-----06



 山の端が、淡く染まる。輪郭は暈けて、黄の光が隅々を支配していこうとする。空気は清く冷たく、喉から耳へも浸透するように。足下ははっきり見えるのに、手探りの先は夢の世界のようで。朝靄に覆われる。
 ――夜明けだ。
 じゃり、と音をたてて歩みを止める。
 ――何も説明せずに来てしまった。
 身体のほうはすっきりとして健康なのに、精神は少しだるい。このまま何もかも終わってしまってもいいかな、ということをちらと考える。軽い斜面を見上げ、ひとつ首を振るとまた歩き出した。
「だめだ、生活かかってんもんなぁ」
 軽口を叩き、顔を上げた。
 やっと、本来の調子が戻ってきたみたいだ。
「さて行きますか」
 フェイドは腰に細身の剣を帯びただけの軽装である。朝の寒さに対応して、外套を羽織っているぐらいである。それももうすぐ必要としなくなるだろう。素早く動くのには纏わりついて邪魔だからだ。
 敵はもう来ているようだ。前方に黒く人影のようなものが見えているだけでなく、負の流れを感じるのでわかる。
 慌てず騒がず、わざと音をたてているかと思えるような軽率さで、フェイドは相手に近づいた。
「よぉ、待たせたか?」
「いや。わざわざ殺されに来るとはご苦労なことだな」
 相手はくつくつと笑った。純粋魔族である。人型であるといえばそうだが、牛に似た大きな頭をしている。身体のこわい毛も、人というよりはまるで獣だ。
「印は隠さんのか?」
「結構蒸れるんだよな、隠してると」
 にやりと笑って、フェイドは頬に残る痕をすっと指でなぞった。印を見せつけて自分を標的とさせるためである。
 相手は早速仕掛けてきた。眼に尋常でない光が宿っている。その眼を見ると、フェイドの動きが急に重くなった。
「動けるだけたいしたものだ」
 そう言いながらも相手は鼻で笑う。どうやら金縛りらしい。突進してきたかと思うとフェイドの鳩尾に拳を叩きこむ。ふっ飛ばされたフェイドは、その勢いで背中を木に強かに打ち付けた。
 もう一発、と相手は二度目の突進を試みる。動けないフェイドは後ろに飛んで勢いを殺すことも出来ない。直接木に叩きつけられる衝撃は大きいだろう。フェイドは顔を上げると、上半身を起こした。
 ぶん、と魔物の腕が唸る。
 ――手応えはなかった。
「何っ!?」
 外套が魔物の腕に絡み付くが、フェイドは既にそこにはいない。とん、と軽い衝撃があって、見るとフェイドが横に薙いだままのかたちの腕に乗っていた。剣を抜いて、上段に構えている。
 魔物はフェイドを振り落とそうとする。しかし、自分の身体はぴくりとも動かなかった。
「な――
 何故、と発する前にフェイドが答える。
「眼力を返すぐらいなら、おれにだってできるんだぜ」
「そんなはずは――
「見せてやろうか?」フェイドは不敵に笑んだ。
 みしっと音がして、フェイドの肩が盛り上がった。肩から腕、胸の筋肉が二倍ぐらいに膨れている。瞳の色が変わって、爛々と赤く輝いた。口の端からは牙をむき出している。何よりも驚愕すべきは彼の額だった。真中がばりっと破れて、そこにぎょろりと第三の眼が光った。
「邪眼……魔族、か」
「ま、そういうこと。低級だけどな」
 楽しそうにフェイドは口の端をぺろりと舐めた。
「じゃ、いただきまーっす」
 逆光で表情が消えた中、光る眼が魔物には悪魔のように思えた。

-----07



 太陽は既に朝の光を振りまいていた。
 ずるずる、ずるずる。
 宿へ帰るフェイドの足は重い。外套を惜しげもなく道に引きずっている。血溜りを踏み越えた靴跡に、土に塗れた外套が通る。服は黒ずんだ血に汚れ、頬にはひきつれたような罪人の印。
 朝方、人通りが多くなる前の時間だが、行き交う人は道を譲り好奇の目を向ける。しかし、フェイドには自分の身なりを振り返る余裕がない。終始、疲れきったような瞳を足下に向けるだけだ。前髪が流れて顔に影を落とし、丸まった背中が寂しげである。
「参ったなあ……」
 大きな溜息と共に、フェイドは呟いた。
 怪我をしたわけでも、疲れているわけでもない。足取りの重さは、心の重さだった。今まで後回しにしてきた、現実への対応を迫られているからだった。
 ぐるぐると思考を巡らせている間に、酒場兼宿屋の前に着いてしまった。扉の前の数段の階段に、メイリンが膝を立てて座っている。フェイドが近寄ると、彼女はぱっと顔を上げて立ち上がった。
「お帰りなさい」
 メイリンは戸を開け、フェイドの背を押して店内へと促した。触れられて過敏に反応した彼の態度には微塵も気がつかない。フェイドは躊躇した所為で、たたらを踏んだ。
「伯父さん! お風呂沸いてる!?」
「沸いとるよー。なんじゃフェイドくん、すごい恰好」
「着替えも」
「いや、それは二階の荷物に……」
 いつもの調子が崩れているフェイドは、たやすく場の空気に飲みこまれそうになり、なんとか口をはさんだ。
 黙って出て行くのが一番かと考えていた矢先だったのだが、予定は完全に狂った。
「ぐずぐずしないのッ」
 奥を指差すメイリンの怒声を浴びて、フェイドは従うことにした。
「じゃ、お借りします……」
 下手に出た態度に加え元気のない後ろ姿を見送って、メイリンは伯父と顔を見合わせ首を傾げた。


 湯気を浴び骨まで染み透る熱さに浸かると、人心地がついてほっとした。こういうとき、生きていることを実感する。
 自分は死ぬ気はないし、この生き方を変えることもできない。
 ――それでいい。
「充電完了ッ」
 そういうことにしておこう。
 風呂から上がり、髪から滴るしずくを拭うとそのままタオルを首に掛ける。靴紐どうしを結んで手に取り、裸足のまま廊下をぺたぺたと歩いた。
 泊まっている部屋に荷物を取りに行くと、メイリンが窓際の椅子に腰掛けていた。荷物もまとめているし、ベッドも綺麗に整えてある。仕事を終えているところを見ると、フェイドを待っていたのだろう。
「嬢ちゃん」
 声をかけるとメイリンは顔を上げた。心なしか睨んでいるようにも見える。しかし、すぐに相好を崩した。
「なに、その恰好」
 フェイドは自分の恰好を省みた。髪はタオルで掻き混ぜた所為でぼさぼさだし、上は肌着のみで足は素足である。風呂には入ったが手にした靴は泥に塗れている。どうも彼女には汚い恰好ばかり見せているようだ。
「みっともねぇかな」
 フェイドはメイリンから少し離れたベッドの縁に腰をおろした。荷物から上着を引っ張り出し、肌着の上から着る。手櫛で髪を整えると、頬にガーゼを貼りなおした。印を隠すのは目立ちすぎるためである。この歳で、しかも頬に印を持っているものなどいないのだ。
 目を逸らせながら、フェイドの瞳は刹那、哀願するような色に曇る。
 ――頼むから、このまま黙って行かせてくれ。
「焼印のこと、訊いてもいい?」
 しかし、メイリンはフェイドの頬を指差して尋ねた。いったい幾つのときに印を押されたのであろうかと疑問に思う。物心つく前であることは間違いない。
「これは混血の証だ。おれはまだ小さかったし、欲しがった好事家がいてな。地方の豪族がおれを飼いたいって言うんだ」
 フェイドは答えた。
 ――所詮、人は、聞きたいことを訊かずにはいられない。
「混血? 飼う……?」
 疑問を抱えるメイリンに、靴を履きながらフェイドは淡々と答えた。
「子どもだから油断したんだな、ペットにできると思ったんだろう。そのころはうまく人型になれなかったしな、見世物には最適だ。――おれには、半分魔族の血が流れているんだ」
 メイリンは息を飲んだ。易々と信じられるような内容ではないが、符号は合う。罪人の印を持っていることも、見かけによらない膂力りょりょくも、あっさり魔物を倒してしまったことも。
「……人を食べないと生きられないの?」
「人か魔物か、どちらかの天敵にならないと生き延びられない。今は魔物の魔力を食ってる。このまま続けてると格が上がって上級魔族になれるかもな」
 メイリンはフェイドの顔に差し込むかげりには気がつかなかった。これで別れるのはなんだか寂しくて、なんとか彼をひきとめたいと思ったのみだ。
「じゃあ、この街に留まったら? 一箇所にいる方がきっと仕事しやすいし」
 旅支度を終えたフェイドは、すっと立ちあがった。
「いや、これでお別れだ」

-----06



 フェイドの返事はにべもない。これ以上関わる気はない、ということだ。
「じゃ、元気でな」
 ひとつ言葉を放ると、フェイドは背を向けた。
「待って……!」
 思わずメイリンは声をかける。ひきとめてどうしようという気はないけれど、このままではフェイドは行ってしまう。もう会うこともなくなってしまう。こんなあっさりした別れ方で終わるなんて。
「私、気にしないから……!」
 彼が何者かなんて気にしないから。思わず口を突いて出た言葉。
 メイリンの指がフェイドの背を掠ろうとしたそのとき、彼は足を止めた。しかし振り向いてはくれない。そうして、フェイドは酷く冷やかな声を出した。
「おれが、人を食ったとしても?」
 メイリンはひくっと息を飲みこんだ。喉に張り付いたように声が出ない。伸ばした手がぱたりと落ちて、そしてフェイドを追い出したドアがぱたりと閉まった。


「お世話になりました」
 ひとこと、店の主人に聞かせるように声を張ると、フェイドはさっさと店を後にした。
 過去の記憶がよみがえる。
 飢餓感に襲われているフェイドに気づかず、不用意に飼主は檻に踏みこんだ。そして。
 ――おかげで逃げ出せたが、そのときのことは後々まで彼を苛む悪夢となった。もちろん、殺したことを後悔してはいない。でも、それだけではないから。
 だから模索したのだ。自分が生きるためにはどうすればいいのか、と。
「フェイド!」
 ふと声がかかった。見ると、メイリンが追ってくる。
「……なんだ?」足を止めてフェイドは答える。
 少し息を切らしてメイリンは言った。
「ちゃんと、お別れ言ってないから、だから」
 メイリンは少し距離をあけて留まった。彼には触れようとしないけれど、その足は逃げようともしない。二歩分。それがいまのフェイドとメイリンの距離だった。
 変わった子だ。フェイドは苦笑した。
「……あの、上級になれるぐらいの魔力を使えば、人間になれたりもする?」
 唐突にメイリンは無邪気な問いを発した。
「そうだな、前例はないけど……できると思うよ」
 何もわかっていない小娘の幼い願い。それを受けて、フェイドは優しく微笑んだ。
 心なしか、言葉遣いも素直になる。あの陽気な口調は、彼の芯にある愁いを隠すためのものでもあったのだけれど。
「おれは、しないけど、ね」
 メイリンの誠意に答えて、嘘はつかない。でも理由は言わない。彼女も、聞かなかった。
「……そう、元気でね?」
「ああ」
「いつか、また、来てくれる?」
「そうだな……気が向いたらな」
 じゃあね、とメイリンは手を振った。それに答えてフェイドは手を上げて、背を向けた。振り返りはしない。
 いつか、上級魔族になったら、もう嫌なものを口にすることはないだろう。しかし過去をなかったことにはできない。それにそんな強力な魔力を手に入れた彼を魔物どもは放っておかないだろう。必要なのだ、彼が魔物でいることは。まだ死ぬ気はないから。
 フェイドはもうここに戻ってくる気はなかった。
 ――でも、そうだな……いつか、
「気が変わるかもしれないし」
 ぽつりと呟くと、唇を笑みの形に引き上げた。

<了>


あとがき
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2005 05 31