彼は何を考えた

 最初はただ、嬉しかった。
 可哀相だと思われることも愚図だと思われることもなく、いつも構ってもらえることが嬉しかった。
 ――この子は我侭なんだな、と思うようになったのはいつごろからだったろうか。
 美衣那は、健治郎が思うほど周囲に好かれてはいなかった。それは彼女が我侭や思い付きで人を巻き込むせいだった。嫌われているというほどでもなかったが、いつも付き合うのは疲れる、といった具合だろうか。
 健治郎がそうと理解できるようになったころには、彼はそれほど孤立しなくなっていた。口が重かっただけで頭が悪いわけではなかったし、筋力もついてさほどノロマでもなくなった。周囲の遊びについていけるようになったら、簡単に輪に入れるようになったのだ。
 だから、美衣那と離れようと思えば、容易なことだった。
 健治郎だって、美衣那の我侭をすべて許容できたわけではない。中には、したいと思わないようなこともあった。嫌だ、やめろと怒ってみせることだってできたはずだ。
 ――でもそれを、しなかった。できなかった。
 美衣那が、健治郎を疑わなかったからだ。いつだって、健治郎が怒ることを、断ることを、少しだって疑わなかった。健治郎のことを信じていた。あんなに我侭なくせに、呆れるほど美衣那は純粋だった。
 その期待をなぜだか裏切りたくなくて、健治郎は美衣那に従った。
 美衣那の我侭に振り回されていたわけではなく、付き合ってやっていただけだった。


 心得違いをしていると気づいたのは小学四年生のときだった。
 そのころ、健治郎は美衣那の「恋人ごっこ」に付き合わされていた。
 男子と女子はそんなに変わらないという美衣那の持論は、暴論でしかなかった。頷けるはずがなかった。どんなに体格が似通っていようと、違うことばかりだった。美衣那の方が細い指先をしていたし、美衣那の方が骨が華奢にできていた。頬を触れ合わせると髪の香りに胸がうずいた。男友達と同じわけがない。
 それなのに、美衣那はよくわからないと言う。わからないと言って触れる。
 健治郎はぐちゃぐちゃになりそうだった。その前に美衣那が飽きてしまったことには正直ほっとしている。
 互いの交友関係が交わらなくなったとき、健治郎はそれを受け入れた。ぐちゃぐちゃになりかけた自分を整理する時間が必要だったのだ。美衣那の方もなんらかの整理をしたのだろう。その結果、健治郎に近寄らなくなった。
 そうなったとき、胸にどっとこみ上げたのは怒りでも失望でもなかった。――自分のせいだ、ということがただわかった。
 健治郎が、美衣那を増長させた。
 我侭を受け入れ、諭すこともせず、ただ甘やかした健治郎のせいで、美衣那は明らかに度を越した。彼女がそれを自覚したのは実行したあとだった。無かったことにしたがったのは恥じたからだ。
 付き合ってやっていると思っていたのは、健治郎の自惚れだった。むしろ逆だ。与えられることを望んでいたのは健治郎だった。餌を待つただの犬だった。なに一つ、美衣那のためにはならなかった。
 そう気付いたら、望まれもしないのに美衣那に近づくことはできなくなった。


 美衣那と同じクラスになったときには、高校生活はあと一年だった。
 彼女がひどく緊張しているのは知っていた。健治郎が同じ空間に居ることに、明らかに過敏になっている。
 だから声を掛けた。美衣那が落ち着かないのは、健治郎との関係に名前がついていないからだ。ただのクラスメイトにするのか、そうではないのか、美衣那が好きに決めればいいと思った。
 ――嫌われるのなんて簡単だ。
 そうなれば、美衣那は健治郎への負い目を捨ててしまえる。気に病む必要がなくなる。
 そのはずだったのに、少しも上手くいかなかった。二度と近寄るなと言われたら受け入れるだけで済んだのに、美衣那はそれを言わなかった。
 それどころか、会わない間に美衣那は知らない女の子になっていた。健治郎を見る目に、不信と怯えが混じっていた。無邪気に健治郎を信じていた女の子は、どこかに消えてしまったのだ。
 それはきっと、間違ったことではない。健治郎は自分に言い聞かせた。彼が甘やかさなければ、美衣那はとっくに当たり前の分別を身に着けていたはずだ。
 だからこそ、健治郎には指針がなかった。健治郎が距離を詰める分だけ、美衣那は健治郎を恐れた。離れてしまうことはいつでもできたが、それでは何も変わらない。
 もう少し傍にいたら、健治郎に慣れるだろうか。怒らない存在だとわかってもらえるだろうか。
 そんなことを考えてぐずぐずとした日々を送っていたある日、すべてはめちゃくちゃになった。


 逃げる美衣那を追いかけたのは、ただの好奇心だった。
 目の前であからさまに避けるものだから、つい、ふらっと追ってしまったのだ。
 教室に戻らずに階段を上ったところで、追うのをやめるべきだった。美衣那はそれほど逃げることだけを考えていた。健治郎が、美衣那を追い詰めた。
 ――だから、焦った美衣那が階段を踏み外すことになったのだ。
 健治郎は慌てて受け止めたが、「無事で良かった」という安堵よりも「間に合わなければどうなっていたか」という動揺が上回り、「追い詰めたのは自分だ」という衝撃がすぐ後にやってきた。その混乱が、健治郎の処理能力を超えてしまった。
 行き場のない焦りと怒りがせり上がってきて、つい大声で怒鳴ってしまったのだ。
 その直後、すっと怒りが引いた。血の気が引いたと言っていい。あんなに、美衣那を恐がらせないように怒らないように心を砕いていたというのに、健治郎は自ら叩き壊してしまったのだ。
 結局、同じことだと思った。健治郎は繰り返している。
 何かをしてやれるつもりでいたのはただの思い上がりだ。何もしてやれないのがつらい。取るに足りない存在だと思い知るのがつらい。
 健治郎は、美衣那に近づく理由を失った。何も変えられないどころか悪化させている。
 それでも学校に行けば同じ教室に美衣那がいて、健治郎は息苦しくなった。目を向けないようにしても、ちりちりとした緊張が肌の上を滑っていく。
 そんなある日、家に帰ると自室で美衣那が待ち構えていた。
 ――俺のベッドで、みーちゃんが寝てる。
 健治郎は困惑した。何も前触れがなかったので、幻覚まで疑った。


 そっと顔を近づけると、呼吸が分かった。胸がゆっくりと上下に動いていて、かすかに体温を感じる。生きている。現実だった。
 蝶を飛び立たせまいとするかのような声音で慎重に呼びかけると、美衣那が目を開く。
 健治郎を見て、きょとんとした顔をした。
 健治郎の胸がまた、ぎりぎりと痛む。どうしてこの女の子はいつまでも無防備なのか。彼を恐れるようになったと思っていたのに、肝心なところで、自分が傷つけられるとは疑ってもいないのだ。
 ――それは、間違いとは言えなかった。
 終わらせることは簡単なのに、乱暴に切りつけて終わらせることはどうしてもできなかった。だから早く傷つけられたかった。美衣那から壊してほしかった。
 それなのに、やっぱり彼女は何一つ思い通りにはならないのだ。
 美衣那は健治郎に触れて、健治郎をゆるそうとする。
 ――みーちゃん、みーちゃん。
 手が震えた。激情が声にならない。いま彼女と話している自分と、心の中の自分がまるで乖離かいりしているようだった。
 そんなことは露知らず、美衣那は自らを「優しくない」などと言う。滑稽だった。
 ――馬鹿みたいに素直だった。
 事実だけを外から見れば、健治郎がただ振り回されていたように見える。それをどう思っていたか、きちんと伝えない健治郎は卑怯だった。黙って言いなりになっていたのは逆らえなかったからではない。
 美衣那の方がよほど素直で自覚的だ。
――俺の好きにしろってこと?」
 言葉尻だけをとらえて卑怯に問い返すと、美衣那はそれを否定しなかった。それどころか、押し倒されても不思議そうな顔をしている。
 馬鹿だなあ、と思う。馬鹿なのは自分だった。
 健治郎は、そっと美衣那の頬に触れた。指先から伝わる熱が、ちりちりと身を焼いていく。
 キスをしようとする健治郎に気付いてやっと慌てだした美衣那に、口の端で笑う。
 いまさら止めることはできない。胸の中がなにかでいっぱいで、もう溺れそうなのだ。
 指を滑らせて、美衣那の手を握る。細い指先を、ささくれだった自分の指が捕まえて、隙間を埋めるように絡めて押さえつける。違う次元のものが重なったかのように現実感がない。それなのにちゃんと、指の間に感触がある。熱がある。
 それがなんだか、泣きたいような気分にさせた。
「俺、まだ――振られてないし」
 この状況を繋ぎとめておくように、現実を捕まえておくように言葉を吐いた。
 言葉だけでは伝わらない気がして、もう一度顔を近づける。


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2022 03 27