こっちに口を開く隙を与えなかった。
「百瀬、あんなのやめて、俺にしとけ」


 あんなことを言われて平静でいられるわけがない。
 私は、宇佐見を避けて避けて避けまくった。こんなときばかりは同じ部活なのが恨めしい。救いはクラスが違うことぐらいだろうか。
 しかしなんとか二人っきりにはならずにすんだものの、接触をゼロにすることはできなかった。
 宇佐見って、あんな笑い方してたっけ。あんな綺麗に爪が手入れされてたっけ。人の頭をぐしゃぐしゃかき混ぜたあとでぽんぽんと叩くように触るそのしぐさが気になってたまらない。
 宇佐見はいつもどおり、だと思う。なんだかいろんなことがよく見えすぎるのは、私の意識が変わった所為だ。
 私は宇佐見に、「あれ、冗談だった?」と訊けずにいる。こっちの事情は簡単だ。私の大事な友人があの馬鹿男に二股をかけられたので、一発殴ってやろうと思った次第。宇佐見は私を心配したんだろうと思う。そのときの私の様子はいつになく感情的だったから。
 私が宇佐見を避けているのは、はっきりさせられたくないからだ。あれが本気だったとして、それを受け止めるのが怖い。宇佐見が真剣な目をして私を見るのかと思うと怖い。あれが冗談だったとしても、宇佐見は軽々しくそんなことを口にできる奴なんだと思いたくない。
 と、ここまではまだ平穏な日々だったのだ。
 まさか、思いもかけず二人っきりになる機会がめぐってくるだとは想像もしなかった。


「……なんでうさみがここにいるの」
 突然の驟雨に遭って、雨宿りをすべく駆け込んだ体育倉庫に誰かが、もとい宇佐見がいるだなんて思ってもみなかった。マットレスの上にあぐらをかいた宇佐見は、私を見てにやっと笑う。よく見てみると、奴はジャージを着たままだった。
「今日、日直だったんだよな。そんで、六時間目の体育のあと片づけを命じられたわけだ」
「あー、わかった。終わったら、疲れて寝ちゃったのね」
「そうそう、したらホームルーム終わってんだもんなあ。やべ、部活だ、と思ったら雨が降って出るに出られず。で、百瀬はどうしたんだ」
 うわ、やっぱりこっちに振るのね。でも思ったよりもいつもどおりの軽口の応酬ができて、私は少しほっとした。
「体育館裏に呼び出されて、用事が終わったら降ってきたのよ」
 ふーん、と宇佐見はにやにや笑いを引っ込めない。「コクる奴も哀れだなあ、冷たく振られて」
 わかってるなら言うな、と私は宇佐見を睨み付けた。その手の私の返事は決まっている。あ、ごめん、あんたに興味ないの。で終わり。
「な、百瀬、もうちょっとこっち来いよ」と言われて素直に従った私は後悔した。
「ちょ、うさみ、なにすんのー!?」
 なんだ、どうなってるんだ。私は宇佐見の腕の中にいた。宇佐見の指が私の髪に差し入れられ、首筋を撫でることにぞくっとする。
「なにって、おまえ降られたから冷えてんだろ。あっためてやってんの」
「いらないから、そういうの」
 その声がばかみたいに震えていた。それは、寒い所為じゃない。
「嫌?」
「嫌っていうか、変な気持ちになるからやだ。あんたといると、普段どおりじゃなくなる」
 突っぱねたつもりだったのに、宇佐見は私の肩口に顔を押し付けて低く笑った。それに腹を立て、宇佐見の胸をドンと叩いてやったら、やっと奴は笑いを引っ込めた。
――百瀬らしいな」
「え?」
 私らしくないわよ、こんなことで取り乱すなんて。
「おまえさ、本当はちょっとしたことにでも反応するし、すごく臆病だろ。普段は見栄張って隠してんだよな」
 びくり、と私の肩が震えた。やだ、なんでそんなこと知ってるのこいつ。それは、私のことを見てた、と自惚れていいんだろうか。
 たぶんいま、私の顔は真っ赤だ。熱く火照ったそれを見られたくなくて、これ以上そのことを考えたくなくて、私は宇佐見を突き放そうとした。
 でも振りほどいて押し放したはずの宇佐見はびくともせず、床に仰向けに倒れてしまったのは私の方だった。
「なにやってんだおまえ、大丈夫か?」
 宇佐見が顔を覗きこんでくる。うわ、やめて、この構図っていうかシチュエーションっていうか、その体勢で顔を近づけないで欲しい。必死に宇佐見の顔を遠ざけようとしていたら、倉庫の扉が開いた。
 慣性の法則に従って全開まで横滑りした扉が、ドーンと鈍い音を響かせる。
「げ、先輩……」宇佐見がげんなりした声を出す。
 え? と首を反らして入り口を見てみると、部内の垣内かきうち先輩が立っているのが逆さまに見えた。
 すたすたすた、と先輩はこっちに近づいて、手に持っていたバレーボールをぽいと籠に放り込む。先輩、またボールをくすねて遊んでいたのね。運動部並みの体格と運動神経を持った垣内先輩は、昼休みによく運動部の連中と遊んでいるのだ。
 そのまま出て行くかと思われた先輩だけど、入り口でこっちを振り向いて、手にした傘を掲げてみせた。
「もも、入ってくか?」
「入ります入ります」
 これ幸いと私は先輩に駆け寄った。
「先輩、過保護すぎ……」という宇佐見の呟きは聞かなかったことにする。


 私は先輩とてくてく歩いた。興味がないだけなのかもしれないが、いつも先輩は何も聞かずにいてくれるからありがたい。
 宇佐見はどうしてるかな。後ろ髪をひかれるような思いを味わいつつ、私と先輩は校舎までたどり着いた。先輩は、いままで自分が持っていた傘を、今度は私に押し付ける。えーと、なんですかこれ、持てってことですか。
「それ、貸してやるから、宇佐見迎えに行って来い」
「先輩、過保護……」じゃ、なくて。なんでですか。
「合奏までに戻ってきたら、遅刻は見逃してやる」
「せ、先輩っ、ちょっと」
 呼び止めようとしたが、ひらひらと片手を振って、薄情にも先輩は部活に行ってしまった。
「どうしろっていうの……」
 傘を持ったまま、私は立ち尽くしてしまう。
 迎えに行こうかな。そしたら宇佐見と相合傘。その光景を想像したら急に、息が苦しくなって胸がどきどきした。うわ、やっぱり、これってあれなのか。
 その気持ちを確かめるために、私はまた雨の中へと足を踏み出した。

<了>


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2006 06 10