奴隷と令嬢

【第一章】

 十五で王立魔法学院に入学したとき、エルフィリアは貴族の義務を果たすつもりだった。
 つまり、卒業までは勉学に励み、そのあとは結婚して跡取りを産むことだ。婚約者もいるし、仲も良好だった。そう信じてきた。しかしどうやら雲行きが怪しくなってきた。
 卒業まであと一年を控えたこの時期に、婚約の話が壊れる見込みが訪れた。
 そうと知ったとき、エルフィリアは――歓喜した。本当は嫌だったのだと、そのときに気が付いた。
 もともと彼女は貴族の生活に違和感を持っていた。平民だったらもっと楽だろうにと思っていたし、心の奥底では自由になりたかったのだろう。――いま、目の前にそのチャンスがある。
 エルフィリアは、貴族として養育されてきたことには対価を返さねばならないと思ってきた。それが、学業を修めて結婚することだったのだ。
 しかし、婚約したことでその義務は果たされたのではないだろうか。契約が揺らぐ隙があるのは相手方の問題なので、こちらに瑕疵かしはない。
 ならば、もういいのではないか、という気がしてきた。学校は卒業するつもりだが――そこまでは義務だと思っているし、知識はあるに越したことはない――そのあとは家とすっぱり縁を切ってしまって構わない。
 いろんなところに行って、魔法を使ったり、薬を作ったり、探し物をしたりしてみたい。動きやすい服を着て、ナイフを使ったり、汚れたり、酒場に入ったりしてみたい。
 過ぎし日の憧れに、手を伸ばせば触れるような気がした。
 ――そうだ、冒険者になろう。
 と、エルフィリアはその日、ひっそりと決意したのだった。


 公爵家の娘、エルフィリア・ユインスタッドには存在しない記憶があった。
 着替えの際に己れの白い腕を見て傷痕が治ったのねと思うも、そもそも怪我をした事実がない。食料が運び込まれてくる際に手伝いのジムがいないかと目を凝らすも、そもそも出入り業者に知り合いはいない。冬の寒い日に今日は水が冷たくて野菜を洗うのが大変ねと思うも、顔を洗う水にも湯が入っている令嬢がそんなことに気が付くわけがない。
 初めは、勘違いか寝ているときに見た夢と混同しているのだと思ったが、長ずるにつれ、どうやら違うらしいという結論に至った。それらはただバラバラのものではなく、誰か一人の記憶だと考えたときに筋が通るものだ。
 ――つまり、自分は誰かの記憶を持っている。
 それを持って生まれてきたということなのか、日常的に誰かの記憶が入り込んできているのか、それはわからない。しかし、恐らく過去の記憶だろう、とは思う。現在進行形ならば、季節や年月が連動するはずだからだ。だから、誰かの過去の記憶を持っている、と言うべきなのだろう。
 エルフィリアはそのことを誰にも話していない。両親にも、二人の兄にもだ。
 誰も理解しないだろうし、空想癖のある子だと思われてしまうのが落ちだ。ユインスタッド家は厳格で貴族的だった。義務を果たし研鑽けんさんする以外のことで、エルフィリアが興味を持たれることはない。
 家族仲が悪いというわけではない。単に、エルフィリアが馴染めていないだけである。
 ただすんなりと貴族の生活を享受できたなら、それほど齟齬そごは起きなかっただろう。しかし彼女には記憶――わかりやすいので仮に、生前の記憶、と定義しておく――があって、培うべき感覚の邪魔になっている。
 幼いころは、食べきれない食事を見て勿体ないと言うと妙な顔をされ、ドレスはこんなに要らないと言うと嗜みだと叱られた。大量にドレスを作ったってすぐに背が伸びてしまうのだから、着られないものがたくさん残って何の意味があるのかと思ったが、着ようと思ったときに選べるだけの数があることが重要なのだという。
 ある日、スープを食べているときに、エルフィリアは野菜の形を知っていることに気が付いた。切る前の、土が付いた状態のものをだ。誰もそんなものを彼女に見せたことはない。知っているのは生前の記憶だった。野菜を洗って切っていた。くるくると野菜を回しながら、ナイフで皮を剥く方法を知っていた。どうやらその記憶では、どこかの屋敷で厨房の下働きをしていたようだ。
 だからふと庭を見て、野菜を植えればいいのになどと言ってしまったのだ。庭師は困った顔をしていて、エルフィリアもさすがに失言だったとわかった。その頃は、自分の記憶が混濁していることにもあまり気付いていなかったし、思ったことをすぐ口に出していたのだ。
 母からは、使用人と馴れ合うなと叱られた。
 それからは、納得できないまでもある程度の貴族の価値観というのを覚えた。使用人とも必要以上に親密にはならなかった。それは、母の言いつけに従ったからではない。
 ――生前の記憶では、主人の娘が友達のように接してくることが心底嫌だった、ということを思い出したからだった。


 王都にある、王立魔法学院への入学は貴族の義務である。
 期間は十五歳から十八歳までの四年間。厳密には、十五になる年から、ということになる。
 十五ともなれば成人年齢なので庶民は働いている者が多いが、貴族の血筋は魔力が多いため成人してから高度な魔法を学ぶ。子供のうちは、急な成長や未熟な精神が魔力に影響し、成人するまではなかなか安定しないからだ。
 というのも理由ではあるが、一部は建前である。家庭教師を付けている家が多いため、実際は成人前に高度な魔法をかじっていることも多い。講義内容も高度な魔法については一部のみだ。貴族と言えど、すべての者が高度な魔法を使いこなせるわけではないからである。
 これは王家の示威行為なのだ。遠方からでも王家の膝元に子女を差し出すことで恭順の意を示す、ということを求めている。集めるのが目的なので、入学金も授業料も無料であり、収入の少ない家は助かっている。と同時に、寄付は自由である。つまり、上位の家は寄付金を差し出すことで貢献度を示そうとするので、その辺りの家が競争し合って、それなりの運営資金となっている。
 本日の講義では、杖を持参するようにとの通達があった。持っていない場合は貸与してもらえるが、大概は自分のものを持っている。
 わざわざ通達しているのは、普段は杖を使用していないからだ。勿論、使った方が効率は良いのだが、貴族は見栄のためにそれを嫌がる。魔法用の杖は、だいたいが前腕ほどの長さで太さは指二本分ほど、軽いので腰に下げていてもさほど邪魔にはならないものだ。主に指向性の補助具として使用するのだが、杖を使うのは未熟者だというイメージが先行している。
 実際は、速度や正確性が向上するので、より高度な魔法においては安定感に大いに影響がある。ただ、どう行使するかが杖の動きで筒抜けになる不利益があるため、攻撃魔法には向いていない。有事には前線に出る可能性の高い貴族が嫌がるのにも、根拠がないわけではなかった。
「エルフィリア様はどのような杖をお持ちでいらっしゃるの?」
「わたくしのものはこちらです」
 子爵令嬢のレアンドラに声を掛けられ、エルフィリアは素直に自分のものを見せた。
 貸与されるものとほとんど変わりない、柄の部分に滑り止めの革を巻きつけてあるだけのシンプルなものだ。ただし素材は竜の骨なので質はべらぼうに良い。
 一方レアンドラの杖は、細かい装飾が彫られ、金属製の柄には小さく砕いた宝石も散りばめた、豪奢なものだった。彫りやすいように一段硬度の劣る素材が使われ、割れないように硬化の魔法が掛けられている。杖自体に持続魔法が掛かっていると魔力の伝達を阻害するため、実用性ではやや落ちるものだ。
 エルフィリアはこういう、派手や見栄を求める貴族の価値観が理解できなかった。彼女は、実利の無いものは無駄だと思いがちだ。杖だって、普段から使う気がないなら借りれば良いと思っている。しかし、無いから借りるというのはやはり貴族の見栄に関わるのだ。
「竜の骨というのはもっと色がくすむものかと存じておりましたが、磨くとこのように綺麗な真珠色になりますのね」
 レアンドラは感心したような声を上げた。彼女は貴族的な価値観を持ってはいるものの、こちらの価値観の否定や上書きを試みないのでエルフィリアは有難く思っている。
 家からは、好きな装飾を入れられるように加工前の杖が与えられたが、エルフィリアはそれを研磨だけにとどめていた。勿論、光沢のために磨いたのではない。滑らかで凹凸がなく、先端に向かって細くなる形状が最も魔力伝達が良いためだ。
 せっかく高度な魔法を学ぶとはいえ、実践で使うことはほとんどない。魔法士団に入団するか国境の領地を護っているような者はともかく、平時ではあまり出番はないのだ。特に、女生徒に今後の機会が訪れる見込みは小さかった。
 エルフィリアは演習場の外でも魔法を使ってみたいと思っているが、同様の女子がいるようには見受けられない。立ち回りの組み立てや術式のアレンジを考える素振りもなく、レアンドラも習った通りの魔法が発動できればそれでいいようだった。
「今日は学課後にケーキを頂きに参りませんか?」話題のカフェがあるのだとレアンドラからの誘いを受けたが、
「所要がございまして。またの機会に誘ってくださいませ」
 と、エルフィリアは断った。
 単なる方便ではなく、冒険者になるための準備を始めておこうと思ったのだった。



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2023 02 12