「――まあ素敵」
「素敵、か……?」
数日の間に、エルフィリアを取り巻く周囲の圧が高まっている。いまや、彼女が歩く度に、妙な囁きを一つ二つ拾うのは容易なことだった。
そのいくつかの囁きを集約すれば――奴隷を虐待している、である。
奴隷を連れたお嬢様風の冒険者はこの町に二人いることになるが、そのうちの一人が吹聴しているとすれば、自然ともう一人のエルフィリアに視線が集まるというわけである。以前は注目されることを嫌がっていたエルフィリアだったが、主な理由は貴族だとばれるのが嫌だったからだ。籍も抜けてしまった今では、望まないにしてもそこまで嫌がることでもない。
それを面白がっているエルフィリアに、アルカレドは心底理解できないという目を向けた。
「――あんた、刺激的なこと好きですよね……ん、っつうか、自分の感情を知覚しやすい刺激が好きなのか……?」
後半は自分に言い聞かせるように呟いたアルカレドだが、それを聞いたエルフィリアは、そうかもしれないなという気はしている。
「――それを置いても、あなたの首輪の色が注視されるのは、少々愉快なことだと思いません?」
「あー……それはそうですね……」
奴隷の虐待は違法なので、すわ許さじ、と色めき立つのだろうが、黒い首輪を見て察するのだ。犯罪奴隷には何をしたところで違法にはならない。その首輪の意味を知っている者と知らない者とで反応が二分されているのが面白いのである。
恐らくは、普段なら介入するような者が静観しているので、知らない者も手を出しかねているのだろう。もしくは、エルフィリアとアルカレドの様子を見て判断しきれないでいるか。だからこそ、手を出す代わりにこそこそと噂を囁くことになっているのである。
「まあ、見つけましたわ!」
「――あら、先日の聖女さん」
高らかに声を上げ、びしっと指を突き付けるのは例の聖女、ベルナである。
今度は何を言ってくるのかとエルフィリアがわくわくしていると、それと気付いたアルカレドがなんとも言えない視線を寄越した。
聖女側の人数が増えているところを見るに、どうやらパーティメンバーではないかとの予測が立つ。さすがに、奴隷と二人で中級以上の迷宮に潜るのは厳しいのだろう。
「あなたはその奴隷を苦しめていますわ、解放して差し上げなさい!」
「――まあ、何の権利があってそうおっしゃるの?」
エルフィリアがさらりと首を傾げると、ベルナはうっと詰まった。真正面から開き直られるとは思っていなかったらしい。甘い。
「あなたは奴隷の治療を拒否していますわ、奴隷を大事にしないからこそできる所業、普段からそうやって理不尽を強いているのでしょう!」
「まあ素敵、三段論法ね」
エルフィリアはころころと笑った。彼女自身はこのやり取りをお遊びのように捉えているだけなのだが、周囲からは悪びれない態度に見えるだろう。とても楽しい。
「そうやって他人を見下し虐げる、あなたのような人を悪役令嬢と言うのですわ!」
「まあ、素晴らしいわ!」
「……お嬢様」
ぱちぱちと手を叩いたエルフィリアの反応に、誰一人付いてこれていない。
見かねてアルカレドが声を掛けた。
「……それは、どういう反応なんですか?」
「お芝居のようね、という意味です。昨今のベストセラーに出てくる悪役なのですが、主に主人公を虐げ、最後には報いを受ける貴族令嬢のことをそう呼ぶのです。ベストセラーなのに歌劇にはならない、という点で有名なのですが、そのせいで、お芝居で見る機会がありませんの」
悪役令嬢などと呼ばれることが定着しているのは、要するにキャラクターの個性は重視されないからだ。主人公の障害となり、逆境を与え、ときに当て馬となる、その立ち位置だけが求められているものである。留飲を下げるための記号なのだ。
だからこそ、貴族の間で流行るわけがない。単なる記号として貴族が雑な悪役に設定されており、貴族の生活も憶測だらけのものを、貴族が見る歌劇の題材になどしない。小説の方が取り締まりの対象にならないのは、貴族の度量が狭いことを示す結果になるだけなのでお目こぼしされているのだ。ただし、明らかに特定の人物を描いたものに関しては、名誉棄損として告発されているものもある。
「あー……まあ、お楽しみのようで何よりですね」
アルカレドでも首肯しがたい理屈ではあったが、聖女側に同調するよりは主人に同調する方がよほど合わせやすいのだった。
「――そちらの聖女さん、奴隷を連れていらっしゃるのはあなたも同じこと、解放して差し上げてはいかがですか?」
――こちらに噛みつく前に、という含みである。
「わ、私の従者は、私の傍を離れることを望んではいませんわ!」
「まあ奇遇、わたくしの奴隷もそうですの。問題はございませんわね」
「……いや、そんなこと言ってはねえんですが?」
身分を購うために稼いでいる点からも矛盾しているのだが、アルカレドのその意見は黙殺された。
エルフィリアも実際に主張したいのはそのことではない。自分が奴隷を連れるのは良くて他人は良くないなどという傲慢さを、よくも蒙昧に垂れ流せるなと思ったまでである。それを善だと思っている様子なのでなおさらに滑稽だ。正義感で眼が曇っているからこそ、正当な主張なのかどうかの是非を問うべきということすら頭にないのである。
「埒が明きませんわ。その奴隷、解放するのにいくら必要なのです?」
「まあ、偉い」
しかしエルフィリアは思わず感嘆した。相手の善意を衝いて思い通りに動かそうというだけに終わらず、どうやら具体的な行動に移せる気概はあるところを評価したのだ。
――ただしそれがまかり通るのは、単なる奴隷の場合だけである。
「無理ですよベルナさん、この首輪を見てください。犯罪奴隷は、売られた際の金額を返すだけでは解放でき……」
後方から現れた、聖女のパーティメンバーらしき男が言葉を止めた。アルカレドの首輪を見、眼帯を見、視線をスライドして、そこでひたと止まったのである。
「あ……あ……アルク様……?」
「げっ」
アルカレドの反応は顕著だった。
「あら、お知り合いですか?」
「うーわ、まあ知り合いですけど……見たかった顔じゃあねえな」
「――アルク様、何ですそれは!?」
その男が、狼狽した様子でずかずかと近寄ってきた。
「やっと見つけたと思ったらその姿! あの麗しい眼はどうしたんです!? 何で首輪の色が変わってるんです!? 虐待されてるって本当ですか!? その女は何なんです――その女のせいですか?」
一言ごとに男の目が据わっていき、しゃん、と鞘を払う音がしたかと思えば、その手に抜身の剣が握られている。
途端――ぎぃんっ、という鋭い音が、甲高く響いた。剣の打ち合う音だ。男の振り下ろした剣を、アルカレドのそれが受け止めたのである。
「……物騒な奴」
「何で止めるんです!? 俺が解放してあげますから――」
「いーや、今の俺は犬なんでな、ご主人様を護らにゃなんねんだよなあ」
その言いざまで――どうやらアルカレドはこの男のことをあまり好きではないらしい、ということをエルフィリアは理解した。まともな説明をする気がなく、露悪的な物言いに逃げている。
「殺したりはしません、ちょっと痛めつけて、言うことを聞かせるだけなんで」
「――話を聞かねえなあ、ほんと」
力任せに振った剣筋で相手を転がし、アルカレドは容赦なく蹴りを入れた。男が起き上がってくるのを上段で崩し、また足を払う。
エルフィリアが焦る必要すらなく、ほとんど一方的な蹂躙だった。怪我はあまりさせないように加減しているようで、その分相手がしつこく追いすがる。最終的に、足が立たなくなるまで疲弊させてしまった。
「……気ぃ済んだか?」
男を見下ろし、アルカレドは悠々と言葉を吐く。
その傍に立ったエルフィリアの態度は決まっている。
相手の怪我の具合を確認するでもなく、慰めの言葉を掛けるでもない。謝罪の言葉なんてもってのほかで、ただ冷然とこう告げるだけだ。
「わたくしの忠実な犬を、他人にくれてやる気はございませんのよ」
――決まった、というやつである。
これは最高の茶番だ。無様に舞台に引きずり出されるぐらいなら、自ら見世物になってやる。稚拙な芝居の悪役に割り当てられたことを、エルフィリアは存分に楽しむことにしたのだった。
2023 08 02