机の上で、眼鏡が置き去りになっている。
風にあおられたカーテンが、太陽の光を易々と許す。レンズを通した光は、じりっと音がしそうに揺れて机に反射した。
私はつい、廊下側の席から近づいて、その眼鏡に手を伸ばした。
くろい縁がくっきりと輪郭を主張している眼鏡だ。何度も日光に晒され、フレームは少し熱を持っている。
今日は男子の体育はプール。湿気のこもる更衣室に持ち込みたくなかったのだろうか。
私は眼鏡を持ち上げて、自分の顔に乗せてみた。ぐんにゃり景色が歪むのかと思ったら、はっきり見えすぎて目の奥がつんと痛くなるような感じだった。あいつがどんな景色を見てるかなんて、ちっともわからない。
「――それ、俺の」
「ひっ」
後ろから声を掛けられて、私は思わず肩を揺らした。
振り向くと、桧山が立っていた。湿った髪から、かすかに上る塩素の臭い。
桧山は両手を伸ばして、すくい上げるように眼鏡を取り上げた。
耳にかすかに触れた指先は、水に冷えてやわらかかった。
男女の幼馴染なんて、簡単に縁が切れてしまう。
教室内が男女のグループに分かれるようになってから、遊び友達は容易に分断されてしまった。まかり間違っても特別な相手だなんて誤解されないように、お互い名字呼びに慣れてしまう。
幼馴染と言ったって、休みのプリントを届けるよう頼まれたりするのは、小六までのことだった。中学まではかろうじて果物等のおすそ分けにも行ったから、顔を合わせて「よう」と声を掛け合うぐらいのことはしたかもしれない。
高校生になると、また男女のグループは曖昧になった。男子と女子の縄張り争いのような雰囲気はなくなって、一部ではこだわりなく交流が行われている。
――とはいえ、ここで同じクラスになったからといって、「はいそうですか」と馴れ合うわけにはいかないのだ。
なまじ仲が良かっただけに、距離感がつかめない。名前で呼ぶほど大胆にはなれなくて、かといって名字呼びはしらじらしい。そんな空気を抱えたまま、やっぱり会話なんてできないのだった。
そもそも、桧山の鼻の上に乗っている眼鏡からして慣れないのだ。
黒縁のはっきりした眼鏡なだけに、別人のような印象を与える。そう思ってよく見ると、鼻の高さも瞳の位置も頬骨のかたちも、私の知っているものには少しも当てはまらなくて、混乱するしかないのだった。
――これは知らない人だ、という思いで、足元がすかすかになる。
だから私は、それを思い知らせる眼鏡を仇のように思っている。
ばらばらと雨が降っていた。
粒が大きく、雨の落ちる太い線が、白く浮かび上がるようだった。足元では、ぱしぱしぱしと雨の滴が撥ね飛んでいる。
走っている腕を、ふいにつかまれて転びそうになった。
「うわ、わ、とと」
よろけた体がぐいんと揺れて、誰かにぶつかった。そこで、私は引っ張られたのだと気づく。
「予報見なかったのか、おまえ」
「ひ、桧山」
びしょ濡れの髪のまま、私は桧山を振り仰いだ。
混乱した私の頭上には、いつのまにか桧山の傘が差し掛かっている。藍色の傘の上で、ばらんばらんと雨が撥ねる音がする。
桧山のシャツの胸ポケットに、折りたたんだ眼鏡が入っていた。
そこでやっと、私は質問されていることに思い至った。
「――ち、違うの、ちょっとなめてて。折り畳み傘が……」
今日は思ったより風が強い。雨は斜めに降っていて、膝から下は相変わらず滴がぶつかってきている。
私の傘は、風にあおられて骨がぽきぽきと折れてしまったのだ。
「へえ」と桧山は温度のない感嘆を洩らした。
歩き出した桧山がとんと私の背を押す。それに促されて、なんとなく並んで歩いた。
「桧山。眼鏡は、掛けないの」
「水が掛かるんだよ」
わかりきったことを訊くな、とは言われなかった。風が強くて滴が邪魔なので仕舞ったらしい。桧山の視力は、眼鏡がないと歩けないほど悪くはない。
横目で桧山を見ると、強い風に前髪が乱れて、額があらわになった。その途端、髪が短かった昔の面影と重なる。その横顔の中に、私の知っている桧山をもっと探そうとして、
「雨谷」
ふいに声を掛けられた。私は慌てて視線を逸らす。
――なに、と答える前に、ぐいと肩を引き寄せられた。
「えっ」
「濡れる」
風が強いので、あまり離れると濡れてしまうと言いたいらしい。
私はひとつ遅れて、いまの状況が相合傘なんだと気が付いた。
桧山の指は、濡れているのにこの前とは違って熱かった。ぬっと伸びた腕が太いのは、私の知らない桧山だった。
喉の奥が急に熱くなって、軽口が出てこなくなる。
それでも黙っていては良くないことはわかって、
「……あ、ありがとう」
「――どういたしまして」
なんとかお礼を言うと、涼し気な声がさらりと返ってきた。
私はそれ以上話題を探せなくて、黙ったまま家までの道を歩いた。
夏休みの終わりに、夏祭りがやってきた。
私は暑いのでポニーテール、Tシャツにショートパンツと、簡素な服装でいる。
神社の敷地内で開催する、子供会の延長のような小さな祭りだ。盆踊りのやぐらが組まれ、夜店は焼きそばやスーパーボールすくいなどの、わかりやすい定番のものが並ぶ。
行き飽きた地元の祭りだから、それほど特別感もなくて、浴衣を着る気にもなれなかった。幸いにも、少し涼し気な夜風が吹いていた。
どちらにせよ、この年になると無邪気な客というよりは運営側の手伝いに駆り出される。飲み物をえっちらおっちら運んで冷やす繰り返しで、調理の熱気と匂いに巻かれ、私は早々に音を上げた。
とはいえ嫌がられもせず、報酬の食べ物をもらって、私はぽんと解放されたのだった。
あちらに光る踊りの輪に加わる気にもなれずに、どんどんと響く太鼓の音を聞きながら、私は座れるところを探し歩いた。てのひらに、たこ焼きのパックが熱い。
友人でもいればよかったのだが、町内の範囲ではそこまで仲のいい子もいなかった。違う学年ならいないこともないが、そちらはそちらでグループになっているため、むやみに突撃する気にもなれない。
木の陰になっている石段を目指すことにして、そちらに向かった私はそこに誰かがいることに気づいた。
「みゃこちゃん」
ふっと顔を上げた相手が、私に気が付いた。美那子という私の名前の、むかしのあだ名だった。
「――千くん」
だから私も思わず、古い呼び名が口をついて出たのだった。
この祭りが懐かしくて内輪のものだからだろうか、私は桧山をそう呼ぶことに抵抗を感じなかった。
「ちょうどいいところに来た、手伝ってくれ」
桧山の隣に腰を下ろすと、彼はビニールの袋をぐいと突き出した。ピンク色の袋に入っているのは、両手に余るほどの大きさに割りばしの棒が刺さった、わたあめだった。
「千くん、これ買ったの?」
「駄賃だよ」
手伝いのお駄賃として貰ったらしい。言われてみれば確かに、サービス満点のサイズをしていた。一人で食べるのは難儀していたらしい。
「わたあめなんか、お腹ふくれるほどでもないじゃん」
「延々砂糖食うのしんどいだろ」
そう言われてしまうと、そうなのかなという気もする。
「私もあるよ」とたこ焼きのパックを見せれば、助かったとばかりに歓迎された。
二本ある楊枝を一本ずつ分け合って、私たちはたこ焼きを食べた。はふはふと半分ずつ食べる私とは違い、桧山はぽいぽいと一口に放り込んでいく。
「ちょっと千くん、取りすぎないでよ」私の私の、と文句を言うと、
「わたあめ全部食っていいから」と取引にもならない条件を返された。
やだ、と突っぱねて、私はたこ焼きを食べる。雨の日には口の奥に引っかかっていた軽口が、するすると流れ出るのが不思議だった。
一パックのたこ焼きはあっという間に食べ終わって、桧山が空の容器を取り上げた。捨ててきてくれると言う。
「何か、飲み物買ってきてやる」
そう言って桧山は、夜店の方に歩いて行った。桧山を待ちながら、私はビニール袋を開けて、わたあめをちぎりちぎり、口に運んだ。
本来ならもう、家に帰っているはずだ。桧山と一緒にいると約束をしたわけでもないのに、私はここにくぎ付けにされている。外気で少しべたついたわたあめは、どうにも甘ったるく懐かしい味がした。
「みゃこちゃん」
ほどなくして戻ってきた桧山は、冷えた缶を私に手渡す。水玉模様の、ソーダの缶だった。誰かにもらったのか、ウェットティッシュまで差し出してくれて用意がいい。
ぱきりとプルタブを引いて、私はソーダを喉に流し込んだ。しゅわしゅわとした炭酸が、ぴりぴりと喉に心地好かった。
「――あ」
ありがとうと言いそびれていたことに気づいて桧山を見ると、夜店の明かりに眼鏡が白く反射している。やはり見慣れないなあと思ってくろい縁をじっと見ていたら、ふいに桧山が眼鏡をはずした。
「みゃこちゃんはそんなに、眼鏡に興味あんの」
よくわからないなあという顔で、桧山は私の手に眼鏡を乗せる。
そういうわけではないのだが、乗らないと悪いような気がして、結局私はまた、その眼鏡を掛けてみた。目がちかちかするだけだったので直視しないよう眼鏡を下にずらして、私は桧山の顔をそっと上目遣いに覗く。
その様子が間抜けだったのか、――はは、と桧山は懐かしい顔で笑った。
またひとつ、知っている桧山を見つけて私はほっとした。
私は眼鏡を掛けたかったのではなく、桧山から眼鏡を取り上げたかったのだ。知らない顔ばかり見せるのが嫌だったのだ。
伸びた背丈もたくましい肩も私の知らないものだったけど、知っている桧山をもっと探したくて、もう少し一緒に居たいな、と夜店の明かりに照らされながら思った。
<了>
2019 08 16