恋の薬は

――惚れ薬?」
 ミィアは思わず相手の言葉を繰り返したが、その意味が脳に染み透るには数秒を要した。
 あ、と声が出る。ああ、そうか……と理解した挙句の、気が抜けたような情けないような呟きがこぼれた。
「お、怒ってますかね……?」
 おずおずと、リーゼロッテの視線が上がる。ミィアが返事をする前に、ごめんねごめんねと謝り倒された。
「いや、腑に落ちた……」
 それから、「呆れた」と、溜息と共にミィアは吐き出した。
 あの、お高くとりすましたクラウスが、柄にもなく暴走してミィアに狼藉を働きかけたのは、手違いで飲まされた薬の所為だったらしい。
 なるほどなるほど、とミィアは呟いて、またぞろ吐き出しそうになった溜息を飲み下した。


「あ」
 次の講義室に向かっている途中、ミィアの手元からペンが落ちた。ノートの上をするすると滑り、投げ出されて廊下にかつんとぶつかる。ぶつかって跳ねて、ペンは少し先まで滑っていった。
 慌てて追いかけると、足元にやって来たペンを拾おうとする男子生徒がいた。
「すみません、それ私の――
 ミィアはその生徒に声を掛ける。顔を上げた相手はぎょっとした顔をした。
「ミィ――
 ざーっと紙のように彼の顔色が白くなる。ミィアを見て、またペンに視線を落とす。そこでやっとミィアと拾ったペンが結び付いたらしく、怖気づいたかのようにその場から距離を取る。
 足が一歩、二歩、後ろに下がって、次の瞬間には彼は身を翻して駆け出していた。
「おい」
 既に逃げ去った相手に向かって、ミィアは思わず憤りを声に出してしまう。
 先ほどの青年はクラウスだった。薬に振り回されたとはいえ、記憶が薄まっているわけではなかったようだ。
 醜態を繰り広げた後でどんな謝罪を聞かせてくれるか楽しみだったのだが、奴は敵前逃亡することに決めたらしい。あんなに負け犬根性の強い男だったかな、と思いつつも、害虫のように扱われるのは納得がいかないミィアである。
 実際、クラウスには小物という印象はない。ミィアと成績を張り合っているほどの秀才で、態度は冷ややかにして相手の挑発に熱くなるような男ではなかった。むしろ、動じない堅物のイメージが強いぐらいだ。
 そんなクラウスが周章狼狽するほどに、惚れ薬の一件は強い傷を残したようである。
 ――傷心に浸りたいのは襲われたこっちだよ、とミィアの溜息も募ろうというものだった。


 クラウスの瞳の色が見えなくなった。
 どんな色かは知っている。凍てついた冬の夜空のような色だ。深く冷たく硬質で、澄んでいる。
 その目が、ミィアに向けられなくなった。こちらを射貫くような強い瞳が、斜めに伏せられるようになった。真っ直ぐミィアを見なくなった。
 それがなんだか、モヤモヤとしてムカムカとする。
 言わずもがな、例の一件からだ。
 リーゼロッテがクラウスの変異に責任を感じているのは、彼女が師事しているラースの研究室で起こった出来事だったからだ。別の研究生が、紅茶の缶と薬草をブレンドした缶とを取り違えてしまったらしい。
 レポートを出しに来たばかりに実験中の薬を振る舞われてしまったクラウスは、ふらふらと廊下にさまよい出てミィアと出会ってしまったというわけだ。
 ――あのときばかりは、冬の瞳も冷えてはいなかった。
 ミィアの被害といえば押し倒されて肩を撫でられたぐらいだが――それ以上のことが起こる前にクラウスが取り押さえられてしまったので――あの、熱っぽい瞳のことは覚えている。
 こんな目も出来るんだ、と襲われかけたショックも忘れてミィアは呆けてしまったのだ。
 じりじりと熱の点った瞳のことが頭に焼き付いている。
 でもそれは薬で作られた幻で、ミィアの戸惑いだけがぽんと放り出されているままだ。クラウスの方は取り消そうと必死になっていて、それがミィアを苛立たせるのだった。
 ――あんな目をしたくせに。
 熱っぽい吐息を洩らしながら、ミィアの髪に触れ耳に触れた。肩をなぞって名を呼んだ。
 あれを全部なかったことにしようだなんて。
 このままではすまさんぞ、とミィアの闘志に静かに薪がくべられる。


「クラウス」
 後ろからそろそろと近づいて声を掛けると、ベンチに座った青年の頭がぎょっと揺れる。
「声上げるわよ」
 慌てて立ち上がる背中にもう一声。敏い相手は、ミィアの言葉の意味がわかったらしい。ぎくりと動きを止めた。
 よしよしと頷いて、ミィアはクラウスの正面に周り込んだ。ミィアは脅しをかけたのだ。逃げるつもりならばここで大声を上げてやる、と。前科のあるクラウスのこと、ミィアがあることないことを騒いだら、勝ち目がないと観念したらしい。
 クラウスを見上げると、その顔はやはりどこか青ざめていた。
「場所変えよっか」
 ここじゃなんだから、とミィアが歩き出すと、クラウスは移送される囚人のようにうなだれて後ろをついてきた。
 ほどよい個室が見当たらず、ミィアは思案する。とはいえ寮に連れ込むわけにもいかず、結局は自習用の個室を借りる手続きをしてクラウスを招き入れた。貸出用の個室は、ドアの下半分がガラス仕様になっているから妙な真似もできないだろう。
 ミィアは壁際まで歩いて、クラウスを振り向いた。
 何か言ったらどうなんだと思ったが、仕方なしに会話のきっかけを投げてやる。
「……惚れ薬だったんだって?」
「なっ――
 低い声。クラウスは久しぶりにミィアの方を向いた。その瞳は、らしくなく冬の曇り空のように不安げに揺れている。
「薬のせいだったんでしょ。せっかく機会をやってるんだから、弁明ぐらいしたらどうなのよ」
 暗に、謝れとミィアは畳み掛けている。ミィアの方もこのあたりで一区切りつけてすっきりしたいのだ。いつまでも、一方的に逃げられる関係は居心地が悪い。謝って、下手に出て、ミィアを勝ち誇らせてほしい。
「……どこまで聞いた」
――は?」
 溜息のように吐き出された言葉に、ミィアはぽかんとした。謝るどころか頑なになられ、脳に一拍空白が入る。その隙に、クラウスはミィアに一歩近づいていた。
「どこまでって……惚れ薬の試験薬を飲まされておかしくなったってだけじゃないの?」
「それだけか」
「はっきり言ったらどう?」
 ミィアが睨み付けると、クラウスはすっと視線を外して黙り込む。――まただ、と思うと腹が立った。
「……わかった。そっちがその気なら、これを使う」
 ミィアはポケットから小瓶を取り出して、目の前に掲げてみせた。クラウスが訝しげな顔になる。
 親指から人差し指の長さぐらいの、細い小瓶だった。この中には、リーゼロッテにもらった例の薬が入っている。
 クラウスの様子が変なことが気になって、ミィアは薬に副作用がないかリーゼロッテに聞いたのだ。彼女は、数日感情が揺れやすくなる以外はないはずだと答えた。でも、クラウスの気持ちが知りたければ飲んでみればいいと言ったのだ。きっと、それが一番理解できる方法だと、少しだけ薬を分けてくれた。
 使うことも捨てることもできず持っていたが、いまが使い時に違いなかった。
「飲めばわかると言われたわ。あんたが飲んだのと同じ薬よ」
 クラウスから目を離さずに蓋を開けると、彼の目がはっと驚愕に彩られた。それを見て、ミィアは口の端で笑ってみせる。
 ――そして、ぐいと一気に薬を飲み干した。
「よせ!」
 クラウスの制止の声が届いたが、一秒の半分、遅かった。


 お腹がかっと熱くなる。全身に熱が走るような、頭の芯が痺れるような心地がした。
 足元の感覚が頼りなくて、膝からくずおれてしまう。この、変にふわふわした感じが、薬の作用なのだろうか。個人差があるとは言っていたけれど。
「ミィア」
 クラウスが慌ててミィアを支えるが、彼女は座り込んでしまった。背中に当てられた手が熱い。その熱を、ぴりぴりと取り込んでいるような気がする。感覚が過敏に引き延ばされて、背をたどる指の動き一つ一つを拾ってしまい、ミィアは呻いた。
「大丈夫か」
 クラウスの囁き声が、耳からねじ込まれるように骨に響いた。目が合って、咽喉が塞がれるような心地がした。眩暈のようなものが湧き上がってきて、心臓を揺する。冬の瞳に散った光に、目が離せなくなる。
 あ、と息をするために吐き出した一声が熱を帯びていて、ミィアはハッと両手で口許を覆った。
 これは心臓に悪い。クラウスが揺らす空気のひとつすらも拾い上げてしまいそうだった。
 全身の熱と羞恥とが戦っている。クラウスの眉に刻まれた皺を見つめてしまう。クラウスがミィアの手首に触れて、またびりっと痺れが走った。
「ミィ――
「や、やだっ」
 ミィアはクラウスを押しのけた。その力は弱弱しく、突き飛ばすほどではなかったがクラウスは退いた。ミィアの頬を、涙がぽたぽたと零れる。
「すまない――人を呼んでくる」
 戸惑ったクラウスがおろおろと立ち上がり、出て行く背中をミィアは見送った。
 ミィアの姿を見ないでほしい気持ちと、クラウスにずっとここにいてほしい気持ちとが、行ったり来たりぶつかっていた。


「ミィア――無事!?」
 慌てた様子で、部屋にリーゼロッテが駆け込んできた。
 それまでの間、ミィアはしくしく泣き濡れていた。クラウスが去った後、無性に悲しくなってきてしまったのである。
 とはいえ、薬の影響はほとんど抜けてきていた。効果のほどは十分程度だと聞いていたから、思ったより長い時間は経っていないだろう。
「……ひどい薬」
 息を整え開口一番、ミィアは訴えた。ハンカチを取り出して頬を拭う。
 あんな効果だとは思わなかった。もっと、ふわっとした淡いものかと思っていた。あんな、暴風雨のようなものは想定していなかった。嵐の爪痕のように、引き起こされた感情がまだあちこちに刺さったままだった。
「ねねね、どう? ときめいた?」
 思ったより落ち着いているミィアを見て安心したのか、リーゼロッテは面白そうに尋ねる。
「……惚れ薬なんでしょ」
 知っているだろうという意を込めて、ミィアは口を尖らせた。ああうん、それが、と答えるリーゼロッテの歯切れは悪い。
「完全な惚れ薬っていうのがないのは知ってるよね」
 完全な効き目のそれは、いまだ作り出されていない。効果が偏っていたり、持続しなかったり、妙な副作用のある紛い物もあちこち出回っているのが現状だ。そんな中、ラースの研究室では惚れ薬の研究をしている。ラース本人は身体に負担をかけない方法を模索したいらしいが、巷の惚れ薬によく使われているような成分の研究も行っている。作っているのはいまだ調整中の試験薬ばかりだった。
「これは確かに惚れ薬の一環として研究してるけど……惚れ薬じゃないんだよ」
――は?」
 惚れ薬ではない。ならばこの惨状はどういうことなのか。いろいろと実験中だから関係者以外に詳しい効果は話していないんだけど、と前置きしてリーゼロッテは教えてくれた。当事者となった以上、ミィアも無関係ではない。
「これはねえ、感情を増幅する薬なの」
 とはいえ、単純に感情を倍々するようなものではない。例えば、怒り狂っているときにこの薬を飲んだとしても、その怒りが倍増されるというわけではないのだ。強すぎる感情は、脳が無意識にセーブをかけるのだという。その代わり、自覚の弱い感情、特に隠された感情に強く働きかけるのがこの薬なのだ。
「じゃあなんでそれが……」惚れ薬の研究なのか。
 だからね、とリーゼロッテは指を一本立ててみせた。
「これは恋心の種を育てるんだよ」


 廊下でクラウスと行き合い、ミィアは焦って視線をずらした。
 薬を飲んだときのことが、一気に脳裏に湧き上がってきたからだ。
 指先にぴりっと痺れが走った。心臓の熱がじゅっと上がった。あんな感情が自分の中にあったのだと、引きずり出されて直視させられたのはひどく暴力的な経験だった。いくら一時的な効力だったとはいえ、忘れてしまえない以上、その残滓があちこちに残ってしまっている。
 クラウスもこういう気持ちだったのか、とミィアは諒解した。
 これは確かに逃げたくもなる。相手の口許を見ても、指先を見ても、熱に浮かされたときの自分の醜態を思い出して、のたうち回りたくなる。
 それからミィアはしばらくクラウスを避け続けた。相手もそう心がけているものだから、会話もなく、顔も合わさず、ときおり張り出される成績表に並ぶ名前に胸が騒ぐ程度だった。
 ――そうしてふと、ミィアは我に返った。
 なんだか寂しくなったのだ。結局手に入れたのは、互いを排除した日常だけだったのか。そこでようやく、ミィアの頭が働くようになった。
 ということは、クラウスにもあったのだ。ミィアに対する恋心が。
 そう思い至ってどきっとした。自分のことを考えるので精いっぱいだったが、同じ薬を飲んであの効果だったのなら、そうだと言ってもいいだろう。
 会いに行ってはいけない理由があるだろうか。
 衝動のまま行動しようとして、ミィアはぴたと動きを止めた。
 ――それならば、クラウスはなぜミィアを避けた。ミィアと同じような理由なら、羞恥なら、照れ隠しなら、理解はできる。でもクラウスが青ざめたのはなぜだ。何かを恐れていたのは。
 そして、ミィアが薬を飲もうとしたとき、「よせ」と止めたのはなぜだったのか。


 個室の利用者名簿に名前を見つけて、ミィアはクラウスに会いに行くことに決めた。入ってからまだ、さほど時間は経っていないはずだ。
 ガラス張りのドアが並ぶ廊下を、ミィアはゆっくりと歩いていく。
 覚悟は決めた。だって互いに逃げ回るだけなのは嫌だ。ぜひとも会って、問いたださねば気が済まない。
 いつからこうなったかな、とミィアは息を吐く。初級生の頃、ミィアとクラウスは仲が良かった。もう忘れてしまいそうな思い出だったけれど。
 その頃はまだ、クラウスの笑顔も見たように思う。いつからか、いがみ合って互いに成績を競うだけの存在になった。それはたぶん、ミィアがクラウスの成績を抜くようになってからだ。
 ――ああ、意外と覚えている。
 目当ての部屋の前に立ち、ミィアはドアを開いた。
 使用中の部屋に人が入ってきて、文句でも言おうと思ったのかクラウスが振り向いた。そうしてミィアの姿を認めて、ガタッと椅子を蹴るように立ち上がる。
「……ミィア」
 掠れ声を上げて、クラウスはミィアの視線から逃げた。顔を背け、足を一歩後ろに下げる。
「はーい」どうも、とミィアはひらひらと手を振ったが、それはクラウスの眼には入っていないだろう。
 ミィアが近づくとその分、クラウスは後ろに逃げた。結局ミィアは壁際までクラウスを追いつめてしまう。
「ちょっとお話があります」
 ミィアがそう切り出すと、クラウスの咽喉がごくりと鳴った。
 いい加減、ミィアもイライラしてきてしまい、「態度が悪い!」とクラウスの顔を掴んで振り向かせた。
 頬に触れた指先が顎の骨を捉え、ミィアはそのラインをゆるくなぞった。ほぅ、とクラウスから零れた溜息が前髪にかかり、なんだかむずむずした感じが背中を伝う。
「……えっと」仕切り直しにミィアはこほんと咳をする。
「うん」と素直すぎる返事が降った。クラウスはやっと観念したらしい。
――最初に私を避けてたのは、薬の効果を知ってると思ったから?」
「……ああ」
 答えが聞けた。思えばクラウスが、ミィアがあれをただの惚れ薬だと思っていたと知ったのは後になってからだったのだ。薬で捻じ曲げられた気持ちなら、あんなものは事故だ、忘れろと涼しい顔で言えたはずだ。しかしそうではなかった。そして、リーゼロッテと仲の良いミィアなら、当然そのことを知っていると考えても不思議ではない。
 だから逃げた。突然自覚させられた恋心への戸惑いも勿論あったが、どの顔でそんなことを言うのかと思われるのが怖かったからだ。だってそれまで、クラウスはミィアに冷たい態度をとっていた。
 鼻で笑われるのか、拒絶されるのか。ミィアの気持ちが見えなかった。知るのは怖かった。
 ――そういうことなのだ。
「それと一つ、クラウスは誤解してると思う」
 誤解を解こうとしたが、ミィアの舌はもつれて動かなかった。――言えるか、と思う。
 だからミィアはクラウスにぎゅっと抱き付いた。クラウスの身体がびくっと反応する。
「……い、言わないからね」
 ミィアはそれだけ言うのが精いっぱいだった。誤解は自分の頭で解いてくれ。クラウスは馬鹿じゃないからわかるはずだ。
 ――すると、覆い被さるように抱き返され、ミィアはふあと吐息を洩らした。
 クラウスは誤解していた。ミィアが自分を嫌っていると。同じ思いを返してくれるなど、夢にも思わなかったに違いない。ミィアが薬を飲むことを止めたのもその所為だ。クラウスはあれが惚れ薬ではないと知っていた。だから、増幅される感情が恋心だとは思わなかったのだ。
 クラウスの手が背をたどり、ミィアはあの熱を思い返してびくっとした。クラウスの方もきっと、あの嵐を反芻しているのだろうと思って顔が熱くなる。
「ミィ」
 耳元で声がしてミィアは震えた。子供の頃、ミィアはミィと呼ばれていた。
 そっと顔を上げる。今度こそクラウスは目を逸らさなかった。
 冬の瞳に、火が燃えていた。

<了>


novel

2019 02 21