足下を涼やかな風がさあっと通り抜ける。それは廊下に満ち満ちて、くるくると舞い上がり、ハルバートの前髪を揺らした。
彼はその爽やかな朝にそぐわない台詞を重厚な低音で洩らす。
「いまいましい」溜息つきである。
これは風に言ったのでもなければ、清々しい朝に向かってでもない。これからやってくる相手のことを考えると、知らず口からこぼれたのである。
足下に目をおとし、踏み固めることのできない廊下の感触を感じながらとんとんと足をならす。いらいらしているのが自分でもわかり、柱にもたれてまたひとつ溜息を洩らす。
ふと目を上げると、逆光に晒された輪郭を金色にして、少女がこちらにやってくるのが見えた。軽やかな足どりで、編んだ髪を揺らして、こちらへ駆けてくる。
ハルバートの待ち望まぬ、そして彼の主が待っていた客である。
「おはよう、総長さん」にっこりと少女は笑いかける。
ハルバートは成人してはいるがまだ若い。若いながらも宮廷騎士を統べる役を勤めているのだ。
総長は役職名だから『さん』をつけるな、だいたい部下ではないのだから総長と呼ぶな、かといって名前を呼ばれたくもない。といった文句は彼の頭をぐるぐる巡り、冷たい一瞥へと収斂した。
返事がなくとも少女はへこたれない。何たって、いつものことなのだ。
「もうちょっと愛想よくすればいいのに」
そう言って少女はハルバートのわきをすり抜けた。
彼の態度を少女は意に介しない。だからいつも、負けたような気分にさせられる。
ふわりと舞ったワンピースの黒が目に焼きついた。
少女の後ろ姿を見送って、ハルバートはぽつりつぶやく。
「喪服だろうな」
先日、王が崩御したばかりなのだ。普段の少女は明るい色の服を好んで着ている。めったに着ない色を身につけているということは、やはり喪服なのだろう。少女がそれほど王を慕っていたとは知らなかった。
彼女は幼い頃に火事で身寄りをなくした。憐れに思った王が身柄をひきとったのだ。とはいえ、身分が違いすぎて王と会わせてもらったことがあるのかどうかすら疑わしい。ただ、仕事と一室をあてがわれ、王宮には置いてもらっている。
彼女は王の息子、ラヴィリエントと妙に仲が良い。ラヴィリエント自身が少女を気に入っているようで、都合のつく日は自室に来ることを許しているのだ。おかげで、側近のハルバートはその度に少女と顔をつきあわせるはめとなった。
武人の世界は実力社会だ。だからハルバートは実力でこの地位までのぼりつめた。父親が元騎士総長だということが最後のひと押しをした可能性は否定できないが、大半は関係ない。それゆえに、彼は少女に反発を覚えた。彼女がラヴィリエントと近づきになれたのは降ってわいた幸運のおかげなのに、軽々しくそれを利用しているように思える。
ラヴィリエントは養子である。妃が若くして亡くなったあと、王に愛された妾の息子である。その妾も事故で亡くなり、悲しみの王は慰めにラヴィリエントを養子にした。
そして、王も亡くなった。
王弟ライツェストとラヴィリエント、どちらを次期王にするのか周囲で少しもめたが、結局は前者ということでおちついた。正当な血筋ということを示す御印が額に顕れていたからである。むかし、精霊が王国の守護を誓った証だといわれ、国民はそれを見て安心するのだ。
だがハルバートは不安だった。
ライツェストはどう見ても王の器ではない。加えて、性格が最悪なのだ。身分の差というものを殊更に強調したがる傾向がある。似た者同志ならどうか知らないが、ハルバートとは致命的に合わない。
ライツェストに仕えるなど考えたくもない。かといって、王宮勤めを辞めるわけにもいかない。皮肉にも、ハルバート自身の求めた地位がそれを邪魔している。また、副総長にあたる人物がいないことも問題だった。なぜかそこの役職が埋まらないため、ますますもって地位が彼を王宮に縛り付けることになる。
救いといえばまだライツェストを陛下と呼ばなくて良いことぐらいだ。とはいえ、戴冠式は数日後に迫っているので、それも時間の問題である。
「どうしろ、ってんだ」
何もできないことはわかっている。
庭園を歩いていて、ハルバートは少女の姿を目にした。
この庭園は中央部に平たい石で囲われた池がある。わりと大きな池で、深さはさほどではないではないが色とりどりの魚がゆうらりと泳いでいる。
少女は池の縁にしゃがみこんで、手の中の何かを見ている。よほどそれに気をとられているのか、ハルバートが近寄っても気づく気配がない。
水面に彼の影が落ちて、魚がさあっと散った。
ようやく彼に気づいて、慌てた少女は立ち上がろうとした。その拍子に、手の中の鎖がしゃらしゃらしゃら、と音をたてて滑り落ちてゆく。
つかもうとした手をすり抜けて、それは水の中へ、とぷんと落ちた。
おれの所為じゃない、とは思ったが、言いかけてハルバートは口を閉じた。
よほど大切なものだったのだろう。少女は茫然として、凍ったように立ちつくしていた。
責められるか、という思いがハルバートの頭をちらとかすめる。
しかし、我に返った少女はそんな方向には神経を向けなかった。
逡巡を見せず、池に飛び込んだのだ。ばっしゃん、と大きな音がして、飛沫がハルバートの服の裾を濡らした。
ハルバートは呆気にとられた。なんと潔い。
少女は水をかきわけるようにして捜しはじめた。水は不透明である。魚でも、水底にいるものはぼんやり色が見えるにすぎない。
水は少女の太腿のあたりまでしかないが、彼女が身を屈めるとほとんど全身が濡れてしまう。彼女の長い髪からもしずくが滴っていた。
ハルバートはといえば、傍観しているだけである。少女を手伝うほどには彼女に好感を抱いていないし、かといって何事もなかったかのようにその場を立ち去るほどには彼は冷たくなれなかったのだ。
少女より先にそこを立ち去ることができなかった。
雨が降ってきた。
パラパラという感じだが大粒の雨は、これから酷い降りになることを匂わせていた。
長時間水に浸かり続けて、少女の体はすっかり冷えきっていた。ほどけた髪は頬にはりつき、唇はうっすら青く染まっている。
堪らず、ハルバートは声をかけた。「もういいだろう。諦めろ」
少女はいやいやをするように首を振る。
――聞分けのない。ハルバートは眉根を寄せた。
水にばしゃりと靴を入れる。ざぶざぶと少女の傍に寄ると、腕をつかんで無理やりに池からひっぱりだした。
冗談じゃない。雨の中までつきあってやる義理はない。
迷ったが、上着を脱いで少女にかけてやった。水が染みこみにくい素材なので、長時間の雨に晒されなければいくらかの保温効果は期待できるだろう。
内心、ハルバートは苦笑した。いまさら親切ぶってどうするんだ。
とにかく、また水に入られでもしないよう、腕をつかんだまま屋根のあるところまで連れていく。少女は割合おとなしくついてきたが、その間は終始無言のままだった。
思いつめたような顔の少女に声をかけることができず、ハルバートは途方に暮れそうになった。
と、そこへ唐突に声がかかった。
「どうした?」
皇子ラヴィリエントである。彼も雨止みを待っているのだろう。彼は、ハルバートと少女の間の妙な空気を察したようだ。
「それが、彼女が……池に落し物を」
おれの所為じゃない。そう思うのに、何故か咽喉にはりついたかのように声がでない。
気まずいまま少女とふたりきりにならずにすんで、ほっとしたはずなのに、胸の靄が晴れない。
何なんだろう。酷く居心地が悪い。
ハルバートは少女の腕から手を離した。きつく握りしめてしまったようで、そのことに気づいたのだ。もしやその細腕に跡でも残ったかと思ったが、確認はできなかった。
少女は手袋をはめていたのだ。
薄手のもので、指先から二の腕のあたりまでを覆っている。火傷の痕を隠すためであるという。
「とにかく、中に入って。風邪をひいてしまう」と、ラヴィリエントが少女を促す。ここの通路は城内に通じているのだ。
――また、だ。
ハルバートの胸がざわついた。
今度は少女も逆らわず頷いたことにいらだちを覚える。
「ハルバート?」
声をかけられて、はっとした。視線を転じると、首を傾げるようにして、ラヴィリエントがこちらを見ていた。
ぎこちなく軽い笑みを返すと、ラヴィリエントも笑んで、「さ、中へ入ろう」と促す。
ハルバートは咄嗟に「いいえ」と答えていた。その声の強い調子に、我ながら思わず動揺する。
「いえ、あとから参ります。少し、あの、ひとりになりたいもので」
慌てて言いなおす。今度は語調を抑えて。
嘘だということは自分でもわかっていた。
単に嫌なだけだ。見たくない見たくない見たくない――
ラヴィリエントはちらと不審そうな表情を浮かべたが、先に戻るという言葉を残し、少女を伴ってその場を後にする。
少女はいちどだけ振り向いた。
その潤んだ瞳を見て、ハルバートはどきりとする。
――少女は涙を堪えていたのだ。
それはハルバートの目の前で泣くものかという負けず嫌いの涙ではなかった。
少女の、憂いを帯びた瞳が語っていた。泣いたら、
――ハルバートが困るから。
少女は彼のいらだちの理由をわかっていたのだ。
それに気づかされてしまったハルバートは自嘲気味に呟く。
「くだらないな……」
くるりと、踵をめぐらせた。篠つく雨へ。
髪に手をやる。
ある程度の水気は拭き取ったが、まだしっとりと湿っていた。
悠長に風呂には入っていたくせに、妙に気が急く。少し、足を速める。
手の中のものを握りしめた。
――何と言ってきりだせばいいんだ?
皆目見当がつかない。
コンコン。
軽いノックの音が響く。
「いないのか?」
ハルバートは声をかけた。いなければいいのに、という矛盾した思いがちらと頭を掠める。
ややあって、声が応じた。
「どうぞ、入って」
ドアを開けると少女がベッドに半身を起こしていた。寝ているところだったようだ。
部屋に入るのを躊躇うかのようにハルバートの足は動かない。
「……具合が悪いのか」
「ちょっと熱があるだけ」
体を捻ってくるりと向きを変えると、少女はベッドの縁に腰かけた。ハルバートの顔を見上げ、入らないのかと言うように首を傾げる。
観念してハルバートは部屋に足を踏み入れた。後ろ手にドアをぱたりと閉める。
椅子を見つけて少女の傍まで引き寄せると、ハルバートは腰を下ろした。
少女の手をとって、握っていたものをさっとその手の中に滑らせた。早く用事を済ませてしまおうとするかのように。
恐る恐る開いた少女の掌には金のロケットが光っていた。彼女の落としたものである。
「これ――」どうして、というのと、どうやって、というのが混じりあったまま、次の言葉が出てこない。
「たいしたことじゃない」それだけハルバートは答えた。答えになってはいないが。
柄じゃない。照れくさくて少女と目を合わすこともできない。
「ありがとう」
染み入る声でそう言って、少女はロケットを抱くように胸に押しあてた。
寝るときも手袋をはずさないんだな、とぼんやり思いながらハルバートは言った。
「すまん、中を見た」
刹那、少女は剣呑な光を瞳に宿したが、ふっとそれを和らげた。そして、戯れるような口調でこう言った。
「よし、許してやるか」
――ロケットには一房、金の髪が入っていた。少女のものではない。おそらく、誰かの形見なのだろう。彼女の思い入れようからそれと知れた。
ハルバートはやっと気づいたのだ。
幸運なんかじゃない。彼女の今の生活は不幸の道の先にあったものだ。
自分を恥ずかしいと思った。
彼は怖かったのだ。梱包して胸の奥にしまい込んだ思いを開けるのが。
それは、どろりと溢れてきた。醜い嫉妬心だった。彼が誇りと満足感と共に手に入れたものの象徴、主の隣をただの小娘に奪われるさまなど見たくなかった。どうして良いかわからなくて、ただ少女を疎ましく感じた。
改めて話を切りだそうと、ハルバートは少女の名を呼んだ。
「リューア」
言いたいことがありすぎて言葉にならない。ようやっと、ひとことだけしぼりだした。
「……すまない」
何の謝罪なのかと少女は問わなかった。きっとわかっていたに違いない。
彼女は軽く首を振って、嘆息のように言葉を洩らした。
「……初めて」
「は?」
「初めて名前を呼んでもらったわ」
そういえば、と気づいてハルバートは苦笑した。今まで、名を呼ばないことで少女を否定していたのだ。
そうだな、という言葉を、馬鹿だな、というような口調で呟く。名を呼ぶというのは大切なことだ。
だから、少女が名を尋ねても、嫌がらず教えてやった。
「チェリオ。チェリオ・ハルバートだ」
似合わないと一笑に付されるかと思ったが、
「<元気を出して>か。良い名前ね」少女はふんわりと笑った。
異界の意味を知っているなど、意外と学はあるらしい。
照れくさくなったハルバートはひとことよこして返す。
「馬鹿」