かつん、こん、と静かに歩いているつもりでも、足音が地下通路にわんわん響いた。
 そこでレイクは足音が自分のものだけではないことに気づく。
 地下のひんやりした冷気に伴って、囁き声がさやさやと流れてきた。少女の声と、数人の青年の声だ。
「リル!」
 明かりがゆらゆらと見えたので、レイクは相手を確信してそちらの方に駆け寄った。
「レイク!」
 リルの方もレイクに気づいて、明かりを揺らして彼を呼んだ。傍に付いているのは文官のテイグリスと、武官のイル、レンフォースだ。この脱出路に入る隠し通路は一つではない。リルたちは、違う入り口から地下へと下りてきたのだろう。
「レイク様、お一人ですか」
 長身だが童顔のイルが気づいてレイクに話しかける。それに応えようとして、レイクの声が少し詰まった。
「ルセークに……逃がしてもらった。この襲撃のリーダーらしき奴がこっちに来たんだ。それで……父さんも、どうなったのか……」
 レイクはゆるゆると首を横に振る。必死に堪えて涙の滲んだ顔に、イルはそれ以上尋ねず小さく息を吐いた。
「レイク様がご無事でよかった。しかし現在の状況がわかりません。ここは一旦脱出して、態勢を立て直すべきでしょう。乗り込んできたのがどういった勢力なのか見極めなければ」
「うん、それが妙なんだ。父さんは一部の同盟反対勢力じゃないかって思ってたみたいだけど、魔術師が居た。まず間違いなく、ゼクカロス王家の者だろう。でも戦争を起こすつもりにしては敵の人数が少なすぎる」
 そうですか、とイルは考え込んでしまったが、リルが促してとりあえず一行は出口へと歩き始める。
「あと、魔術師の奴はおれが狙いだったみたいだ」
 何気なく付け足したレイクの言葉は、一行に沈黙をもたらした。
「そうすると……ここを抜け出しても安全とは限りませんね。レイク様を狙ってずっと追ってくるかもしれません」
「そうですね、この人数で逃げるのは目立ちすぎます。二手に分かれますか」
 レイクのひと言で、テイグリスとレンフォースが少人数に分かれた方がよいとの判断を下す。それを聞いて、レイクは動揺した。先ほど、敵前から逃げ出したばかりで、父の安否もわからない。そこに彼らと合流してやっと少し安心できたのに、また分かれろというのだ。レイクの脳裏には、逃げろと言ったルセークの姿がまだ焼きついていた。
「そんな、一旦城から出たら大丈夫だろう、一緒に逃げよう」
「ううん、レイク、ここは分かれた方がいいと思うわ」
 それを諌めたのは、意外にもリルだった。
――リル様」
「うん、わかってるわ、レン」
 思わず声を上げたレンフォースに、リルはにっこりと笑いかけてみせる。しかしその手は細かく震えていた。「うん……怖いわ、でも行かなきゃ」
「では、リル様は私と共に。ティグはレイク様に、レンは」
「おれはリル様と」
 すかさず返事を寄こしたレンフォースに、イルは苦笑する。「わかった」
 そのあと、出口まで一行の口数は減った。地下を抜け、辺りに敵がいないことを確かめて、テイグリスはそっとレイクの背を促した。
「……では、ここで分かれます。――御武運を」
「うん、みんな、無事で」
 そしてレイクは、リルたちに背を向けた。


「レイク様、この場から早く離れます」
 急いで、と声を強めて、テイグリスはレイクに外套を被せかける。「顔を隠して」
 言われたとおり、レイクは顔が隠れるように外套を羽織る。いくらランプがあったとはいえ、暗がりから抜け出したばかりの目にはまだ朝日が染みた。地下を行く間に、夜が明けていたのだ。
「体力を温存した方がいいんじゃないのか」
 息を切らしながら、自らの足を叱咤してレイクは駆ける。街道は出来るだけ避け、森沿いを走っていた。
「いえ、辺りが明るくなったので、見つかる可能性が高まるでしょう。イルたちが時間稼ぎをしている間に、できるだけ遠くに逃げるのが得策です」
――時間稼ぎ?」
「わからないのですか。恐らくリル様が囮になっていることでしょう、あなた方は良く似ていますから」
――っ!」
 刹那、レイクの頭が真っ白になる。足を止めたレイクの腕を無理やり引っ張って、テイグリスは再度駆け出した。
「ティグ、リルが……!」
「大丈夫、武官二人が付いています、敵も恐らくあちらを狙うでしょうが、その彼らがその腕で撃退するでしょう」
「そういうことじゃない!」
「聞き分けなさい。リル様はわかっていらっしゃいました」
 レイクの顔は怒りで一瞬熱くなったが、すぐにそれは羞恥に変わった。――怖いけれど、わかった、と返答したリルは、既にそのことを受け入れていたのだ。
「我々にとっては、お二人とも大切な方には変わりありません。しかし、セントパイル国にとっては、あなたが重要なのです。レイク様こそが」
 レイクは、このときほど、自分が王家の人間であることを、重要な人間であることを悔しく思ったことはなかった。そうでなければ、少なくともリルとは一緒に居ることができたのに。
 彼らは、レイクの叔父のリディオールの屋敷へと針路を決めた。そちらまで行けば情報を整理できる。リルたちが敵を振り切っていれば、同じくそちらを目指すだろうとの読みもあった。
 しばらくのち、息を切らしたレイクは足に力が入らずに転びかけた。はっはっはっ、と情けない息切れの音が、自らの耳に、耳障りに響いた。
――レイク様、少し休みましょうか」
 足を止めて、テイグリスが休憩を促す。「ごめん、迷惑ばかりかけて」とレイクが溢すと、「いえ、気丈に頑張っていらっしゃいます」とテイグリスは笑んだ。
 しかし、その動けないところを敵に狙われたのだ。そのタイミングの良さは、どうやら少し離れたところから付いてきて、彼らがへばるのを待っていたかのようだった。
 追っ手に、テイグリスはすかさず気づいた。相手はたった二人だった。多くはやはり、リルたちを追ったのだろう。
 テイグリスはすらりと、腰に佩いた剣を抜く。
 すぐに、きん、きぃん、と剣戟の音が森に鳴り響いた。敵の狙いはやはり、レイクだ。テイグリスは、手を出されないようレイクをすぐ傍に置き、背後にかばっていた。
 剣技はあるが力のないテイグリスは、敵の攻撃を防ぐもその重みに耐え切れないのか、剣を構える腕が少しずつ下がってきていた。だがまともに受けずに剣筋を避ければ、レイクが危険に晒されてしまう。
 しかしテイグリスの鋭い突きも、敵の腕を突き足を突き、少しずつ相手の体力を奪っていた。
 相手の一瞬の隙を衝いて、テイグリスは攻撃を横ではなく縦、つまり下に避け、相手の腱を切り裂いて戦闘力を奪った。これで一人は無力化した。しかしその隙をもう一人が逆に衝いて、レイクに踊りかかったのだ。腰を低くしたテイグリスの体勢では、すぐに攻撃に転じることは出来ない。
――レイク様!」
 テイグリスの取る道は一つだった。彼は剣の先で地面を強く突くと、その反動でレイクの傍に舞い戻った。
 ――そしてそのまま、レイクをかばって敵の剣に貫かれたのだ。
――ティグ!!」
 テイグリスはごほっと血を吐いた。しかしふらついたその足はいまだ崩れない。彼は、自らを貫いた獲物を敵が引き抜く前に、手にした剣で相手を貫いた。そして双方はそのまま地面へと倒れる。
 森を暫しの静寂が覆った。鳥の声だけがやけに大きく耳に響いて、レイクは呻きながら両耳を強く塞いだ。
「ティグ……テイグリス……」
 テイグリスは動かない。彼の倒れた草の上で、血溜まりだけがその呼びかけに応えるかのようにじわりじわりと広がっていった。
 ――そして、レイクは独りになった。


――っは」
 身体にへばり付く不快な寝汗と共に、少年は目を覚ました。カーテンの向こうが薄っすらと白んでいる。夜明けが近いようだ。
 どっどっど、と心音が狂おしく脈打っていた。
 ――また、昔の夢を見た。
 あのあと彼は、文官の残した剣だけを道連れに、叔父の屋敷へ向かった。しかし、そこも既に敵国の兵士が取り囲んでいたのだ。
 幼い少年一人の判断力では、叔父の屋敷が監視されているだけなのか、それとも実は敵を手引きしたのが叔父だったのか判断がつかなかった。茂みに隠れて、空腹と恐怖に震えながら一晩待ったが、状況はなにも変わらなかった。
 妹たちが先に着いていれば、兵士たちは排除されているはずだった。それに気づかない彼らではないし、それだけの実力がない彼らではない。だから少年は、妹たちはもうここには来ないと思った。恐らく彼らも、この状況を見て、ここを去ったのではないか。そう思った。
 斃されてもう戻らないなどとは、思いたくなかった。
 あのあと、国の周辺で情報収集をしてみたが、なにもわからなかった。両国の間で小競り合いがあった、程度の噂しかなく、攻め込んだのが王族だったことも、攻め込まれた側が国の中枢にダメージを受けたことも、民衆は何も知らなかった。いまだにその辺りの情報は手に入らず、すべては闇に包まれている。すでに立ち直って情勢が落ち着いているのか、それとももう支配されてしまって情報統制に遭っているのか、状況はまるでつかめなかった。
 彼は、思い起こす。
 ――あのとき、彼は、魔法が使えたはずだった。
 父の下に現れたあの魔術師の魔法に、相殺するかたちで魔法をぶつければなんとかなったはずだった。
 追っ手が来たときに魔法が使えていれば、護られるだけの足手まといではなく、充分に援護が出来たはずだった。
 しかし現実には何も出来なかった。気が動転して恐怖に押しつぶされそうになっていた彼には、魔法を使うだけの精神力と集中力が維持できなかったのだ。
 だから彼は誓った。
 もう、二度と、誰の足手まといにもならないと。すぐに動転する気の弱い自分を捨て、必要なときにはいつでも魔法を使えるだけの強靭な精神力を手に入れると。
 もう、ごめんだった。自分の所為で誰かが危険に晒されるなどということには耐えられなかった。
 心臓の音はもう落ち着いてきている。
 しかし、再度夢の世界に戻ろうという気にもなれなかった。
 ひとつ溜息を吐いて、彼はこのまま夜明けを待つことにした。


next
back/ title

2009 05 09