「いい感じの子が新入生にいるんだ」と友人が言った。
いわゆる、新歓コンパで出会った新入生の一人に、狙いを定めているらしい。
とはいえ相手は手ごわく、連絡先は交換してくれたものの、入部の言質は取れていないということだった。ちなみに友人は演劇部である。
春はなにかと騒がしい。私も、去年の入学の際は、門の内側にずらりと並んだ在校生の勧誘に惑わされたな、となんとなく思い出した。
「それで、良かったら七生も一緒に」
話が、急にお誘いへと切り替わった。
件の彼と昼食を摂る約束をしたらしいのだが、同席してはどうかという話だった。部外者がいる方が、構えられないと思ったのかもしれない。
特に予定も決めていなかったので、私はいいよと返事をして、食堂へと向かった。
――しかし、私はすぐにその選択を悔やんだ。
私の向かいに座った彼は、「来栖です、よろしく」と言って、少し首を傾げるような仕草をした。
生来の鋭い目つきで、じっと私を見つめている。余計なことはひとつも言わなかったが、その視線が、じりじりと、私に食い込んでくるようだった。私の口許が、思わず歪む。
――来栖葉は、私の幼なじみだった。
葉は、乱暴者だ。もっと言うなら、不良だしヤンキーだ。
高校時代は金色にブリーチした髪を、逆立てるようにセットしていた。背も高くいかつく、目を合わせた相手がそそくさと逃げるような容貌だったのだ。
いまでこそ大人しそうにしているが、当時は狂犬だの猛獣だの、散々な言われようだった。
昔から葉はカッとなりやすい性質で、すぐに手が出てしまう。大抵は相手が先に手を出したとか挑発したとか、そんな理由だったが、身体が大きくて力の強い葉が本気で殴ると、喧嘩はすぐに一方的なものになるのだった。
相手が怪我をするまで殴るのをやめず、大人が力尽くで引き離さないといけないとなれば、たとえ原因が何であっても、葉が悪いということになった。大人はほとほと手を焼いていたのだ。
そんな葉がなぜか、私が止めろと言えばその蛮行を止めるのだった。
初めて葉の喧嘩を見たときに、私が泣いたせいかもしれない。ヨウちゃんがこわいと泣き叫んで、その日一日、葉に近寄らなかったのだ。それが、当時の葉には堪えたのかもしれなかった。
私は泣かなくなったが、その代わり、怒るようになった。不真面目な葉を、いつも叱っていたような気がする。中学に入ると、学校をさぼって遊び歩いている葉を――大抵は商店街かゲームセンターから――連れ戻すようになった。
私は、葉の子守だった。
高校に入ると、もう義務教育ではないので、私は葉を放っておいた。どこで遊ぼうが授業をさぼろうが、知ったことではなかった。それでも何かが起こると、私が呼び出されるのだった。
他校の似たような連中とつるむようになった葉は、喧嘩の回数が増えた。ときには店で、ときには交番で、私は謝り、葉を引き取って帰った。
――いつまで、こんなことをしないといけないのだろう。
不意に訪れたその問いが、染みのように、私に暗い影を落としていった。
私は、現状から逃げたかった。葉と縁を切りたかった。
だから、県外の大学に来たのだ。受験先はカモフラージュに受けたいくつかの大学以外は秘密にし、葉に知られないまま逃げようと思っていた。万が一知られたとしても、葉の学力では受かりようのない大学だった。
しかし、そんな努力は、すべて水の泡となったのだった。
まさか追いかけてくるなんて誰が思うだろう。
一年浪人して学力を上げた葉は、この大学へ入学したのだ。さすがに自意識過剰だとは思わない。確実に、葉は、私を狙い定めてここへ来たのだった。
――葉が、何を考えているかわからないのが恐ろしい。
恨みごとを言いに来たのか。自分からは逃げられないと思い知らせに来たのか。それともただの思慕なのか。遊び半分なのか。
わからないのは葉が何も言わないからだ。髪はすっかり黒に戻っていて、実直なふりをした葉に、私の友人も騙されている。
葉はでかくて、存在感がある。全体的なシルエットはわりとバランスが整っているので、でかいわりには巨漢という印象はあまりなかった。舞台に上げたい、と思ってしまうのもわからないではない。鍛え上げられた腹筋のおかげで、声の通りもいいだろう。
しかし、それとこれとは話が別なのだ。私は、葉とは関わりたくない。
それなのに、友人を通して、縁は繋がってしまったのだった。
「七生さんもどうぞ」
掛けられた声に、不意に私の思考は破られた。
友人を間に挟んで、葉がこちらにコンビニ菓子の紙パッケージを差し出している。私は小さく会釈をしながら、中の菓子を一つ手に取った。
葉は奇麗に猫を被っている。口調は丁寧で、少々目つきは悪いが大人しい好青年だった。しかし、その目は私を見る一瞬、値踏みするような目つきに変わる。
何かを言いそうで言わない、遠回りな態度。私を、じりじりと追い詰めているつもりなのだろうか。それこそ、真綿で首を絞めるように。
文句を言いたいのはこっちの方だ。
しかし私は、その衝動を無視した。こちらから打って出るのは負けたようで嫌だったし、何よりも、素知らぬ顔をしていれば曲がりなりにも他人のふりが出来るのだった。
「――次の授業、C棟の方まで行かないといけないんで、これで」
私はさりげなく席を立ち、葉に背を向けた。
積極的に関わる気はない、というサインはさすがに伝わっていると思う。
――それにしても、葉が持久戦を仕掛けてくるというのは、実のところ意外だった。葉は短気でこらえ性がない。目的があるなら、それに邁進するような男だったのだ。
何が葉を変えたんだろう、と私は首を傾げたのだった。
次の月曜日、二限目を終えると、ばたばたと雨が降っていた。
にわか雨らしく、天気予報でも降るとは言っていなかったので、私は傘を持っていなかった。すぐに止むとは思えるが、小雨というには雨の粒が大きい。
食堂の方へ行こうとして、私は困った。棟はすべてが繋がっているわけではないので、どうしても濡れてしまう場所がある。
とはいえ、大した距離ではないし、走ればどうにかなるだろう。私は空を見上げながら――残念ながら見計らうようなタイミングはなかったが――アスファルトに足を踏み出した。
そのとき、後ろから誰かが私を追ってきた。
「七生さん、こっち」
葉だった。彼は着ている上着の裾を広げるようにして、私をその中に囲い込もうとしているのだった。私は驚いて足を止めそうになったが、濡れてしまうのでそれをこらえる。意地で少しスピードを上げたが、葉はなんなく並走してくるのだった。
屋根のある所にたどり着いて、私ははあはあと息を吐いた。葉のおかげで濡れはしなかったが、
「……お礼は言わないからね」
と私は意地を張った。そもそも、私が頼んだわけでなく、ただのお節介だ。
葉は黙っている。
不意に、私は不安になった。思えば、高校卒業以来、葉と二人きりになるのは初めてだった。
私は、下を向いていた顔を上げられなくなった。いまこそ、葉が何かを告げるように思えてならなかった。
雨が撥ねる、霧のような冷気が足元をさらっていく。走ったばかりの身体が、すうっと冷えるような気がした。
「……怒っているのか」
葉の硬い声が、雨の隙間に零れ落ちた。――え、と思わず顔を上げて、私は葉を見る。
相変わらず、葉は大きかった。私だって小さいというほどではなく、背は平均よりも二センチ高いぐらいなのだが、葉に比べると、あからさまに負けていた。こちらを見下ろしてくる葉の顔は、威圧感でいっぱいだった。
「俺のこと、怒ってるんだろ」
おこってるんだ、と葉は子供のように繰り返した。
「……だとしたら、なに」
私は仏頂面で言い返した。本当のところは、葉が何について言っているのかわかっていないのだが、機嫌が好いわけではないのは確かだ。それに、曖昧な葉の態度にいい加減焦れていたのもあった。
「……やっぱり、俺のこときらいになったんだ」
葉の顔がぐしゃっと歪んで、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。ぎょっとした私の足元に、すがるように葉はしゃがみ込んだ。
「ナキちゃん、俺をすてないで」
「――はあ!? え、ちょ、ちょっと、変なこと言わないで。ちょっと、立って」
突然態度の崩れた葉に、私はパニックになった。泣かれても困る。濡れた床にしゃがみ込むのも良くないと思う。それになにより、この醜態を誰かに見られてやしないかと、ひやひやして辺りを見回してしまった。
無理やり葉を立たせて、私はキャンパス内のカフェに連れ込んだ。葉は、ぐすぐすと洟をすすりながら、大人しく、従順についてきたのだった。
一番奥の席を選び、入り口に背を向ける位置に私は葉を座らせる。
ポケットティッシュを差し出すと、葉は順調にそれを消費した。
「――あのさ、ヨウちゃん、何しに来たわけ」
回りくどいやり方をしていてもらちが明かない。葉の涙腺が決壊したのを機に、私は直球で尋ねることにした。なんでこの学校に来たんだという問い詰めに、葉はぽつりと答えた。
「……ナキちゃんに、会いに来たんだけど」
「そういう風には見えなかったけど」
私を見る葉の態度は、どちらかというとネガティブなものだった。探るように距離を置いていた。もっと、嬉しそうに寄って来たなら、私にもそれなりの反応というのがあったと思う。
「……ナキちゃんさ、俺のこと嫌になったんだろ」
言いにくそうに、葉は言う。縁を切るように投げ出してきたから、そう思われるのは仕方のないことだった。そして、葉が原因だというのも、嘘偽りのない事実だった。
「俺のこと、嫌になって――そんで、捨てたんだ」
ぐすっと葉は鼻を鳴らす。
「そう思うなら、なんで会いに来たの」
私はグラスの水を一口飲んだ。そのタイミングで、頼んでいた料理が届く。
話が終わるまで食事はあとに――なんていう繊細さは、私も葉も持ち合わせていないので、結局はもぐもぐと食べながら話をした。
私はクラブサンドで、葉はミートソースのパスタだった。
「……わかんねえよ、なんでかなんて。とりあえずナキちゃんに会おうって、それしか考えてなくて」
ぐるぐるとフォークにパスタを巻き付けて、泣いていたとは思えないほどの食欲を葉は見せた。私からすれば多すぎる一口分をなんなく口に収めて、皿の中身を平らげていく。
「ナキちゃんが来ないから、外に出てもつまらなくて」
学校もないので外に出る必要もなくなり、外に出ないと喧嘩もしなくなって、髪の色もそのうち戻った。家に居てもすることがないので、ひたすら勉強だけしていた、と。そんな感じだったらしい。
「受験に受かったとき、ナキちゃんに会える――と思ったんだけど。……会ってどうしようとか考えてなくて。きっともう、嫌われてると思ったら話せなくて。でも、行儀よくしてたら思い直してもらえるかも、とかも思ってて」
葉の手が止まる。
「……ごめん、ほんとは何で見捨てられたかわかってる。あれだろ、あの――春先の」
葉はグラスの水を飲み干した。空になったグラスを握ったまま、顔を俯ける。
――そう、春先の。あれは、三年生になった頃だった。私が、葉から離れようと思ったきっかけの事件が、起こった季節だった。
葉の喧嘩はいつものことだったが、そのときのそれは、他校の生徒を何人も巻き込んだ大規模なものになった。
葉は街中では有名な喧嘩小僧だった。あちこちで喧嘩をしていたので、葉に恨みを持っている人も、当然いるのだった。葉に負かされた、怪我をさせられた人だけではなく、単に葉が気に入らないという人もいた。
そんな中、他校のあるグループがふと思いついたのだ。いつも葉の喧嘩を収拾させるために現れる、七生という女が葉の弱点であると気付いた。その女を、人質にとったらどうだろう、と。
下校中待ち伏せられていた私は、いつの間にか他校の生徒に取り囲まれ、そのままとある廃ビルの一室に連れていかれたのだった。あのときはちょうど一人だったので、誰も巻き込まずに済んだのが不幸中の幸いだった。
奴らの目的が私一人だったなら、無事ではいられなかっただろう。でも、本当の目的は葉だったので、ある意味ではとりあえず私は無事だった。奴らは、葉を動けなくした上で、その目の前で私をいたぶろうと思っていたのだ。
――結果は、大誤算だった。
葉は、私のところへ向かう途中、邪魔なものはすべて叩き壊して来たのだった。ドアもガラスも、武器も人も、何もかもだった。
たどり着いた葉は、完全に手の付けられない状態になっていた。血塗れで、傷だらけで、獣のように吠えた。一目でわかるほどに暴走していて、誰の声も聞いていない様子だった。
要するに、この女を傷つけられてもいいのか、なんていう陳腐な脅し文句すら見るからに聞いていなかったのだ。会話が成立していない。周りにあるものすべてを、手当たり次第に壊すだけだった。
脅しも懇願も、暴力も、葉相手にはすべてが意味をなさなかった。
私をさらった連中が、私に頼みに来たぐらいだ。あの男を止めてくれと。べそをかいた気弱そうな男子が、私の手首に巻いていたビニールテープをはがしながら、「どうにかしてどうにかして」と呪文のように呟いていたのを覚えている。
そうして私は葉と対峙したが、初めは私の声すら届いていなかった。
何度やめろと言っても、もういいと訴えても、葉は止まらなかった。葉が殴っていた相手の歯が折れて、口が血塗れになっても止まらなくて、私はぞっとした。
私は葉に後ろからしがみ付いた。
「もういい! やめて! ――やめてよ!」
私は、叫びながら泣いていた。葉が人を傷つけるのが怖かった。葉が、得体のしれないものになってしまうのが怖かった。
そんな私を見て、葉はやっと正気を取り戻した。泣き伏す私に、葉の方がおろおろしていたぐらいだ。
――そうして事の顛末に、葉は一週間の停学を食らったのだった。
「……よくわかってるじゃない」
と私は冷たく葉に言った。
「ごめん……」
葉は首をすくめるように小さくなる。葉の目の前の皿は、すっかり空になっていた。
私はふうーっと長い息を吐く。
「……ヨウちゃん、私の分少し食べる?」
耳を伏せた犬を連想し、私は情けの声を掛ける。声の調子が変わったことに気付いたか、葉はぱっと顔を上げた。「食べる」
クラブサンドを一切れやると、葉は嬉しそうにはぐはぐと食べた。
「それで、それで……ええっと、また会ってくれる?」
最後の欠片を口に放り込みながら、葉は私に探りを入れる。まるで、母親の機嫌を窺う子供のようだった。――本当に、いつまで経っても子供のような男だ。
私は、根負けして息を吐いた。
「ちゃんと、自分の面倒、自分で看られるならね」
「だっ、大丈夫、以前ほどすぐキレなくなったし」
葉は慌てたように請け負った。実際、無気力だった一時期、怒りへの感覚が鈍くなっていたらしい。それから徐々に、コントロールできるようになったということだった。
「次やらかしたら、今度こそ縁切るからね」
私は念を押し、葉と連絡先を交換した。
私はきっと、この先も、本当の理由は葉に告げないだろう。
私が葉から逃げることを決めたのは、喧嘩に巻き込まれたからでも、葉の暴走を目の当たりにしたからでもなかった。
――葉の喧嘩を止めたことを、褒められたからだった。
友人も教師も葉の親も、私を褒めた。あなたがいれば安心だと、あなたがいれば葉を止められると。
そして葉もそれに乗っかったのだ。――俺の代わりに、ナキちゃんが俺を止めてくれる、と。
――じゃあ、ヨウちゃんは?
どうしてみんな、私に期待するんだろう。どうして葉は、自分でなんとかしようとしないんだろう。いつまで私が、葉の代わりなんだろう。
それはきっと、私が葉の代わりにストッパーになってしまったからだった。私がいつでも前に出るから、葉は自分をコントロールすることをやめてしまったのだ。
――私が、ヨウちゃんを駄目にしてしまう。
不意に湧いた思考が、私の胸の奥深くを侵食した。
それは、いままで私がやってきたことを否定することだった。でも、いつの間にか私たちは二人で一人みたいにくっついてしまっていて、互いに依存しているのだということに気が付いたのだ。
私たちは離れなければいけない、と。そう焦って私は逃げたのだった。
まさか、葉が追って来るとは思いもしなかったが。
そして私は、再び葉を拒絶することはできなかった。
本当に、救い難いのかもしれないけれど。
――私は、葉が追いかけてきたことが嬉しかったのだ。
結局、私は葉に演劇部への入部を勧め、葉はそれを受け入れた。
とはいえ舞台に上がる気はないらしく、いまのところは大道具係だ。役者になれだのならないだの、私の友人と日々抗争を繰り広げているらしい。
私は、私の関与しないところで、葉に人間関係を作ってほしかったのだ。友人がいるのでまったく無関係というわけでもないが、少なくとも部活動に関しては私は一切関わりがない。
そうやって、私は葉との距離を計っていこうと思ったのだった。
考え事をしながら足を踏み出すと、自動ドアがガァッと唸りを上げて両側に開いた。
私は、学校帰りに友人とコンビニに寄ったところだった。レジ横のコーナーで軽食を買って、食べながら駅に向かうつもりだった。
そのとき、ちょうど道路の向かいに葉が通りかかった。
「ナキちゃん、何買ったの?」
葉は飼い犬のように走り寄ってきて、私に頬を摺り寄せるようにした。私の隣の友人は、うんざりというかげんなりというかそんな顔をしている。
葉の被っている猫は、私がいると半分ぐらい剥げているのだ。そのことに、最近友人も気づいたようだった。実は古い知り合いで、と私が告げたせいもあるだろう。
「アメリカンドッグ。食べる?」
近くまで寄るとわかっただろうが、一応質問には答えてやる。手に持った棒の先を差し出すと、葉ははぐはぐと食いついた。
「あのさー、七生」
友人は呆れ顔で声を掛けてくる。葉に食べさせるまま、私はなあにと返事をした。この分だと、三分の一ぐらいは食われるな、と思いながら。
「……あんたさ、ちょっと来栖くんを甘やかしすぎじゃない?」
「……なるほど」
私はうなずいた。
私の態度も、あれこれの原因の一つだとは思っていたのだ。自分ではよくわからないが、きっと改める必要があるのだろう。
「甘やかしはいけないね」
私は、葉からアメリカンドッグを取り上げた。今後は甘やかさないようにする、と宣言すると、葉から抗議の声が上がった。相変わらず、犬みたいな男だ。
しおしおと元気のなくなる葉を見て、私は笑ったのだった。
まあいいじゃん。これからはずっと一緒なんだから。
<了>
2017 02 06