雨が降っていた。
 いや、直接目にしたわけではないが、カーテンの向こう、窓を叩く響きと湿った空気の気配でわかる。
 ハルバートは身を起こした。ああ、朝だな、とぼんやり思う。
 まだ薄暗く、人の立ち動くような気配もない。早朝の、きんと澄んでいるくせに靄がかったような空気を感じる。
 もういちど寝なおす気にはなれなかった。なぜこんなにも早く目が覚めたのかわかっているから。
 そう、今日なのだ、戴冠式は。


 王の子は男だった。
 だが死産だった。そう聞いている。
 しかしハルバートはそれを信じていない。いや、信じたくないのだ。
 ――もし生きていたら?
 ハルバートはその考えを振り払えなかった。考えだすと、終点でラヴィリエントに辿り着いてしまう。もしラヴィリエントが王の実子だったら。そうならばすべては自分の望みどおりなのに。
 そこで思考は急速に終熄し、ハルバートは自嘲の笑みを洩らした。
 そんなことを考えてどうしようというのか。たとえ事実だったとしても、己れの脆弱さが招いた、逃避という名の期待ということに変わりはないのだ。
「……情けない」全くもって情けない。
 呟いた途端、ぽんと背中を叩かれた。
 振り向いて名を呼んだハルバートの顔を見て、
「あれ、どしたの。元気ない?」困ったように首を傾げるリューアである。
「少しは察しろ」
 今日が何の日だと思っているんだ、こいつ。と思いながら、呆れればいいのか怒ればいいのか考えて、なぜか、ハルバートは微笑んでしまった。
 そこではっと思い出す。「おまえ、具合は?」
「ちょっとだるいけど平気。今日は出なきゃと思ってたし」
 リューアなりに戴冠式に思い入れはあるようだ。
 そのことについて聞こうかと思ったが、場の空気が重くなるのを懸念して――というか自分が不機嫌になるだけなのでやめておいた。
「まさか池に飛び込むとは思わなかったな。誰かの助けを借りようとは思わなかったのか?」
 軽い口調で問いつつ、内心、疑問だった。なにしろ、ハルバートの知る、この年頃の娘というのは人に何かをしてもらうのが当然だと思っている節があるので。
「あれを大事にするもしないも私の勝手だわ。自分の勝手に人を巻き込むのって嫌いなの」それから、慌てて付け加える。「あ、でも、好意でしてくれることなら別よ?」
「庶民派だな、おまえ」
「もう、バリッバリの庶民派よ。文句ある?」
 なぜか勝ち誇ったように言い放つリューア。
 ハルバートはくっくっと笑うほかない。
 並んで歩む足を止めて、リューアはハルバートの顔を見上げた。
「行かなくていいの?」
 ハルバートの顔が一瞬、凍りついた。それを、避けていたというのに。
 そもそも、ハルバートはこんなところで油を売っていていい立場ではない。そのあたりの警備など部下に任せておいて問題はないが、ハルバートはいわば指揮官である。いなくていい道理はない。
「行かなきゃならんか?」
「行きなさい。私もあとから行ってあげるから」諭すようにリューアは言う。
 やれやれ、これじゃ子ども扱いじゃないか。ハルバートは苦笑して、覚悟を決めた。
「……じゃ、行ってくるか」
 ハルバートが控えるべきは本日王位を継ぐ、ライツェストの傍らである。


 リューアと別れたあと、ハルバートは廊下の角を曲がって――ラヴィリエントとばったり出交わした。というより、ぶつかりそうになって慌ててかわし、ひとこと詫びて顔を見たら、ラヴィリエントだった。
 ラヴィリエントは泰然としていた。自らが手にしたかもしれぬ王位を他に譲られ、その相手が信用に足る政治をするとも思えないのにだ。焦りや不安は微塵も感じさせない。強いて表情を読み解くならば、その顔はどこか楽しげに見えた。
 ハルバートは子どもっぽい不機嫌さに襲われた。
 自分がこんなに心を砕いているというのに。
 悔しいのか恨めしいのか、はたまた悲しいのか自分でも良くわからないけれど。
 自分の感情を制御しかねて、ハルバートは思わず口走っていた。
「貴方は、本当は、先王の嫡男でいらっしゃるのでは――
 ラヴィリエントは、瞬間、虚を衝かれたような顔になったが、にっと笑ってみせた。
「残念だが、私は違うよ」


「総長っ!」
 ハルバートが口を開きかけたそのとき、息せききって部下が駆け込んできた。
「どうした?」
 部下はそこでラヴィリエントに気づき、そちらに一礼した。「水が、ですね」
「水? 雨はもう止んでいるだろう」ハルバートは訝る。
 朝方降っていた雨は昼前にあがったのだ。雨漏りの類かと思ったが、返ってきた答えにハルバートは色を失った。
「洪水です」
 この辺りは川が何本かはしっており、それが氾濫したらしい。
 となればここも無事では済まない。戴冠式どころではないが、中止するかどうかはハルバートの一存では決められない。
 ラヴィリエントを見やると、はたして彼は悠然と構えていた。
「私は既にその情報を持っている。そして叔父上は、意地でも式を強行するつもりだ」
「な――」言いかけて、ハルバートは力なく首を振った。ここで逆らっても無駄である。
 軽く息を吐いて頭を冷静にすると、部下を呼んだ。
「第六班を現場へ。指揮はおまえに任せる。――いや、やはり七班と八班も呼ぶべきだな。おれも行く」
 そこで、ラヴィリエントが割り込んだ。
「いや、ハルバートは私と一緒に来てもらう」
 思わず反駁しかけたハルバートだが、思いなおしておとなしく承諾した。現場からハルバートを引き離すことの意味をわかっていてなお、ラヴィリエントはそれをしようというのだ。落ち着いてはいるが、深刻味を帯びたその声に、ハルバートは従うほかなかった。
 困惑している部下に声をかけることも忘れない。
「聞いてのとおりだ。指揮はおまえに一任する」


 ラヴィリエントについて歩くと、やがて大きな扉の前に着いた。
 扉の前にはリューアが立っている。
「ここは……」ハルバートは呟いた。
 もちろん、ここがどこかは知っている。この扉を開けて階段を上がれば戴冠式の場だ。そこは広いバルコニーのようになっていて、下にいる者を一望できる。その逆もしかり。つまり、王になる瞬間を思いっきり見せつけてやるというわけだ。
 そろそろ式が始まるころだろう。
「待たせたかな」
 ラヴィリエントが駆けてきたリューアに声をかける。彼女は彼らを待っていたのだった。
「いいえ。行きましょう」
 そう答えるとリューアは、ハルバートにいたずらっぽい笑みを向けた。


 扉の前には当然のように衛兵がいた。
 もちろん、いわば主であるラヴィリエントと上司であるハルバートを止める権限は彼らにはない。しかし、リューアに対しては。
 ハルバートが困惑したようにラヴィリエントを見やると、彼は悪戯っぽく笑んだ。
「何のためにおまえを連れてきたと思っているんだ?」
 ああ、とハルバートは得心した。ラヴィリエントひとりでは彼の我侭と取られる恐れがあるが、権威者がふたりいればそれは命令となり得る。
 突然のことに思考がついていかなかったのは事実だが、すぐそうと判断できなかったとは情けない。
「式をやっているな。通るぞ」
 ラヴィリエントが言い放つと、ふたりの衛兵はさっと脇へ退いた。しかし先ほどから気になっていたのか、ちらちらとリューアへ目を走らせることは止めない。
「あの、失礼を承知で申し上げますが、そちらの方は……?」
「私の連れだよ」
 見てわかる情報だけをあっさり返して、ラヴィリエントはにっこりした。何も聞くなというサインだ。
 ハルバートは一歩前へ進み出て、扉を開けた。
 手でラヴィリエントとリューアを中へ促し、衛兵へと目を向けた。
「すまんな」
 そうしてゆっくりと扉を閉める。
 ふうと息をついた。
 なぜ、リューアを連れてくる必要がある? ただの一般人に許されているのは下から戴冠の様子を見守ることだけである。まして、王の傍に侍るなど。
 婚約発表でもするのではないだろうな。
 ハルバートは、ふ、と自嘲気味に笑った。俗な想像しか出来ないようじゃ、おれも落ちたな。
 たん、たんと階段を上がる。上方に外が見える。
 式の真っ最中のはずである。歓声が聞こえないことから、まだライツェストが冠を戴いていないことが知れた。
 階段を上りきり、屋外への境に立つと、そこでも当然のように衛兵に止められた。
 まずいな、とハルバートは唇を噛んだ。
 彼らはライツェスト直属の臣僕である。どう言いつくろったところで、リューアを通してもらえそうにはない。彼らは反ラヴィリエント派なのだ。
 ラヴィリエントもそれに気づいたらしい。一瞬表情を曇らせたが、ハルバートを見やると楽しげに囁いた。
「叩きのめせ」
 ――おれを連れてきた本当の狙いはこれか。
 閉口したハルバートだが、ふと楽しさを覚えた。おおっぴらにライツェスト卿に反抗できるとはな。
 乱暴な手段だが、相手側もこちらを認めて既に鉾を構えている。ハルバートは、遠慮する必要などないと判断した。
「退けっ!」
 剣を抜くまでもない。柄で殴りつけると、あっさりと相手は昏倒した。
 もう、引き返すことはできない。
 突然の闖入者に、場は騒然となった。呆気に取られていたライツェストの顔が、見る間に赤く染まる。
「どういうつもりだ、おまえら!」
 思わず汚い言葉で罵るライツェストだが、無理もないといえよう。
「あなたに冠を差し上げるわけには参りません、叔父上」
 不穏な空気を漂わせ、ラヴィリエントは冷たい声を放った。
 これにはハルバートも面食らった。立派な反逆罪である。
 しかし、どこまでもラヴィリエントに従う覚悟は疾うにできている。周りを兵に囲まれても、ハルバートは落ち着いていられた。
 兵も怖気づいている。何しろ相手にしようとしているのは、騎士総長なのだ。そこには歴然とした実力差が存在するのである。
 ラヴィリエントも、腰に佩いた剣をすらりと抜いた。その構えは、剣術を習ったもののそれである。彼も相当使うらしい。
 ふたりは、周りを囲む兵たちをなぎ倒した。刃を向けるのは相手の武器を撥ね飛ばすときだけ、手刀や剣の柄で簡単に相手を沈めていく。それほど彼らとの差は開いていたのである。
 そのうち、恐れをなした兵たちは誰も向かってこなくなった。ただ遠巻きにしているだけである。
「おまえを連れてくるまでもなかったかな。もっと骨のある連中はいなかったか?」
「あいにくその辺りはラヴィリエント様の味方ですよ。向かって来たりなどしません」
 ラヴィリエントとハルバートはのんびりとした会話を交わした。
 そして、思い出したようにライツェストに目をやる。
「叔父上、今日まで待ったのは多くの証人が欲しかったからです。今日は恰好の日だ。戴冠の儀まで済ますことができる」
「何を言う。ただの簒奪者に王冠をくれてやるほど民は寛大ではない。王族の血も流れていないくせに」
「戴くのは私ではありません」
 きっぱり言いきると、ラヴィリエントは後ろを振り返って促した。
――さぁ、前へ」
「はい、お兄さま」
 静かに前へ進み出たのは、リューアである。
「誰だ、おまえは……?」
「私はリウリアーナ・レイリアス、先王の娘です」


――王の血族だと……馬鹿な」
 ハルバートは低く唸った。信じられないと思った。恐らく、その場にいた誰もが。
 外野の心中を余所に、リューアは凛とした声を響かせる。
「私の――本当の兄は死産ではなかったのです」
 彼は殺されたのだ。ライツェストの命を受けたものによって。
 しかし、その事実は公には起こらなかったこととなった。既に国に関わる重要な地位のすべてが、ライツェストの息のかかった者に明け渡されていたのだ。
 王がそれを許したのは、病弱な妃の身を案じたからである。相手は皇子まで手にかけたのだ。彼女が無事だという保証はない。
 それを悟った王は、娘は秘密裡に育てた。そしてリューアは、国民の目に晒されるこの日を、真実を告げるために待っていたのだ。
 顔を強張らせていたライツェストだが、唇を歪めると、大きな声で笑い出した。
「真にお笑い種だな。そんな詭弁が通用すると思うてか」
 確かに、内容が内容なだけに、ただの小娘の言うことなど誰も信じはしない。ただし、王族の証が立てられれば話は別である。
 そのとき、下のほうから騒ぎが持ちあがった。この露台からは下がよく見える。居合わせた者は皆、何が起こったのかをすぐに悟った。
 氾濫した水が、ついにこの場を襲ったのである。
 うねりを上げた奔流が、広場を呑み込んでいく。水かさはまだ膝の辺りまでしかないが、人の足をさらうに充分な早瀬である。
 ――のんびり構えやがって、このざまだ。
 ハルバートは舌打ちをすると、ライツェストを睨みつけた。
――さあ、何とかしていただきましょうか?」
 静かに響いた声の主はリューアである。その双眸は、ライツェストをひたと見据えている。
 周囲の者は辺りに静寂が訪れたと錯覚した――水の怒号にも関わらず。この展開を、誰もが固唾を飲んで見守っている。
「……何、だと?」
「その印は王の血筋を示すだけのものではない。れっきとした精霊の誓約の証。真の王ならこれぐらいの事態には対処できるはずよ」
「ふ、ふざけるな、それはただの伝説だ!」
 それを聞いてリューアは口の端を、に、と上げた。
――そう、王座は放棄するのね」
 そう言うと、肘までぴっちりと包んだ左の手袋をするりと脱いだ。それは、火傷を隠すためのものではなかった。
 彼女が隠していたのは――青い、刻印。くっきりとしたそれは、手の甲を中心とした文様となり腕に広がっている。
 す、と彼女が腕を上げると、その印が仄かに光を放つ。
 ど、と水柱が立ったかと思うと、次の瞬間には嘘のように水の勢いが静まっていた。
 それを、その場にいた誰もが目撃した。
「資格のない者に、精霊は力を貸したりはしない」
 締めくくりのようにリューアは呟く。
 ライツェストは、まさか、と口にすると崩れるように座り込んだ。
 どこからともなく、波のように歓声が広がる。
 リューアの前には王冠を差し出して微笑むラヴィリエントがいた。


 リューアは王冠を戴いた。
 ラヴィリエントは宮廷騎士団の副総長に収まった。それだけの実力があると認められたのだ。彼を指導したのは、以前の総長、つまりハルバートの父であったという。
 ――そんな話、聞いていないぞ。
 すっかり心配事もなくなったハルバートは少々気分を害しながらも、晴れ晴れとした気持ちで廊下を歩いていた。もちろん、これから洪水の後始末や堤防の強化、官の移動などの厄介ごとはあるのだろうが。
 ラヴィリエントは何かあったときのリューアの護衛として、腕を磨いていたらしい。そんな役割を担っていたのなら。
 ――強いはずだな。
 おれよりひとつ年下だったか、とハルバートはひとりごちた。
 そこへリューアが駆けてきた。
「チェリオ!」
「ああ――」と返事をしかけて、呼称を変えるべきかとハルバートは思案する。とりあえず、その問題は先送りにすることにした。
 はあ、と安堵のような困惑のような溜息をつく。
「都合良く洪水がなければ、どうなっていたか……」
「あら、偶然だと思って?」
――まさか」
 思わず言葉を詰まらせた。とんだ策士である。
 ――これぐらいの気概がなければ、勤まらないか。
 顔を伏せると、ハルバートは密かに微笑んだ。そして、静かに片膝を折る。
「騎士、チェリオ・ハルバートの名をもってここに忠誠を誓う。貴方を護り、その言葉に従うことを」
 略式であるが、それは明らかに騎士の誓いである。
 しかし、リューアはそれを受け入れも拒みもしなかった。
「ばかっ!」
 という言葉を投げつけると、走り去ってしまったのだ。
 ハルバートはぽかんとしたまま取り残された。
「何が、いけなかったんだ……」
 ゆるゆると立ちあがり、釈然としないまま呟くと、後ろからまた別の声がかかった。
「わからないのか?」
 振り向くと、ラヴィリエントだった。一部始終を見ていたぞ、というにやにや笑いを顔に貼りつけている。
 醜態を晒したと感じながら、ハルバートは尋ねた。
「……急に態度を改めたのがいけなかったのでしょうか」
 ラヴィリエントはそれには直接答えず、
「おまえは、身分や誓約がなければ彼女を護れないのか?」
 ハルバートの頬が、かあっと熱くなった。何か言おうとするのをラヴィリエントが制す。
「そういうことだ。行ってこい」
「は、失礼します」と一礼すると、ハルバートはリューアの後を追った。
 いつになく乱れた足音だ。追いついた後どうするのかも考えていない動揺ぶりだった。
「あのふたりはまだまだ前途多難だな……」
 あとにはラヴィリエントの呟きだけが残された。

<了>


あとがき
back/ novel

2003 12 14