雨は降っている

 ――私は、男の子のプライドをへし折ったことがある。
 あれは雨の日だった。


 鞄に手を入れると、傘が入っていなかった。
 今日は降水確率六〇パーセント、曇り空だが降るような降らないような、といった塩梅あんばいだった。午後からどんどん薄暗くなり、帰るころには降り出した。
 折り畳み傘は鞄に常備してあるので、大丈夫だと思っていた。なんと入っていなかった。
 もはや外は灰色で、窓に滴がばたばたと忙しなくぶつかってくる。
 ええー、と私は小さく呟いた。なんでないの。皮肉なことに、傘袋だけ残っている。
 ――そこでふと思い出した。先日使用したあとに、開いて乾かしたのだ。その後、たぶん、鞄に戻していない。なまじ雨の日だと折り畳みではない方の傘を使ってしまうため、失念していたのだ。
 梅雨時なので、傘を持ってきている人は多い。友人の誰かしらは傘に入れてくれたはずだったが、自分も持っていると思い込んでそのまま帰してしまった。
 雨の中、辞書を持ち帰るのが億劫おっくうで、自席で予習を済ませておこうと思ったのが間違いだった。出席番号からいって、そろそろ当てられる頃合いだったのだ。
 予習をしている間に、小雨から大雨に進化している。どわーっと嫌な音が鳴っていた。
 仕方なく、椅子から立ち上がる。私は、小雨になるまで待ったり誰かに迎えに来てもらったりするよりは、早く家に帰りたいと思うタイプである。
 教室を出て、薄暗い階段をとんとんと降りる。玄関に近づくほど、湿った空気が漂っていた。
 昇降口に着くと、下駄箱を背にして、沓脱くつぬぎのすのこの上に誰かが座っているのが見えた。
「うわ」
 私は苦い声を上げた。その男子生徒が、誰なのか気づいたからだった。
 その声に反応して、そいつ――寅之助とらのすけはすっと立ち上がった。
「な――なにしてんの」
 私はおっかなびっくり声を掛ける。知らぬふりで通り過ぎたかったが、靴を取らなければいけないので近づくしかない。
「……おまえの、靴が残ってたから」
「ストーカーか」
 思わず突っ込んでしまった。私を待っていたというのか。怖い。
「朝、傘持ってきてなかっただろ」
「ストーカーだ」
 私は呆れた声を上げた。
 これでもクラスメイトだから軽い雰囲気で流そうとしているのに、それに反して相手の声は硬く、真面目だった。
「……傘、持ってるのか」
「うっ」
 私は言葉に詰まった。嘘を言っても見抜かれるからだが、どのみち、この場で傘を取り出さなければばればれなのだ。
 答えられないことを知っていたかのような速さで、寅之助の手がぐいと突き出された。その手に、傘を持っている。
「使えよ」
「いやだ」
 拒絶した私を、寅之助はじりりと睨む。雨の音が、外からうるさく侵入してきていた。
「……頼むから、使ってくれ。返さなくていい」
 寅之助は、私の手に無理やり傘の柄を触れさせる。
 思わず受け取ってしまったのは、傘を握りしめる寅之助の手が、張り詰めて白くなっているのを見たからだ。
 私は黙ったままやつを追い越し、雨の中に傘を開いた。振り向かずに歩き出した。
 重い雨が傘を叩く。心情にそぐわないような、大きな空色の傘だった。握りの部分が太く、私は両手で柄を持ち直した。男物の傘というのは重いんだな。
 ふっと吐いた息が、雨音にかき消された。
 ――まだ、気にしていたのか、寅之助は。


 片岡かたおか寅之助とらのすけは、私の幼馴染だ。
 やつは近所のガキ大将だった。小さいころは仲が良かったはずなのに、小学校に上がったころから寅之助は男子とばかりつるむようになり、お山の大将になった。
 春生まれで少しばかり成長の早かった寅之助は、血気盛んで喧嘩の強い男の子だった。乱暴な遊びが楽しかったのだろう、それについていけなかった私は簡単に飽きられた。
 それだけならばよくある話だが、寅之助たちは次第に女子を馬鹿にするようになったのだ。
 からかったり笑ったり、今思えば単に女の子の扱い方を知らない連中だったのだが、集団であっただけにたちが悪かった。大将の寅之助の態度が悪かったのだから当たり前だ。
 暴力やスカートめくりのようなお約束は踏まなかったので、なんとか眉を顰められる程度で済んではいた。女はすぐ泣くからなあ、などとからかったり、些細な持ち物を取り上げて笑ったりはあったが、教師に訴えられるほどの実害はなかったともいえる。
 今思い返してもかなり子供じみていると思うのだが、やつらは別に女子を虐げようとは思っていなかった。ただ、男子の強さというものをみせびらかしたいだけだったのだ。
 ――と、どんなに言いつくろったところで、馬鹿にされた側の心情としては許しがたい。
 私のそれが爆発したのは、雨の日だった。


 寅之助と同じクラスになったのは何年かぶりだった。
 小学校以来だし、はっきり言うとまともに口を利くのも久しぶりだ。それは、寅之助を許したからではない。高校生にもなってあからさまに男子を避けていると目立つので、譲歩したというだけだ。
 寅之助が、意外と女子から好意的にみられているというのもある。
 いまでも怒っているのかどうか、本当は自分ではよくわからない。でも、いまさら女子と仲良くしやがって、という納得のいかない苛立ちのようなものはある。私から謝る気は絶対にない、というのが歩み寄らない理由だった。
 ――本当は、根に持っているのは私だけで、寅之助は忘れているんじゃないか。
 そう思ってもいたけど、どうやら、寅之助の方も覚えているらしかった。
 あの日、不本意にも借りた傘を、私はまだ返していない。
 すぐに返すといかにも話す口実を与えたかのようで嫌だったのだ。傘といい、あの日待っていたことといい、寅之助は私との距離を測ろうとしている。それがわかって、なんだか腹立たしかったのだ。
「返さなくていい」なんて言うから、余計に返せなくなった。わざわざ私の意志で返してやるということは、こちらから寅之助に関わらなければいけないということなのだ。
南雲なぐもさんって、片岡くんと仲悪いんだっけ?」
「え、なんで?」
 ふいにクラスの女子に声を掛けられ、私は思わずぎょっとして振り向いた。
「プリント、自分で先生に持っていくからいいって言ってたよ」
 今日は日直なので、私がアンケートを集めることになっていた。クラス委員が休みだったのでその代わりだ。寅之助は私に預けたくないということらしい。
――さあ? 見直ししてから持っていきたいんじゃない?」
 私は素知らぬ顔で答えた。
 寅之助のやることはすぐ裏目に出る。おそらくは私に気を遣ったつもりなのだろうけど。


 二学期になり、私はやっと借りた傘を返す気になった。
 玄関の傘立てに差してある傘が、日に日に存在感を増していくのに耐えられなかったのだ。
 何よりも、誰から借りたのか親に知られずにすることに神経をすり減らした。寅之助からだとわかれば、いまから返してこいと玄関から放り出されるに違いなかったからだ。
 夏休みの間は言い訳が立ったとはいえ、借りた傘がいつまでも家にあるのでは親も不審に思う。
 そんなわけでしぶしぶ、傘を返すことにした。
 とりあえずは、昇降口にあるクラスの傘立てに差しておくことにする。
 ――さて、いつ寅之助に言えばいいのか、と私は少し悩んだ。
 放課後に教室で待っているのはいかにも、という感じがするし、目立つのは避けたい。軽く時間を潰すつもりで図書室に行ったが、下駄箱にメモを入れておけばいいかと思いついた。
 傘を返すと書けばいいだろうか。名前は入れなくてもわかるはず。それではそっけないだろうか――と悩みだして、馬鹿らしくなった。
 別に、今日持ってきたからといって、今日返さなければいけないわけではないのだ。
 機会があったときに声を掛ければいい。それより前に、寅之助が自分で気づいて持って帰るかもしれない。そんなふうに考えることにして、私は心の負担を減らす。
 靴を履き替えて帰ろうとしたとき――ちょうど、寅之助の姿が見えた。
 なんだ、あれこれ考えなくて良かったな、と息を吐いて、私は傘を取りに行った。
「片岡、借りてた傘返す――
 靴に足を突っ込もうとしていた寅之助に向かって、私は傘をぐいと突き出した。
 言葉が途切れたのは、寅之助の表情がさっと固まったからだった。やつはすのこの上に立っていて、私はいつもより見上げるかたちになっていた。
「あ――
 寅之助も、何かを言おうとして出てこない。
 返されたからには受け取らないといけないと覚悟を決めたかのように、寅之助の腕がのろのろと上がる。
 何をそんな悲痛な顔をしているんだと思ったとき、私は雨の匂いに気が付いた。
 雨の音がしている。雨が――


 降っていた。
 私はランドセルを揺するように歩いて、昇降口の扉を開けた。
 外に出ると、庇の下にいても撥ねた雨粒が降りかかってくる。思ったよりも、雨は強かった。
 傘はない。どうしよう。どんなに空を見上げても何も変わらない。
 その場を行ったり来たりしていると、ふいに後ろから声がかかった。
――南雲。傘ないのか」
 寅之助だった。私は少し警戒する。
 寅之助は、私をかずらと名前で呼ばなくなった。「女と仲が良いのはダサい」からだ。変な嫌がらせばかりするので、近頃の寅之助を私はすっかり嫌いになっていた。
「貸してやるよ」
 偉そうに言って、寅之助は傘を差しだした。その理由が、私にはわからなかった。
――か、片岡くんは、どうするの」
「俺はなくても大丈夫だよ。貸してやるよ」
 かっと頭に血が上った。
 そのとき、一緒に傘に入ると言われていたら、私はあんなに腹が立たなかったと思う。寅之助は「相合傘なんてかっこわるい」から拒んだのだ。そのくせ、傘は貸してやると言う。
 私はそれを、男の子の傲慢、まやかしのヒロイズムだと感じた。自分が気分よく施しをしてやるために、私を利用しようとしたのだ。
 そのときはそんなふうに言語化はできなかったが、なにか、ひどく嫌な気分にさせられたことはわかった。
「要らない」
 ぷいと背を向けて雨の中に出ていこうとすると、寅之助は慌てて追ってきた。
「なんでだよ。使えって」
 断る理由がわからないという顔をしていた。寅之助は傘を開いて、今しも濡れようとしている私の上に差しかけた。その傘を、私の手に押し付けようとしている。
「要らないってば」
「あっ」
 私はぱんと寅之助の手をたたいた。
 傘は泥の中に落ちて、開いたままかくかくと転がった。その内側に激しい雨粒が溜まってゆく。
 私は躊躇なく足を進めた。冷たい雨が髪を濡らし、頬を濡らす。水を吸った服が重く張り付いてゆく。
 振り向くと、寅之助は茫然と突っ立ったままだった。
 ――ザマアミロ、と私は声に出さずに呟いて、歩き去った。
 それ以来、寅之助とは絶交状態だ。


 ガラス扉の隙間から、少し肌寒い空気が舞い込んだ。
――もういいよ」
 寅之助の白くなった顔を見ていると、自然と言葉が出た。
 やつの顔色が変わったのは、雨が降ってきたことに気づいたからだ。私があてつけに、雨の日に傘を突き返そうとしているとでも思ったのだろう。
「な、なにが――
「別にいいよ。もう怒ってない。あんたが私にこだわってるのは、『負けた』からでしょ?」
 あの日の寅之助の顔は、敗北の顔だった。女ごときに、プライドをへし折られた顔だった。
 私は絶対に許すもんか、とずっと思ってきたのだが、さすがにもう怒りも枯れた。いまさら意地を張っても仕方がない。
「私もちょっと、むきになってたと思うし――
「違う、違うんだ!」
 耐えきれないように寅之助が叫んだ。足を一歩引いて、下駄箱にどっと背中をぶつける。足元にどさりと鞄が落ちた。
「俺は、自惚うぬぼれてた。良い事はいつでも良い事だと思ってた。普段の態度が悪くたって、それは変わらないと思ってた。善意でも拒まれるってことを、知らなかったんだ」
「……拒まれたから、嫌だったんでしょ?」
 まさかと思うことが起こったから、私にこだわっている。そういうことじゃないのか。
「……違うんだ」
 寅之助は弱々しく吐き出した。
「俺は、おまえに優しくなきゃいけなかった。親切にしたいなら、馬鹿にしちゃいけなかった。そういうことを、知ってないといけなかった」
 そう思い知ったから、いまは女子に親切になったということだろうか。しかしそれを、私に伝えるのに何年かかっているんだ。避けていた私のせいでもあるのだが、それにしたって仲直りしようという気概が見えない。
「おまえが俺を避けてたのは、わかってる。……謝らせたくなかったんだろ。許さなきゃいけないのが嫌だったんだ」
 ぎくりとした。寅之助はわかっている。
 同じ許さないにしても、単に許す気がないのと謝られても許さないのとでは別だ。私は、寅之助から謝られたら、その意志がくじけてしまうことがわかっていた。私の傷ついた気持ちを、押し込めなければいけないことになるのが嫌だった。
「許さなくていい」寅之助の硬い声が、跳ね返るように響く。「許さなくていいから、傘は使ってくれ」
 雨が降っているから。濡れるなと寅之助が言う。
 やつが受け取らなかったから、傘はまだ私の手にある。
 私は、傘の先でコンクリートの床をとんとんと叩く。息を吸ってから、大声で叫んだ。
――ノスケ、謝れ!」
 寅之助は、はっとしたように姿勢を正した。
「……かずら、悪かった」
「よし」と私は頷いた。
 傘を持って、扉を開ける。空模様を見ながら傘をぽんと開くと、靴を履き終えた寅之助が追いついた。
「あんたはどうすんの」手の中で傘をくるくる回しながら、私は尋ねる。
「いや……別に……」歯切れ悪く、寅之助は答える。
 ――つまり、傘は持っていないらしい。
「ノスケは知らないだろうから、教えてあげるけど。――傘は、二人で使うことが、できます」
 寅之助は、どういう表情をすればいいか困ったように、笑った。
「それは……知らなかった、な」
 寅之助の手が、傘を受け取った。
 ――雨は降っている。

<了>


novel

2020 10 09