エルフィリアがさっさと帰ることにしたのは、町に残る理由がなくなったこともあるが、アルカレドの睡眠に配慮した結果でもある。
 ハウスに帰った方が、気が休まるかと思ったのだ。
 薬の方は仕上げが少し残っていたが、それは帰ってからでもできる。魔素を活性化させるために三晩ほど月光に当てておく必要があった。
 ちなみに魔素と魔力については、たまに混同している人もいるが別物である。魔素とは動植物が大気中から取り入れている要素であり、それを体内で変化させたものが魔力である。魔力の状態だと他者のそれと反発するが、魔素のままだと逆に吸収しやすくなる。
 ――そんなこんなで、三日後に薬は完成を見た。
――と、いうわけで、どうぞ」
「……あ?」
 エルフィリアが薬の容器を手に乗せると、受け取ったままの恰好でアルカレドは動きを止めた。
「これを……何だって?」
「お使いなさい」
 手放さないよう、薬を持った上からぎゅっと握りつつ、もう片方の手でエルフィリアは合図でもするかのように目の下をつつと撫でた。その仕草で、自分の眼のことを言われていると理解したらしい。
 アルカレドの、残った左目が驚いたようにきゅっと丸くなった。
「俺の、薬を作ってたのか」
「私が手を出すまでもないと思ってはいましたが」
 薬に興味を持ったきっかけは、アルカレドの目が失われているさまを見たことだ。
 以前から漠然とした興味は抱いていたが、それは主に調薬の過程についてでしかなかった。そこからは薬の効果や範囲といったものを、もっと具体的に追求しようと思って、そして――それは難しいことだと理解するに至った。
 なるほど、特殊な施設もない一般人が手がけるものでは限度がある。
 結局、迷宮で霊薬を手に入れることが一番確実な方法なのだ。
 そのはずだったのに、
「あなたに、少しもその気がないから」
 上手くいかないことにエルフィリアは気付いてしまったのだった。
 奴隷から解放すれば、アルカレドは一心にそれを求めるのだと思っていた。眼帯で傷を保護し続けていることを見ても、治す気を失っているわけではないのだということはわかる。
 それなのに、どうにも優先順位が低い。基本的に、霊薬は与えられた財宝スペシャルなのである。当人の渇望に迷宮が応えて生成されるものなのだ。偶然手に入ることもあるが確率はより低い。生温い願いでは届かないのに、なぜだかアルカレドにその気がない。
――ですから、薬の完成の方が先になりましたらお渡ししようと考えておりました」
「だが、俺はそんなことをあんたに頼んでは――
「ええ、これは、私の自己満足です。薬の治験にご協力いただけますね?」
 もう一度、エルフィリアはアルカレドの手を薬ごとぎゅっと握り締めた。
 知り得た知識を総動員したとはいえ、初めて作る薬である。効果があるという確証などはない。ただ、これ以上傷が治らなくなることもないので、駄目で元々というところだ。効き目がなくとも、その後回復薬が効かなくなるということはない。
 だから実験台になれと、そういう名目でエルフィリアは薬を押し付けた。
 アルカレドは掌に乗った薬の容器をじっと見ていたが、ややあって、大きく息を吐いた。感嘆したような、諦めたような、そんな息だった。
――わかったよ、有難くもらっとく。……で、これはどう使うんだ」
 エルフィリアの目がぱっと明るくなって、気が変わらないうちにと慌てて使用の説明をする。
「ガーゼに塗布して患部に貼り付けてください。固定するために包帯を巻いて……毎日取り換えてくださいね。眼帯は使用禁止です」
 現在使用している特殊な眼帯は傷の状態を固定してしまうので、それを付けたままだと治らなくなってしまう。
「何分、回復薬とは違うものですから……治癒には時間が掛かります。最低でも、二週間ぐらいの心づもりでいらしてくだされば」
「その間、探索は?」
――行くおつもりですか?」驚きでエルフィリアの声が高くなった。「あの……痛みもあるはずですし、おやめになった方が」
 傷を活性化させるようなものなのでどうしたって痛むのだ。薬には痛みを鈍らせる成分も入っているが、万全ではない。それに、激しく動くとなれば包帯も取れやすくなり、菌が入ることにもなりかねないのであまり良くはない。
「そうかあ……? うーん、そんなに言うならギルドの鍛錬場に行くぐらいにしとくが」
「それが良いですね。私も、出かける用事はありませんから」
 アルカレドがしばらく探索に行けなくとも困るわけではない。薬もできたことだし、エルフィリアが今すぐ行きたいような場所も特にないのだった。


 さて、しばらく暇な時間ができたエルフィリアである。
 適温調整の魔術具を新たに作ってもいいのだが、あまり意味がないのでは、という思考に寄ってきたところだ。同じ原理で冬用のものに転用しようという考えだったのだが、アルカレドなど、激しく動くので却って邪魔になるような気もする。体温が上がったときなどに順応する、というほど複雑な機能は付けられないからだ。あくまで、あらかじめ設定した温度を保つというようなものである。
 エルフィリアにしても、薄着になるのは喜ばしいとも限らないなという結論に至る。合理的ではあっても、季節に応じた装いにならず、冬ならではのファッションを楽しめないのではあまり心が弾まない。
 ただ、別のものへの転用は考えてもいいかもしれない。例えば、毛布とか。機会があるかはわからないが、野営のときに便利だろう。使用時に動く必要がないならば、魔石を入れる部分がある程度のサイズになっても構わないので商品化できる可能性もある。
 案を煮詰めようかなと思っていたところで、リモーネが部屋を訪れた。
「お姉さま、こちらおすすめです……!」
 いろいろと持ってきたそれらを見ると、何冊もの通俗小説だった。
 庶民の間で流行っているものを見繕ってきたようだ。しばらくエルフィリアが探索に行かないことを見越したのだと思われる。
 ――要するに、暇つぶしの種だ。
「同じジャンルのものかしらね」
 ざっとタイトルを確認すると、どことなく偏った傾向が見られた。
「はい、これ全部、恋愛小説です!」
「恋愛小説……?」
 エルフィリアはぱちくりとまたたいた。恋愛が挿入されている古典などを読んだことはあっても、恋愛を主題とした通俗小説に触れたことはない。若い女性に人気のジャンルであることは知っているが、読む機会がなかったのだ。
「リモーネは、恋愛小説が好きなのですか?」
「はい、好きですよ。でもそれより、お姉さまですよ……!」
 なにやら力の入っているリモーネに、エルフィリアは首を傾げた。どうにも、おすすめだから読んでほしいというよりは、読ませねばという使命感が伝わってくるのだ。
「お姉さまはもうちょっと、男女の機微を知るべきです!」
 ずばりと自身の欠点を指摘されたが、腹は立たなかった。ある種もっともだな、という納得もあったし、そう思われているのだなという気付きは興味深くすらあったのだ。
 しかし、唐突だという印象は払拭されていない。
「急に推してきましたね」
「そういうところだからですよ!」
 唐突だという理由を察せないところだ、ということらしい。
「だって、だってお姉さま、あのアルクさんと……!」
 リモーネが憤慨しているのは、エルフィリアがアルカレドと同じ一室に泊まった件である。単なるアクシデントとして話したことが、何日経っても怒りを納められない要因になってしまったのだ。
 ――それが、どう恋愛小説に直結するのかはよくわからないのだけれど。
「最近の流行りは男女両方の視点から書かれているものですからね。男がどこに目を付けて何をどう狙っているかを知ることができます!」
「まあ」
 思想が偏っている。
 完全なる無知のように扱われているが、実際エルフィリアはそこまで鈍いわけではない。彼女がよくわかっていないのは、自身に関わる好いた好かれたの感情である。感情そのものに疎いわけではないのだ。とはいえ、小説自体は面白そうではあった。
「恋愛小説にも流行というものがあるのですね。どういったものが人気なのですか?」
「やっぱり、根強いのは身分差物ですかねえ」
 貴族婚が義務づけられているため通常はあり得ないことではあるのだが、逆にそれが体験できないからこそ小説で、という需要があるのだそうだ。無論、貴族の生活などは空想で行が埋められている。
「定番は、侯爵や伯爵に見初められた町娘とのロマンスや、貴族令嬢と恋仲になった護衛とのロマンスとかですかねえ。後者はもちろん政略結婚から連れて逃げます」
「まあ、どちらが人気なのですか?」
「それはもちろん、見初められる方ですねえ。貴族令嬢の方は雲の上の生活を覗いてるようで楽しいんですが、自分に置き換えて疑似恋愛を楽しむなら町娘ですね」
 相手役に王子様がいないのは、あまりに非現実的すぎて感情移入できないからだそうだ。不敬と見なされて規制されてしまうという一面もある。ただし、結ばれない結末の悲恋としては一定の需要があるので、公爵や王弟にグレードダウンした上でのそういう話はある。
「なるほど……いろいろと楽しみ方があるのですね」
 自分だったら、貴族令嬢と護衛の話の方が好きかもしれないなとエルフィリアは思った。


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2024 01 12