流れ人

-----01



 どん。
 鈍い音が響き、ぎしりと木の扉が歪む音が微かに聞こえた。何かがぶつかったと思えたが、音に余韻がないので、扉から離れたわけではないようだ。
 メイリンは思わず辺りを見まわしたが、他に気づいた者もいない。労働者階級の男たちは、日々の憂さを晴らすかのように酒を飲み交わす。その騒がしさ、興奮した状態においては、些細な音など耳に止まらないのも当然であろう。
 しかし、メイリンの空耳ではない。
 彼女は忙しさの合間を縫って、その音の原因を確かめに行った。いつものとおり常連客ばかりなので、少々注文が滞るぐらいは許してもらえるだろう。
 扉を押し開けようと手をかけたが、やはり何かが扉の前を塞いでいるようで、ひどく重い。
 外の人は誰も気づかないのかしら。
 メイリンはふうと一息ついた。日が暮れてからだいぶ時間も経っている。人通りが少ないのに加えて、辺りの暗さのために気づかれないのかも知れない。
 もういちど扉を押した。全体重をかけ、前傾姿勢のまま更にぐい、と足を突っ張る。扉が徐々に開いたかと思うと、何かがずるずると崩れ落ちた。
 若い男だった。店内から洩れた明かりに意識のない顔が照らされた。その頬に大きなガーゼを貼っている。
 流れ人だろうか。薄汚れた旅装に、憔悴しきったような顔色。
 まあ大変、と呟いて、メイリンは男の両脇に手をかける。そのまま店の中に声をかけた。
「誰か手伝って!」


 男は薄く目を開いた。
 天井が見える。建物の中だろうか。上手く動かない手足にあたる感触は、柔らかく心地が良い。ベッドに寝かされているようだ。軽く爪をたててみる。
「誰に拾われたのかな」
 苦笑しつつそう口にするのと、目の前の扉が開くのが同時だった。警戒心から思わず身を起こす。ゆっくりとではあるが、軋むような鈍い感覚が体を襲った。
 次に彼を襲ったのは、香辛料の匂いだった。その香りが鼻腔と食欲を刺激する。
「あら」
 とその匂いを持ちこんだ張本人の少女が声を上げた。
「寝てなくて良いの、起きられる? これ、スープね」言いながら、手にしたトレイを指差した。
「……ちと辛いかな。食わせてくれると嬉しいんだけど」
「そこまでは面倒みません」
 彼女はあっさりと男の軽口をはたき落とす。しかしテーブルにトレイを置くと、彼が完全に上半身を起こすのを手伝ってやった。
「すまんね。嬢ちゃんが拾ってくれたんだ」
 え、と少女が目を上げると、にっと笑って男は自分を指差す。
「そう言って良ければね」呆れたように少女は答えて、トレイごとスープを差し出した。
 頂きます、と答えて受け取ると、男はスープを啜りはじめた。
「嬢ちゃん、名前は?」
「そう呼ばれるほど子どもじゃありません。それに、自分から先に名乗らないなんて失礼もいいとこね」
 また、にっと男は笑った。悪戯っ子のような笑みを浮かべると、とたんに印象が幼くなる。
「おっと、手厳しいね。こりゃ失礼」
 そして、口に運ぶ手を止めて、ふっと真面目な顔になった。今度は柔らかな笑みを浮かべる。
「助けていただいて感謝する。おれはフェイドだ」
「私はメイリン」そう返すと、彼女は大げさに声を張り上げてみせた。
「ほんっとにびっくりした。店の前に倒れてるんだもの。そのおかげですぐに食べるもの持って来れたんだけどね」
「へぇ、そりゃ運が良いな。三日も食いはぐってんだ」
 その言葉どおり、フェイドは良く平らげた。メイリンは何度お代わりを持っていったか知れない。
「あっきれた。いくら食べたら気がすむのかしら」
「そう言いなさんな。おれは人より食う方なんだ」
 せっかく涼しげな目元をした長身の若者なのに、口を開くとこれである。
「……おじさん臭い」
「こんな男前の若者捉まえて何を言う。失礼だなー、嬢ちゃんは」
「どっちが」
 メイリンは軽く首を振った。結局、フェイドはその呼び名を改めてはくれない。自分は相手にされないほど子どもなんだろうか。
「ほっぺた、どうしたの。薬持ってこようか」
 彼女は気になっていたことを口に出してみた。フェイドの目の下から左頬を覆う、大きなガーゼ。擦り傷であればそんな処置はしない。もしかしたら、切り傷かもしれない。なにしろ彼は、どこから来たか知れない流れ人なのだ。
 無頼漢やくざものだったりして。
 メイリンは口の中で笑いを噛み殺した。暴力で人から金を巻き上げるような男だったら、空腹のまま――恐らく一文無しであろう――こんなところに倒れているわけがないのである。
「必要ない。――そんなんじゃないんだ」
 フェイドがそう答えて、メイリンの疑問は流されてしまった。

-----02



 丸一日ほどゆっくり休養を取ると、フェイドの顔色はだいぶ良くなったようだ。
「拷問だぜ。嬢ちゃん、肉食わせてくれよ」
「呆れた態度ね。胃がびっくりしないように軽いものからにしてるんじゃないの」
 フェイドの軽口も相変わらず、メイリンの返しも相変わらずである。
「でもほんとにおれ、食わないともたねぇんだって」
 メイリンは、すがるフェイドをちらりと見やった。この体のどこに入るのかしら。がっしりしてるといえなくもないが、どちらかといえばフェイドの体は細身である。というか、身長に対して横幅が足りていないような気がする。
「駄目ったら、駄目。あんた、世話になってるくせにちょっと図々しいわよ」
 ふうん、と軽く唸って、フェイドはにっこりと微笑んだ。
「良い子だな。そう言いつつ、しっかり拾ってるあたりが」
 茶化されて、メイリンは顔を赤くする。激昂のまま拳を振り上げたがしかし、すぐに下ろしてしまった。目線が足下をさまよう。
――父さんに誓ったから」
「……父さん?」
「そうよ、罪人の印って知ってる?」
「罪人の印……」フェイドはメイリンの言葉を口に乗せた。彼女は、そう、と頷く。
「二十年ぐらい前に廃止されたから、知らないかもしれない。罪人の腕に焼印を押す制度があったの」と、彼女は上腕部を指した。感情を殺したように、淡々と語る。「私の父さんは、罪を犯した友人をかくまった咎で捕まったわ。たいした罪じゃないと思う。でも焼印を押されたの。釈放されたって、その印があれば迫害される。父さんは死んだわ」
 ――それで、弱者には手を差し伸べようと誓ったってわけか。
 フェイドは得心した。
「そういえば、あんた、何で生計たててるの?」
 メイリンは話題を切り替えた。フェイドは用心棒にしては頼りないし、吟遊詩人にしては芸がなさそうだ。なにより、楽器も持っていない。
「あ、それは――
 フェイドが言いかけたとき、階下で物凄い音が響いた。
 どたがらがっしゃん。
 月並みな表現だが、こんな感じである。
「ちぃっ、またか! じゃっ」
 男らしく言い捨てると、メイリンは乱暴にドアを開けて、階段を走り降りていった。
「……何?」
 フェイドはぽつねんと取り残された。


 体の調子は良いみたいだ。
 フェイドは、よっこらしょと起きあがって、階下の様子を見物に行った。彼のいた部屋は、そのまま酒場の真上なのである。
「おお」
 なるほど。喧嘩である。酒呑みの男たちが集まって騒ぐのだ。僅かな諍いでもあれば、容易に殴り合いへと発展するだろう。
 薄暗い店内で、橙色の灯りがあちこちに灯っている。騒ぎの中心は、文字どおり店の真中だった。円テーブルが倒れた床に、割れたグラスとその中身が散らばっている。そこに、腕を構えたふたりの男が対峙している。
 周りをギャラリーがぐるりと取り囲んでいる所為でなかなか近づけない。ちらとメイリンの姿が見えた。手を口に当て、何か叫んでいるようだが、これまた周りが騒がしくて聞こえない。何を騒いでいるのかと良く聞いてみると、彼らはどちらが勝つか賭けをしているのだった。
 ふと、振り向いたメイリンと目が合った。彼女は驚いた顔をして、また何か言いながらこちらへと向かってきた。もちろん、声は聞こえない。
 メイリンがフェイドの傍へとやってきたので、やっと声が拾えた。彼女の口は到底フェイドの耳に届く高さにないので、彼は頭の位置を低くしてやった。いや、しゃがんだといった方が正確かもしれない。
「何やってるのよ。来ちゃ駄目だってば。ああもう、なんだって伯母さんのいないときに限って厄介ごとばっかり……」
 最後の方は独り言に近かった。頭を抱えたメイリンに、フェイドは明るい声で話し掛ける。
「あの若ぇ方のが強そうだよな。嬢ちゃんはどっちに賭ける?」
 メイリンはフェイドを蹴倒した。
「冗談じゃねぇかよ。……止めりゃいいんだな?」
 フェイドはやる気になったように立ち上がった。左の掌を右の拳でぱしぱしと叩いている。
「ちょっと」
 メイリンの制止も聞かず、フェイドは騒ぎの真中へと躍り込んだ。
「新エントリーだ。バトルロイヤルでいいな?」


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