「健治郎って、怒ったらすぐわかる?」
「――は?」
階下の教室まで小学校のときの同級生を訪ねに行くと、妙な顔をされた。
「だからさ、怒ってないふりしてるけど怒ってるとか、健治郎、そういうとこある?」
「あいつは怒ったら態度にすげー出るからすぐわかる。……っていうかなんで俺に訊こうと思った」
久々に会った貝原は不可解な顔をしている。だよね、と頷いて美衣那はハハと乾いた声で笑った。健治郎本人には訊けないからだった。
「私って、小四までの健治郎しかよく知らないんだよね。なに考えてんのか、よくわかんなくて」それまでだって、よくわかっていたとはとても言えないのだが。
「――仲直りしたんだ? お前、黒森だけじゃなくて俺たちのことも避けてたよな。いまごろ話しに来るとは思わなかった」
「仲直りというか……よくわかんないけどしゃべるようになったというか。……あんたたちを避けてたのは、絶対、からかうからでしょ」
小学生男児に余計な餌を与えたくなかったのだ。ベタベタしていただけでもからかう要素満載だというのに、別れたとなったら思う存分突っつきまわしたに決まっている。
女子の方は意外と大丈夫だった。恋の話に興味は持つが、終わった恋の話ならさほど蒸し返されなかったのだ。多少は訊かれたが、別れた直後は美衣那の方もまだ負い目や羞恥はさほど育っていなかったのでダメージは少なかった。
「それは、まあ……なんとも」
「なんとなくわかったからいいや。休憩時間終わるから、じゃあね」
チャイムまではまだ数分あったが、これ以上貝原に用はないので美衣那はさっさと戻ることにした。
――廊下に出たら、そこに健治郎が居た。
驚いた美衣那はひゅっと息を呑み込んで、あからさまに顔を逸らした。
あ、やばい、とは思ったが、立て直し方がわからなかった。いままでだってそれとなく避けてはきたのだが、こんなふうに、目の前ではっきりと拒絶を示したのは初めてだった。
美衣那はさっと階段に足を乗せた。頭の中がぐるぐると回っている。とんとんと上がっていくと、健治郎がついてくることが気配でわかる。足が急いて、どんどん早足になる。美衣那は黙っている。健治郎も黙っている。
――機嫌を、損ねたのだろうか。
確認するのも恐くて、美衣那は自分の教室の階についても足を留めなかった。ずんずんと上っていく。
気のせいだと思いたかったが、健治郎が後ろにいる。教室に戻らずに、明らかに美衣那を追っている。
それが落ち着かなくて、美衣那は階段を上りながら振り向いた。思ったよりも距離が近い。焦ってまた足を進める。つま先だけが滑り止めのところに載ってしまい、あれっと思った途端に重心が後ろにがくんとずれた。
階段のアングルがぐるりと変わっていく。――あ、落ちてる、と気付いた瞬間、頭がどんと何かにぶつかった。
頭だけじゃなく、肩も背中も、ぶつかっていた。腹のあたりに、健治郎の腕が巻き付いている。
――健治郎が受け止めたのか。
状況を理解して美衣那は振り返った。腕が邪魔だったので、首だけ斜めに反り返ったようなかたちになった。
「――あ」
「ばかっ!」
礼を言うべきかと迷った瞬間、怒声が降った。
聞いたことのないような大声にぎょっとしたが、ぽかんとしたというのがわずかばかり勝った。確かに怒っているとはっきりわかる声だったが、どこか上ずっていて稚拙だった。
腕を押しのけると離れたので、美衣那は健治郎に向き直った。階段のせいでいつもより少し、顔が近い。
健治郎の口元がわずかに震えていて、目の縁が赤くなっていた。
「健――」
美衣那は声を掛けようとしたが、健治郎はそれを振り切って、勢いよく階段を下りていった。
チャイムが鳴るまで、美衣那は階段にぽつんと立っていた。ついに健治郎を怒らせてしまったが、
――少しも恐いとは思わなかった。
「健治郎の機嫌を損ねちゃったんだけど、どうしたら良いと思う?」
「お前何やったんだよ……」
美衣那がまたも貝原を訪ねると、呆れた顔をされた。
「謝れば?」と、至極もっともで心のこもっていない助言をもらったが、
「なんか、避けられてるみたいで……」
美衣那はそう単純に受け取れなかった。
あの日以来、どうやら健治郎に避けられている。話しかけてこないし、帰り道にも追ってこない。美衣那の方はもともと避けていたのだから、どう言って近寄ったらいいのか、よくわからないのだ。
「……それは、もしかしてものすごく怒ってるのか?」
貝原が少し、心配そうな顔になった。彼らの間では、あまりそういうことは起こらないらしい。
「いままでの分が積み重なってとかそういうのかなあ……」
そう言ってはみたものの、そうではないような気がする。
起こった出来事だけを見れば、美衣那が健治郎から逃げようとしたことか、不注意で階段から落ちそうになったことに腹を立てたのだと思う。
健治郎が怒った原因と、過去のことは関連していないはずだが――と、美衣那はあることに気が付いた。
「ねえ、あんたたち、小学生のとき、健治郎のこともからかったんじゃないの?」美衣那は男子を避けていたが、健治郎は孤立しないためには男子の輪の中にいるしかなかっただろう。「あの子、逆らったりできなかったんだからさ、屈辱的だったんじゃないの? そのときのことで、私のことも恨んでたらどうしよう」
――腹を立てたら昔のことも思い出して上乗せされた、という線ならあり得そうな気がする。美衣那が自覚していたよりもずっと、溜め込んでいたのかもしれないのだ。
「――は? 何言ってんだ?」
貝原は、ぎょっとした声を出した。
「あいつ、すげー喧嘩強ぇんだぞ。怒らせたら、めちゃくちゃこえぇだろうが」
「――え?」
うっそでしょ、と呟いてからその言葉が頭に沁みた。――ん? あれ? と美衣那は頭を抱える。
健治郎は小柄で細身だったが、当時から喧嘩は強かったらしい。それがいまや、体格も人より勝っているのだから、貝原が青ざめるのもわかる。
しかし美衣那は、健治郎が怒っても恐くはなかった。怒り方が下手くそだったからだ。怒りをぶつける言葉を上手く見つけられなくて逃げたようにしか見えなかった。
それが、意外と喧嘩慣れはしていたらしい。
「えー……どうしよう……」
他の人との喧嘩と、美衣那との喧嘩は、どうやら性質が全く違うのだと彼女は気が付いた。
「何やって怒らせたんだよ……」
「怒らせたっていうか、たぶん……泣かせた?」
階段で見た健治郎の目は潤んでいた。怒り慣れない人は感情が高ぶって泣くことがあるのでそういうものかと思ったのだが、違うような気がしてきた。
「お前ほんとに、何やったんだよ!?」
貝原が、それこそ泣きそうな声で叫んだ。
美衣那は、学校で健治郎を捕まえるのは諦めることにした。
美衣那が近づくよりも、健治郎が逃げる方が速い。帰り道を狙ったとしても、追いつける気がしない。
人目のあるところなら健治郎も逃げないと思うのだが、校内で目立つのは美衣那の方が嫌だ。
――そうして結局、美衣那は健治郎の家に行くことにした。
久しぶりの訪問を健治郎の母親は非常に喜んだので、美衣那はいささかばつが悪くなった。健治郎はどこかに寄っているのかまだ帰っておらず、美衣那は健治郎の部屋で待たせてもらうことにした。仲直りに来たので逃げられると困ると説明して、靴まで隠してもらった。
――それなりの意気込みのつもりだったのだが、気を抜いて眠ってしまったらしい。
「みーちゃん」
声を掛けられて、美衣那はぼんやり眼を見開いた。健治郎が硬い表情で見下ろしている。
「どう……したの」
健治郎の声は、感情を取り落としたように平坦だ。
美衣那はベッドの上でもそもそと起き上がった。さすがに逃げないんだなと思いながら、折れ曲がったスカートの裾を直す。
えーと、と美衣那は口の中で呟いた。何を言うつもりだったのかが完全に飛んでいる。謝ればいいのか、でも謝るようなことしたっけ、と思ったとき、口からするりと言葉が滑り出てきた。
「まだ、振った覚えない――し」
「じゃあ、振ってくれ」
そう言って、健治郎は美衣那を押し倒した。
――そうきたか。と、美衣那は思ってしまった。答えるのにラグがなかった。健治郎はきっと、何かの返事にその言葉をずっと考えていた。
美衣那との関係に、何らかの決着をつけようと思っていたのだろう。フェードアウトじゃなくて、同じクラスになったから。それを何かの機会と捉えたのか、視界に入ってしまうからただ目障りと捉えたのかはわからないが。
「みーちゃん」
焦れたように、健治郎が美衣那の耳元に口を寄せる。少しかすれた声だった。
――どうしよう。全然恐くない。
美衣那が健治郎の頬に手を当てると、彼はびくっと顔を上げた。眉間に皺が寄っている。美衣那が黙っているから困っているのだな、とわかった。
「私が泣かせたから避けてたの?」
とりあえず、訊きたかったことを訊いてみた。それを言うタイミングは今ではない、とわかってはいたが敢えて無視した。
「ち、違う……みーちゃんのせいじゃない。みーちゃんに怒鳴っちゃったからどうしよう……と思って……」
健治郎は視線を外す。その答えはたどたどしかった。
振られようとしていたわりには行動に一貫性がない。健治郎はきっと、美衣那を傷つけたくなかったのだ。それなのに、未だに喧嘩の仕方も仲直りの仕方もわからないのだ。
美衣那は思わず、手を伸ばして健治郎の頭を撫でた。
「健治郎は、もっと怒ってもいいと思う」
「この状況で……みーちゃんがそれ言う?」
健治郎は美衣那を起き上がらせると、身体を離した。自分はベッドに背をつけるようにして床に座る。
はあっと健治郎は息を吐いた。当てが外れたような、途方に暮れたような溜息だった。
「……健治郎はさ、いままでだって、私に怒ってよかったのに」
「なんで?」
返ってきたのは、きょとんとしたような声だった。
「なんでって……いろいろ、言いたいこと溜まってたんじゃないの。それに、さっさと私に振られたいんでしょ。最近もてるから、彼女欲しくなった?」
「……なんで?」
次は、困惑したような声になった。
「みーちゃん、何が言いたいのかわからない」
「私だって……健治郎のことわかんない。言ってくれないとわかんないじゃん」
美衣那は拗ねたような言葉をぶつけた。これは半分、言いがかりだ。不安だから、突っかかっているのだ。我侭な部分が出ている、と自分ではわかっている。
「怒ってないし――みーちゃんに不満なんてない。俺、構ってもらえて嬉しかったんだよね」
「……子供のころのこと?」
「そう。俺、鈍くさくて小さかったから周りについていけなくて。みんな途中でめんどくさくなっちゃうんだよね。でも、みーちゃんだけは俺を『つまらない』とは言わなかった」
「――ちょっと待って!」
美衣那は慌てて、健治郎の話を遮った。恩を感じているとでも言うのだろうか。美衣那は心苦しくなった。そんな優しさなんて持ち合わせていなかった。美衣那はただ、我侭放題に振り回しただけだ。
思わずシーツをぎゅっとつかんだ。指先が冷えている。
「わた――私、そういうんじゃない。優しくなんてなかった……」
「知ってる」
健治郎は後ろにぽすんと頭を倒した。
「わかってる。俺は、勘違いしてるわけじゃない。もしも同情されてたなら、みーちゃんのこと嫌いになった。底抜けに優しい子だから俺にも優しかったんだとしたら……きっと惨めになった。特別な理由がないのが嬉しかった。みーちゃんが我侭なのが……嬉しかった」
「うっ……」
美衣那の頬が熱くなった。なんだか、すごいことを言われているような気がする。だから気恥ずかしくなって話題を逸らそうとした。このまま聞いていると、変な勘違いをしてしまいそうだ。
「健治郎って、私に思い入れあるようなこと言うわりにあれ以来避けてたじゃん。最近は、別にそんなでもないんじゃないの……」
「それは、みーちゃんが嫌がるから離れようと思って」
「でも急に接近してきたじゃん」
「それは、みーちゃんが気にしてたからはっきりさせようと思って」
同じクラスになってから、居心地が悪くてちらちらと気にしていたのはわかっていたらしい。宙ぶらりん状態は、思ったよりも不快というか、解けないパズルをずっとこねくり回しているような感じだった。
明確にしなくてもわかる。――ちゃんと振ってくれたら手を引く、と健治郎は言っているのだ。
「健治郎はなんで――そうなの?」
「ん?」
「ちゃんと、怒ったほうがいいし、私のことばっかりじゃなくて。自分のこと、考えなよ」
それって、私のせいみたいじゃん――と美衣那は口を尖らせた。配慮してくれるのは嬉しいけど、美衣那を理由にしないでほしい。
「――俺の好きにしろってこと?」
「そうとも言う……?」
首を傾げたら、そのまま倒れ込んでしまった。ん? と思ったが、健治郎が腕をつかんでいたことに気付いた。美衣那はいつの間にか、また健治郎に見下ろされている。
「……俺が、小四のとき何考えてたか、教えてあげよっか」
「――え?」
健治郎が、美衣那の髪を撫でて頬に触れる。指先が、熱かった。
顔が近づいてきたので、美衣那は慌てて阻止した。
「――ちょっと、待った、なに、なんで!?」
健治郎は、美衣那の両手に掌を合わせ、握り込むようにぎゅっとつかんだ。
「俺、まだ――振られてないし」
――美衣那の返事は、保留になった。
<了>
2021 07 04