のんびり進展。

夕暮れの図書館

 大学での講義を終えた聡は、地元の駅から図書館へと向かった。
 部活もなく早めに帰宅できる受験生の美幸は、ここで勉強をしているはずだ。夕暮れの風が前髪を揺らし、聡の目を細めさせた。
 図書館の自動ドアが、ガーッと低い唸りを上げて開く。
 足音のしない絨毯を踏み歩き、聡は美幸のいる机まで静かに近づいた。大きな机が密集している中央寄りの場所より、本棚をいくつも挟んだ向かいにある、奥のこじんまりとしたスペースが美幸は好きなのだ。
 開いた参考書の上に両腕を組み、顔を半分うずめるようにして美幸は眠っていた。
 聡は美幸の前髪に手を触れ、そっと額へ唇を落とす。
 ひゃっ、と小さく叫んで美幸は目を覚ました。
「……起きたんか」
「お、起きますよ、こんなことされたらっ」
 額を押さえ、頬を染めたまま美幸は聡をねめつけた。どうやら、聡の気配で半分覚醒していたらしい。
「出るぞ」囁いて、聡はさっと身を翻す。
 勉強を教えてもらおうと思っていた美幸だが、今日は平静に聞ける気がしない。慌てて、散らかした参考書等を鞄に放り込み、聡の後を追った。
 聡は自動販売機の前に立っていた。
「どれがええ?」
 問われて美幸が近づくと、硬貨が投入されたことを示す赤いランプがともっている。眠ってしまって咽喉が渇いていたこともあって、遠慮なくオレンジジュースのボタンを押した。勿論、お礼を言うのも忘れない。
 出てきた缶を両手で持ち、美幸は火照った頬に軽く押し付けた。
「……先輩って、ああいうの、慣れてます?」美幸が言っているのは、先ほどの図書館内でのことだ。「女の人と付き合ったことないって、思ってたんだけどなあ」
「ちゃんと付き合うんは、初めてやけど」
 普段は美幸の恋愛ペースがのんびりなこともあって、なかなかそういう雰囲気にはならない。だが、面と向かって本人の口から「付き合っている」宣言をされて、美幸はどぎまぎする。
 その所為で一瞬忘れそうになった。聡の告げた、聞き捨てならない一言を。
「ちゃんと、ってどういう意味ですか。本気じゃなければあるってことなんですか」
 途端に硬い雰囲気になる美幸を見下ろして、聡は呆れたような声色を放つ。
「おまえ、おれのことなんやと思っとうわけ。おれかて普通の男なんやけど」
「だって先輩、誠意がない」
「やかましい」
 反駁しかけた言葉をばっさり切り捨てられ、美幸はむっとした。
「面倒な女で悪かったですねっ」
 勢いで言ったはいいが、瞬く間に心の中を後悔が満たしてゆく。聡はあれこれ穿鑿したり口出ししたりする女をひどく嫌っている。聡の淡々とした語り口調から推し量って、恐らくは相手の方から迫ってきた上での、割り切った付き合いだったのだろう。
 美幸は不安だったのだ。自分が、聡の嫌う条件から完全に逸脱しているという自信がない。それなのに、本気でなくとも付き合えると聡は言う。しかしそれを口にすることは出来なかった。聡に嫌われたくはない。
 ひとりで勝手に落ち込んでいる美幸に、聡は手を伸ばして柔らかく頭を撫でる。
「ど阿呆。美幸のことでややこしいことなんてあるか」
 そのひとことで、海ほどに落ち込んでいた美幸の気持ちは急浮上した。
「あのですねー、先輩」
「なんや」
「こんなこと私が言うセリフじゃないってことはほんとにとってもよくわかってるんですけど」おずおずと美幸は上目遣いをする。「それって、のろ気ですよね」
 ――その言葉で頬を赤く染めたのは、聡の方だった。


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2006 06 24