偽りの姫君

-----01



「姫、足許にお気をつけて」
 長身の近衛隊長が階段口で姫の手を取り促す。
 カツンカツン。階段を上って。
 ゆるりと手を離す。
 自室の前で、姫は半身をひねって近衛隊長を振り向く。ふんわりした髪が揺れ、伏目がちな目元に睫毛の濃い影が色を落とす。
 姫は鈴の声を震わす。
「ご苦労でした」
 パタリ。静かに戸は閉まる。
 カツンカツン。姫よりもずっと重い足音が遠ざかってゆく。
「ああ、もうー! 疲れたー」
 戸を背に、姫はずるずると床に崩れ落ちた。
「姉上、ドレスが汚れてしまいますよ」
 窓際の椅子に、王子が腰掛けていた。まだ可愛らしいといえる容姿の彼は、所在なげに両足をぶらぶらさせている。
「あら、ジェイド。来てたの」
 姫の顔は花が咲いたようにほころぶ。彼女の弟溺愛ぶりは有名である。彼と離れがたく、他国になぞ嫁ぎません、と言うほどに。しかし姫はもうお年頃。一国の姫がいき遅れなど物笑いもいいところである。
 王はのたまった。相手は臣下でいいよ、行かず後家になる前に結婚して、と。
「ミナ、これ元に戻して。早く早く」
 姫は彼女の教育係を勤める女官を呼ぶ。
「あらオーロラ姫。良く似合ってらっしゃるのに」
「その呼び名は嫌い、この髪型も嫌いー!」
 はいはい、と女官は姫のふわふわの髪をストレートに戻しにかかる。彼女はちょっとした意地悪を口にしたのだった。なにしろ、手間隙かけた大傑作を、いつも姫はすぐに壊そうとするものだから。
 そのあいだに姫はバシャバシャと顔を洗っている。ついでにぶつぶつと文句も言っている。
 ふわふわの髪は嫌い。
 重たい付け睫毛は嫌い。
 こてこての厚化粧も嫌い。
 大人しい姫君なんて大っ嫌い。
「姉姫様」
「なにかしら、弟殿下」
 王子がこう呼びかけるときは、大抵ろくなことを言わない。
 鏡から目を離した姫は、王子を振り返る。化粧栄えがする顔立ちは、化粧を落とすとすっきりさっぱりしている。深窓の姫君の姿はすっかり消えうせ、むしろ健康的な町娘、といったてい
「女の人って、怖いですね」
「おだまり」

-----02



 ガンガンガン。やかましいノックの音が響く。
「リアー?」聞きなれた青年の声が姫を呼ぶ。
「いいわよ、ティオ、入って」
 いつものように遊びにきた青年を、姫は部屋に迎え入れる。平均的な体格の青年がするりと部屋に入る。彼は姫の乳母の息子。つまり姫の乳兄弟である。ちなみに、二人の間に恋愛感情などは存在しない。
「ちょーどいいところに来た! ちょっと聞いてよ。まだ非公開ながら、婚約者候補が決まっちゃったんだけど」
「あー、はいはい」いつものように始まる愚痴を乳兄弟は受け流す。そこでくるりと王子に向き直り、「ディドも聞いていいのか?」
「かまやしないわよ。なにしろ未来のお義兄様の話ですからねー」
「やっぱり国内の方ですか。どなたになったんです、姉上?」
「ヒースケイド。もしくはウィーダリオン。なんか正反対タイプっぽいんだけど」
 さらりと言いきった姫に、乳兄弟はうっ、と声を洩らす。
「ヒース隊長にウィード先輩っすか……」
 なにを隠そう、乳兄弟は近衛隊員である。ヒースケイドは近衛隊長、ウィーダリオンは貴族ながら隊の一員であった。
「なんか、ものすごい癖のある人が候補にあがっちゃったんだな」
 もごもごと言った乳兄弟の言葉を、姫は聞きとがめる。
「そうなの? ヒースケイドは真面目でお堅い人、ウィーダリオンは気配り上手な優男、って印象なんだけど」
「なんかリアの素顔もそうだけど、無知って幸せ……」
「なんですって」と言いつつ姫の足は既に攻撃を終えていた。
「わかったわ、自分で確かめる」姫は乗り気である。
「ちょっ……リア! ディドも止めて」
「僕は姉上がいいと言うのなら、なんでもいいです」
「よくぞ言ったわジェイディアード! それでこそ王子よ!」
 乳兄弟は異様に盛りあがる姫に、ただの放任主義じゃん、と言いそびれた。

-----03



「下働き、新人のリュアン。俺の幼なじみです」
 姫の乳兄弟は、簡単に彼女を紹介した。姫は、よろしくお願いします、とぺこり頭を下げる。
 彼女は下働きの少年に扮していた。婚約者候補達の素顔を知るためである。その雰囲気も立ち居振舞いも、とても姫君には見えない。なにしろ姫の変装には年季が入っている。というよりむしろ、こちらが素である。姫姿のほうが『変装』で、平民姿が『地』なのであった。
 お転婆姫は、乳兄弟といつまでも遊び駆け回るために、その方法を選んだのである。髪形を変え、染め粉で髪色を少し変え、化粧で顔を変える。伏目がちにして、強い瞳で相手を制しさえしなければ、ばれることなどまずありえない。それほどまでに姫の変装は完璧で、また普段の姫は元気な娘なのであった。
 食堂での給仕も、慣れてしまうと結構楽しい。長い髪は帽子で隠してあり、正体を見顕わされないこともまた、楽しかった。くるくるとよく動く姫は、意外と働き者であった。
「おい、ちびすけ、こっちにも酒だ」
「はいはい、ただいま」
 不遜な呼びかけに損なわれた気分を、微塵も表さぬ笑顔で姫は振り返る。その笑顔が一瞬、凍り付きそうになった。
 姫を呼んだのは隊長ヒースケイド、その人だったのである。
「……どうぞ」と姫は空のグラスと満杯のそれを取り替える。
「ちびすけ、お前も呑め」なにやら隊長はできあがっている。
「いえ、私には給仕の仕事がございますので」
 姫のかわしは堂に入っている。普段、貴族と水面下のやり取りをかわすため慣れていた。
「まあいいじゃないか、飲みなさい。酒のひとつも呑めないと、女性にもてはしないよ」
 さらに姫を引き止めたのは貴公子ウィーダリオンである。
「子供に酒を勧めないでください」
「つまらんな、ちびすけは。隊長の勧める酒が呑めないと、こういうわけか」
「いやあまったく、隊長も嫌われたものだねえ。最もこのおちびさんは、私の誘いすら断ろうとしているわけだけど」
「っすみません! こいつほんと酒駄目なんで」
 窮地に追い込まれた姫に、間一髪、乳兄弟が救出に現れた。彼は姫を背後に隠し、そのまま目立たぬ隅へとずるずる後退する。
「なにあれー!」憤る姫に、
「あの人達は、ああやって相手をからかうのが趣味なんだ」と乳兄弟。

-----04



 長身のお堅そうな隊長は、口調の乱暴な大雑把者だった。
 物腰柔らかそうな貴公子は、のらりくらりの狸野郎だった。
 これだけどぎつい本性が、女性に対してはまったくばれていない。第一に、近衛隊員に暗黙の緘口令が敷かれているためであろう。これを破るとどんな恐ろしい目に遭うかわからない。ちなみにその恐怖ゆえ、実行した勇者は未だ現れず。第二に、ばらしてみてもどうせ、彼らの盲目のファンがそれを信じるわけもないのである。
 それに相応しいかのように、彼らは色事が大好きであった。花街、娼館の話題を臆面もなく口にするのである。もちろん被害者は姫であった。彼らはより下っ端から餌食にするのである。
「……ヒース様、ウィード様。もっと違う話題を振ろうとか思わないんですか」
「堅いな、ちびすけ。何事も経験だ。いっぺん、男娼として売ってきてやろうか、お前」
「ははは、それもいいね。私が最初の客になってあげようか」
「隊長、先輩、その辺で!」
 慌てて乳兄弟が割って入るのが日常になってしまっている。
「えーと、私、洗濯がありますのでこれで」と辞する姫を、
「俺も手伝うわ」と乳兄弟が追いかける。
「いやいやいや、私、何しに来たんだか」
「や、もう、これ以上変なこと吹きこまれないうちにやめとけ。頼むから」
 心臓がもたねぇ、と乳兄弟の懇願口調は真剣である。
「だめだめ、第二段階があるんだから」
「第二段階?」乳兄弟は困惑顔。
「そうよ! 剣技を教わるの」姫はにやり笑う。
「……勘弁して」乳兄弟はがくりと頭を垂れる。
「嫌よ。剣を使えるようになって、ジェイドを護ってあげるんだから!」
「リア、そういうことはせんでいいっ。だいたい、そしたら女だってすぐにばれちゃうだろ」
「約束さえ取り付ければ、ばれたって平気よ」
 含み笑いの姫は、なにやら策があるようである。


next
novel