傘のかよ

 友人たちと行った、飲み会の会話だった。
「雨の昇降口って、懐かしい感じ」
 地元の友人二人と帰りの駅で待ち合わせ、周辺の居酒屋に入った。学生時代の思い出話に花が咲き、懐かしさを覚える話題を連想しては口に出していた。
 昇降口と言った途端、脳裡に中学の記憶が蘇ってきた。
 ――昼間なのに薄暗い廊下、その先に浮かぶように見える人影の寂しさ、雨の音。
 その日は一学期の終業式で、ホームルームが終わった途端、波が引くように人がいなくなった。部の活動に行った人も多いはずだが、私が図書室に本を返して昇降口に下りたときには、数人の生徒の姿しか見なかった。
 げた箱の先のガラスの扉は開け放してあるので、雨のしとしという音が強くなった。灰色のコンクリートの床に、いくつもの染みが黒く円を重ねている。
 昇降口に、クラスのラベルを張った傘立てが並べられている。ほとんど中身の無くなったそれを見て、あ、と私は小さく呟いた。置きっぱなしの傘があったはずなのだが、それが見当たらなかったのだ。自分の勘違いか、それとも誰かに持っていかれたのだろうか。濡れずに帰れると思っていただけに、落胆は小さくはなかった。
 靴を履き替え、私は小さく溜息を落とす。恨みがましく雲を見上げたが、雨粒が落ちてくるばかりで空が手加減してくれるわけもない。
 仕方なく、私は雨の中を歩き始めた。確実に濡れてしまう雨だとはいえ、土砂降りでないことは幸いだった。しかし門にたどり着く前に、ふと私の上から雨が遮られる。見ると、私に傘を差しかけてくれた男子生徒がいた。知らない生徒だったが、名札に引かれたラインの色から同学年だと知れた。彼は、
「これ」
 使って、と私に傘を握らせると、鞄を揺らしながら走って行ってしまった。断る暇も礼を言う隙も与えない行為だった。その傘は、私の上をすっぽりと覆う、握り手の太いこうもりだった(その地域で、私の世代では大きくて黒い傘をこうもり傘と言ったものだった)。
 呆気に取られ少しのあいだ立ち尽くしたが、結局私はそのこうもりを手にとって家路に着いた。
 家に帰り傘を閉じると、閉じたとき上に来る握り手の部分に彼のお母さんらしい字で名前が書いてあった。シチュエーションに軽く酔った私は、名前も学年もわかっていれば簡単に探せるだろうと、眉の凛々しい顔立ちの彼とまた会えることを楽しみにしていた。
 ――しかし、休み明けに登校した私は、それが叶わないことを知った。
 あの日は、転校が決まった彼が、最後に登校した日だったのだ。
 私に傘を貸してくれた理由はわからない。ひどく感傷的だった所為で誰彼かまわず親切にしたかったか、それとも――これはおおいにあり得ると思っているが――自分がこの学校に通っていたという証をなにか残したかったのかも知れない。
 あの日の雨の匂いや彼の顔立ちを、何年経っても私は不思議と覚えている。実を付けるどころか花開くこともなかったが、あれは、確かに小さな恋の萌芽だったのではないだろうか。
 あの傘はその後も使わせてもらっていたが、そのうちに名前の文字も薄れ、傘自体もどこかに失くしてしまった。


 お酒も回り、高揚したほろ酔い気分で私はバス停に降り立った。
 あの日のように雨がしとしとと降っていた。私はえんじ色の傘を掲げ持つ。手元で柄をくるくる回すと、滴がぱらぱらと振り切れて落ちた。濡れたアスファルトが、車のライトを反射している。
 あの日を思い出したのも、こういう天気だからかも知れなかった。酔っていた所為か思い出に浸っていた所為か、私は、シャッターの閉まった店の軒下で雨宿りをしている若いサラリーマンの横顔に、あの男子の面影を見た。
 私は思わず立ち止まって男の人を眺めた。
 ――よく見ると、どこも似てはいなかったのだけど。
 それでも、お腹の底から私はふわっと良い気分になった。
「あの」
 気付くと私は、掌を握りしめながらその人に話しかけていた。男の人は、なんだろう、というような顔をして私の方を見た。
「使ってください」
 私は、その人に傘を押し付けていた。酔っていた所為か、夢の中に居るような、思い出の中を歩いているような、現実感のないふわふわとした心地だった。水溜りに跳ねる、ぱしゃぱしゃという雨の音だけが現実だった。
「あの、でも……」
 相手は当然困惑した。傘を渡して自分はどうするのかという目で私を見る。
「大丈夫です、鞄に折り畳み傘入ってるので!」
 嘘だった。
 でも私は背を向けて走り出した。あの日走り去った男子生徒のように、鞄を揺らしながら。
 きっと彼の背中も、いまの私のように弾んでいたのだろう。笑いだしそうな気分だった。何の打算も義理もなく、見知らぬ相手にかける親切は、なんと気持ちの良いものなのだろう。
 実は単なる酔っ払いの高揚感だったのだろうが、そんなことにも気付かずに家に帰った私はその夜、いい気分のまま眠りに就いたのだった。


 次の朝、バス停の列に並んだ私は、欠伸を掌の陰で噛み殺した。
 バスを待ちながらちらりと腕時計に目を走らせたとき、横合いから低い声が降ってきた。
「おはようございます」
「おはよう、ございます……?」
 思わず挨拶を返しながら、聞き覚えのない声に私は首を捻った。しかし振り向いて顔を見上げたとき、眠気は吹っ飛んで私は固まってしまった。
 私の隣に並んだのは、昨夜雨宿りしていたサラリーマンだったのだ。
 彼は困ったように笑んで、「昨日は傘をありがとうございます」と言った。
 私は恥かしさに動けなくなった。雨にライトが反射する、幻想的に酔っていた夜に素晴らしく思えたことが、朝の光に引きずり出されてみれば、ただの子供っぽい行為だったと思えてくる。
「す、すみません、突然で困りましたよね……なんというかその、昨夜は機嫌が良かったんです……」
 と言い訳にもならないことを、私は口にした。
「いえ、大事な書類を持っていたので助かりました」
 人の好さそうな柔和な顔が微笑んだ。その顔を見て私はほっとした。昨夜の行為を肯定されて、思い出が守られたように感じたのだ。
「いつもこの時間なんですか?」と彼が言う。
「いえ、今日は寝坊したので一本遅いんです……」
 そうですか、と彼は答えて少し考え込むようにした。
「いつお返ししたらいいでしょうか、連絡先お訊きしても構いませんか」
「え?」
 思わず間抜けな顔をさらした私を見て、彼は慌てたように首を振った。
「いえ、すみません、名乗りもせず不躾に。僕は五城いつしろといいます」
「はあ、私は萱原かやはらです」
 そんなやりとりのうちに、停留所にバスが滑り込んできた。乗り込んでもそのまま私たちは会話を続け、話題はいつしか日常の雑談へとスライドしていった。
 ――そして私は、友人を得たのだった。
 それは私にとって、重要な出会いだったと思う。あの雨の日に中途半端に途切れてしまった縁が、なにかの形でまた繋がれたように感じたのだ。
 私になにがしかの縁が訪れたように、あの雨の日にこの地を去った彼にもきっと、新しい出会いがあったのだと思えた。きっと彼にもいいことが訪れたのだ。見知らぬ地に独りで旅立つ寂しさだけではなくて。
 そして私は、あの雨の日の傘を思い返すとき、もう二度と苦しくなるような切なさに襲われることはないだろう。

<了>


novel

2012 11 14