-----09



 自室のベッドに潜っていたミレナは、夜中にふと目を覚ました。
 月の光に誘われて、夜風に当たろうかと塔の屋上を目指す。かつんかつんという靴音が、実際は微かなのだろうが、辺りの静寂に響く。壁に沿って上に伸びている階段を上ると、扉に遮られていない外が見えた。
 屋外への境界線を踏み越えようとしたとき、ミレナはそこにディハイルがいることに気づく。
 夜の寒気にはたはたとマントの裾がなびいてはいたが、彼の横顔は月明かりに晒されていた。彼はただ静かに月を見ていた。その光景に、ミレナは咽喉の奥が苦しくなった。
 足を踏み出せなかった。彼は、顔を隠してはいない。ここは唯一、彼が開放的になれる場所なのだ。彼は無表情だったが、そのたたずまいが全身で孤独を訴えていた。
 ここは彼のテリトリーだ。私が入ってはいけない――
 そう思ったとき、当のディハイルが振り向いた。ミレナはぴくりとも動けない。
 しかし目が合ったディハイルは微笑を浮かべた。マントの端を広げ、こちらへ来いと促している。
「目が覚めたの」
 傍へ寄り、言い訳じみたことを洩らしたミレナを、ディハイルは自分もろともマントでくるみ込んだ。
 彼の背丈は、ミレナと指一本分ほどしか変わらない。細身の身体に感じる少年っぽさに、ミレナの鼓動が少し速まった。
「もう、ここの暮らしには慣れたか? なにか、要望があれば聞くが」
 宵闇に吸い込まれてしまいそうに静かな声だった。
 そのことになぜだか涙が出そうになって、ミレナは彼の服の端を握り締める。
「そうね、実はちょっと退屈なの。馬に乗りたいなあ……だから、一緒に遠乗りに行きましょう!」ディハイルの顔を見るのがなんだか怖くて、口を開かせまいとミレナは畳み掛けた。「あなたどうせ、ほとんど外に出ないんでしょ? そんなことだからこんなに生っ白いのよ。私、貧弱な夫なんて嫌だからね。あなたは私と行くの」
 その剣幕に押されたのかディハイルは瞠目したが、すぐに相好を崩してくすくすと笑い出した。
「ああ、そうだな、行こうか」
 彼が断らなかったことに、ミレナは安堵の息を吐いた。

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「風が出てきた」
 嫌な風が吹いている。馬上のミレナは振り向いて、ディハイルに帰途を促した。
「嵐が来るな」
 天を仰いでディハイルがぼそりと言った。それを聞いたミレナは慌てて馬首を返す。
 二人は馬を走らせ家路を駆けた。その背中を、ごうごうと黒い風が追ってくる。
 ぱたっ、と頬に雨粒が当たった。
 それを合図に、突然勢いを増したかのようにばたばたと激しくなった雨が服を染めてゆく。
「急がないと――
 ミレナが口を開いたそのとき、ピシャッと白い閃光が満ちた。
 二度、三度と追い討ちをかける稲光に、ドドーンとすさまじい音がして、辺りの大気が震えた。
 こんなことですくんでしまうほどミレナは軟弱ではない。しかし彼女の乗っている灰色の雌馬は勝手が違った。刹那後足立ちになったかと思うと、馬首を巡らせて逆走しだしたのだ。
「止まりなさい!」
 雨に目を霞ませながら、ミレナは手綱を握り締めた。しかし怯えて狂乱している馬には命令が伝わらない。
「ミレナ」
 焦燥の滲む声にミレナは振り向いた。彼女を追って馬を駆ったディハイルが肉迫している。
 しかし、その途端手綱を制御しかねて、ミレナは馬上から跳ね飛ばされた。
「ミレナ!」
 伸ばした手が、ミレナの腕を捕らえる。
 だがディハイルの華奢な身体ではその体重を支えきれず、馬上から滑り落ちた二人は崖下へと呑み込まれていった。

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 激しい雨が顔を叩きつけ、服も靴もどろどろになっていた。
 気を失っていたのは一瞬だったらしい。
 呆然としたままミレナは身体を起こす。見上げると、自分たちが落ちてきた痕跡が見て取れた。そこは崖というよりも急斜面だ。滑り落ちた跡がまだ微かに残っていた。
「ディハイル? ――ディル!」
 ミレナは横に転がっていたディハイルを揺り動かした。しかし返事がない。
 彼女は、自分がさっきまで彼の腕を下敷きにしていたことに気がついた。彼はミレナを腕の中にかばっていたらしい。
「ディル」
 不安になってミレナはディハイルの胸に耳を押し付けた。心音に問題はないようだ。頭を打ったらしく意識がないが、顔色もさほど悪くはない。ただ、額が切れてわずかに出血していた。
 ミレナはディハイルの身体を起こし、腕を自分の首に引っ掛けて彼を立たせた。いつまでもここでこうしているわけにはいかない。こんなときだけは彼が子供で良かったと思った。大の男を運ぶ自信などはない。
 やっとのことで小さな洞穴を見つけ、ミレナは引きずるように運んでいたディハイルを下ろした。
 嵐が収まるまでは帰れそうにない。ディハイルの魔法をあてにするにしても、彼は未だ目覚めないのだ。ミレナは、冷え切って白くなっているディハイルの頬にそっと触れた。
 迎えは来るのだろうか。そもそも、彼女たちを探しているのだろうか。
 主人のやることに一切頓着しない彼らは、帰って来ないことすら主人の気まぐれだと思っているのかもしれない。――それとも気づいていないのかも。彼らの関心は、ディハイルにあるのだろうか。
 ミレナは心細くなって、膝を抱えたままぎゅっと縮こまった。
 ディハイルはいつもこんな思いでいたのか。なまじ他人の手を借りなくてもことが済んでしまう彼は、極端に人との繋がりが薄い。
 ミレナは、月を見ていたディハイルを思った。この人は、泣き方すら知らない。
 軽く息をついたミレナは、ずっしり重く濡れそぼった服の所為で悪寒を感じた。
 ――火を熾さなければ。
 焦燥の合間に時間が過ぎてゆくことを思って、ミレナはディハイルを置いたまま、洞穴を後にした。
 雨はまだ、みそうにない。

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 ここは森の中である。
 小屋でも見つかりはしないかと、ミレナは辺りを探し歩いた。人の住んでいる家でなくていい。狩猟小屋があれば、マッチや薪があるはずだ。運がよければ、食糧も手に入る。
 そのうちに歩き疲れ、ただ足元を見て黙々と歩いていたミレナは、ふと目の前がぼんやり光っていることに気づいて顔を上げた。
 真っ赤な灯りがゆらゆらと揺れ動いて、こちらへ向かってくる。
 それはミレナの前まで来て、ぴたり、と止まった。
「あんたが、ミリエンナだね?」
 ミレナは、咽喉の奥が張り付いたかのように声を出すことができなかった。
 そこにいたのは小さな老婆だ。くしゃくしゃの白髪をして赤茶色のショールをまとい、ランプを掲げ持った老婆は、呆れるほどに小さかった。背丈は、ミレナの腰ほどもない。
「……あなたは、妖精ですね?」
 震える咽喉からミレナは声を絞り出した。
「あんたに話がある。ついてきな」
 そう告げて、老婆はくるりと背を向ける。
 ミレナは、その無言の圧力に従わざるを得なかった。

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 暖炉の火にあたりながら、ミレナは熱いお茶を啜っていた。ひと口でお腹の底から燃えるように身体が温まる。
「……あの」
 ミレナは老婆に声をかけた。言われるままにテーブルにつき、ティーカップを受け取ったミレナだが、ただ安穏とそれに甘えているわけにはいかなかった。
「あの子が心配なんだね?」大事ないよ、と老婆は言った。
 それが誰を指すかは言うまでもない。その声を受けて、ミレナはこくんと頷いた。同時に少しだけ、安堵した。
 王子と妖精の関わりを、ミレナは快く思っていない。それはある意味で被害者と加害者の関係だからだ。この老婆もディハイルを害する者かと、ミレナは密かに憂えていたのだった。
 対面に座す老婆は、ミレナをじっと見つめていたかと思うと、おもむろに口を開いた。
「ミリエンナ。この国はね、ずっとあんたを待っていたんだ」

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「待っていたって、私をですか……?」
 なぜ自分なのか。それを呑み込めず、ミレナの思考は淀んだように滞った。
「ああ勘違いするんじゃないよ。ミリエンナという娘を待っていたわけじゃない。この国は、王は王子は、心の奥底でずっと誰かを待っていたんだ。そうして現れたのがあんただったのさ」
――それは、ディハイルの呪いとなにか関係があるのですか」
「大有りさね。ただ、あれは呪いじゃないよ」
 その衝撃的な言葉に、ミレナはしばし固まった。
「あれは均衡さね」老婆は静かにそう言った。「この国はこのままでは滅びる運命にあった。業が深すぎたんだ。だからそれをひとりの人間に背負わせたんだよ。この先起こる、この国の災厄のすべてを、あの子がその身に負っているんだ。あの子が災厄を呼ぶんじゃない、あの子の心が折れたときに、すべての災厄はこの国を襲うだろうね」
 ミレナは拳をぎゅっと握り込んだ。爪が食い込もうとも、そうしなければ悔しさと怒りで涙があふれそうだった。
――なんて、なんてことを。それを、何の罪のない、産まれたばかりの赤子に負わせたというのですか」
「世界の理のバランスを保つためにそうしたのさ。それをしたのはあたしじゃないからね、あたしに怒ってもしょうがないさ。――ただね、あの子はその負の力すべてを受け止められるだけの器を持っているんだ」
「器とは、ディハイルの素質のことですか。それならなぜ、彼は――ディルは苦しんでいるのです」
 それまで淡々と語っていた老婆だが、ミレナの問いにふっと息を吐いて軽く目を伏せた。
「あれを呪いにしてしまったのはあの子自身さね。あの子の心がその身を縛っているんだ。あの子も災厄を呼ぶのは自分だと思っている。未来が来るのが怖いんだ。だから、それを拒絶した毒が、あの子を蝕んでいるのさ」
「では、彼の周囲の人々が、彼を苦しめてしまっていたのですね……」
 ミレナは唇をきり、と噛んだ。ああ、ディルに会いたい。彼の傍にいてやりたい。
「だから、あんたみたいな子が必要なんだ。さあ行きな。行って、あの子に未来を取り戻しておやり」

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 ミレナが洞穴に戻ると、そこから光が漏れているのが見えた。
「ディル、ああ、起きた? 火を熾したのね。せっかく、妖精から火種をもらってきたのに」
 ひょいと顔を覗かせたミレナはディハイルに近寄り、火にあたる彼の傍に腰を下ろす。ディハイルは目を丸くして、驚いたようにミレナを見ていた。
「なあに、変な顔をして」
「……いや、そなたは私を置いていったのかと」
 くらり、とミレナは軽いめまいを感じた。せっかく優しくしてやろうと思っていたのに、どうしてこの人は自分を苛立たせることしか言えないのか。
「どうして私がディルを見捨てるなんて思ったのよ。あなた、私が何のためにこの国に来たのかわかってる?」
 ディハイルは、不安そうにちらりと横目でミレナを見た。どうやらこの人はいちいち言って聞かせないとわからないらしい。とりあえず、ミレナは本題を切り出した。
「あのねえ、あなたのそれは呪いじゃないんだって。災厄を呼んだりもしないんだって。自分を縛るのをやめてすべてを受け入れれば、解放されるものなんだって」
 そう言った途端、重い沈黙が辺りを支配した。無理もない。ミレナとて、それを聞いたときは信じられない思いと理不尽さへの怒りに駆られたのだ。
「いまさら……それが何だというのだ。そうして受け入れて、何が変わるというんだ? 私に、未来など、あるものか」
 その声に、怒りが垣間見えたことに、ミレナは驚いた。彼はすべてを諦めてしまって、何も感じないと思っていたのだ。しかし、それも自明のことだった。ディハイルはいままですべてを我慢して、苦痛を呑み込んできた。その生き方が彼のすべてだったのに、今度は押し付けられたそれを捨てろと言う。暗い怒りが込み上げたとしても当然なのだ。
「でも、この先、どんな未来が待っているかなんてわからないわよ」
「私は――未来など要らない」
 ぱしん、とミレナの手がディハイルの頬を打った。
 ディハイルは叩かれた頬を押さえて、ミレナを見た。その顔が驚きに満ちているのは、ミレナがぼろぼろと涙をこぼしていたからだろう。
「ばか、どうしてそんなことが言えるの。あなたが要らないって言っているのは、捨てようとしているのはねえ、私と一緒に生きる未来なのよ!」ミレナは涙を拭おうともせず、ディハイルを強く睨み付けた。「それを捨てると言うのなら、あなたといる理由はないわ」
「ミレナ!」
 背を向けて立ち去ろうとするミレナを、ディハイルは引き止めてその腕にかき抱いた。
――欲しい」その未来が。

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 振り向いたその頬に残る涙の跡を、ディハイルは服の袖でそっと拭う。
 ミレナはつとディハイルの頬に指先を伸ばした。
「ディル――あざが消えてる」
 そう言うと、ディハイルはいまにも泣きそうな顔で微笑んだ。
 パチパチと火の燃える音だけが響く。外は辺りが判別できないほど暗くなっていた。
「今夜はここに寝泊りするしかなさそうね。そのマント、二人分入れるわよね?」
 そっとディハイルを押しのけてミレナが言うと、彼は低く笑った。なに、とミレナが軽く睨み付けると、ディハイルは窺うようにこちらを見た。
「『床は別にする』――のではなかったのか?」
「変なこと覚えてるのね。こういう場合はいいのよ」
 ミレナの頬が赤く染まった。ええ、子供だなんて思ってもみませんでしたからね。
 二人は火の前に横になって、マントにくるまった。おやすみ、と言ってミレナはディハイルに背を向ける。
 そしてまた朝が来るのだ。ミレナは目を閉じた。
 やっと、なにかの始まりが訪れたような気がしていた。

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 くしゅん、とミレナはくしゃみをした。自分の立てたその音に、ミレナの意識は覚醒した。
 見ると、洞穴の入り口から光が差し込んでいた。目の前の焚き火はすでに火が消えている。
 軽く身じろぎをしたミレナを、ディハイルの腕が後ろからそっと抱き寄せた。
「ごめんなさい、起こした?」ミレナが問うと、
「いや、ずっと考えていた」ディハイルの明瞭な声が返ってきた。
 どうやら、一晩中起きていたらしい。眠れなかったのだろうか。
 ミレナの問いかけるような気配に気づいたのか、ディハイルはその無言の問いに答える。
「陛下を、許さねばならないのかと」
「……許せないの?」
 起き抜けで頭が働かない所為か、何の話かがミレナにはよく呑み込めない。しかし、彼はただ話したいのだろうと思って、先を促すことにする。
「私は、陛下に受け入れられたいと欲しながら、どこかで許せないと思って憎んできたんだ。いま急に、その理由がなくなった気がして、どうしたらいいのかわからない」
――陛下は、ディルを愛しておられると思うの。やり方は間違っていたかもしれないけれど、あなたにお会いにならなかったのも、何もできない自分を思ってお辛かったのかもしれない」そう思うのは、ミレナ自身の心だ。「それに、陛下はディルを頼むとおっしゃっていたわ。きっと、あなたのことを心配してらしたのね」王は父親だから。
 しかし、ミレナにはディハイルの気持ちを無視することはできない。
「でも、許したくないのなら、許せとは言わないわ」
 そう言うと、ディハイルの腕が軽く震えた。
「本当は、陛下を――父を、許したいんだと思う。怒りはあるけれど、やっぱり、あの人は私の父なんだ」
「うん」
 なにかを吐き出したかのように息を吐いて、ディハイルはそっと、ミレナの背に頭を押し付けた。
「ミレナ――ありがとう」
 うん、と返事をして、ミレナは身体を起こした。隣でディハイルも起き上がる気配がする。
 向き合ったその顔を、ミレナは見上げた。
 同じぐらいだったはずの、彼の背丈が伸びているような気がする。
 ――じゃなくて……
 朝日に照らされたその顔は、成長しきった青年のものだった。
 ぽかんと口を開けたミレナの表情に気がついて、ディハイルは己れの身体を見下ろした。
「ああ、呪いが解けたようだな」
――呪いってそれのことだったの!?」
 彼が子供の姿だったのは、呪いの所為らしい。それなら姿を隠すのも道理だ。なにせ、国の者は彼の本当の年齢を知っているのだから。
「一応訊くけど……歳は?」
「今年で二十三になる」
 ミレナはくらくらとめまいがした。自分より五つも上だ。数々の無礼な振る舞いを反芻して、いまさらながらに赤面する。
「ミレナ」
「はいっ、な、なんでしょうか!」
「……なぜまた敬語に戻っている?」
「き、きき気の所為です!」
 ミレナはぜーぜーと息を吐いた。心臓がもたない。頼むからそんな目で見ないで。
 形のよい眉を顰めながら、ディハイルはミレナへと指を伸ばす。が、ミレナは思わずその手を払ってしまった。
「とっ、『床は別にする』お約束でしたよね!」
「いいと言わなかったか?」
「駄目です」
 ミレナの返事を聞いて妙な顔をしたディハイルだが、諦めたようにふっと息を吐いた。
「……まあいい。とりあえず、帰ろう」
 そう言って、踵を返す。
 そのあとについて歩きながらミレナは、将来の為政者にまずは『駆け引き』を覚えてもらわなければ、と思うのだった。

<了>


あとがき
back/ novel

2006 06 01