図書室の君

 左足に熱い衝撃を感じて、千花ちかは文庫本を取り落とした。
 右手に男子生徒が転がって、ぐるんと回転すると壁にぶつかった。どん、と大きな音がした。
 千花は本棚にもたれていた身体を起こし四つ這いになると、転がった文庫本を拾う。ページが折れていないことを確認してほっと息を吐き、また膝を立てて本をそこへ開いた。
――ち、ちょっと、おいおいおい」
 読書へ戻る思考に水をさされ、千花はむっとして声の方を振り仰いだ。
 壁際の男子生徒が頭をさすりながら起き上ったところだった。彼はこちらに近づいてきて、千花の上に影をつくる。
「危ないでしょう、通路を塞がないの」
「塞いでません」
 千花は答えた。きちんと足を縮めているのだから、千花の上をまたがなくても通路は通れるのだ。
「……根本的なところが間違ってる」
 男子生徒はまだ千花を解放してくれずに、溜息をついた。少しだけブラウンに染めた髪と、ちょっとだけ垂れた目元。ネクタイの色を見ると、一つ上の二年生だった。
「本を読む場所、ちゃんとあるでしょう」
「こっちの方が楽なんです」
 彼が指差した先も見ずに、千花は答えた。千花がうずくまっているのは本棚と本棚の間だ。床はカーペットだし、放課後に当番が掃除機をかけたばかりなので、座るのに躊躇は感じなかった。千花が読んでいるのは薄い文庫本だ。シリーズものなのだが、千花のペースではこの程度の厚みは一冊三十分ほどで読めてしまう。机と本棚を往復するのが面倒なので、こんなところに座っているのだった。
 ちなみに、千花は図書委員だが今日は当番の日ではないので好きに本を読んでいる。
「君ねえ――ああ、じゃなくて」上級生は片手で顔を覆ったが、途中で千花への非難を止めた。「ごめんね、大丈夫だった?」
 千花はきょとんとした。なんの話だっけ、と思い返して、先ほどこの人がどたばた暴れていた原因にやっと思い当たった。この人は転んだのだ。座り込んだ千花の立てた膝に引っかかって。
「えっと、大丈夫です」
 千花はそう答えて、いそいそと読書を再開した。


 今日の千花はカウンター当番だった。
 にも関わらず、千花はカウンター席に着くなり鞄から本を取り出して読み始めた。今日は図書室の本ではなく、書店で買ったばかりの文庫本だ。書店の紙のカバーが、指にざらざらと触る。
「おーい、ちょっと」
 読みながら、千花はこの先数ヶ月の新刊リストを頭の中に並べ立てた。どの本を入荷してもらおうか。新しく入れる本は基本的にアンケートで決めているが、図書委員の意見は比較的通りやすい。マイナーなシリーズものは下手に入れられないが、一般的に人気の高い作家の本ならば。
「ちょっと、委員さん」
 ピンポンと音が鳴って、やっと千花は顔を上げた。「押してください」と書いたブザーのボタンに、誰かの人差し指が乗っている。更に目を上げると、そこにあったのは先日転んだ上級生の顔だった。
「君ほんと、人の話聞いてないね。何度も呼んだのに」
 そのためのブザーだ。千花はひとたび読書に集中すると、周りの音がほとんど聞こえなくなる。電子音にだけは反応するので、当番の日は千花対策にブザーが置いてあるのだった。この例外がなければ、五時間目の予鈴や下校チャイムが聞こえなくて難儀するところだ。
「ああ、えっと、こないだの……先輩」
下柳かやなぎ
「……かや、先輩」
「……いいけど」
 先輩はまた溜息をついた。君は、と言いかけたところで奥から女子生徒がばたばたと駆けてきた。
「ちょっと、千花、あんたはまた!」
 奥で書庫整理をしていたもう一人の図書委員だ。ブザーがピンポンと鳴るたびに、千花は彼女に怒られるのだ。
「えっと、千花ちゃんね」
 はからずしも、千花は下柳先輩に名前を知られてしまうことになった。


 くあ、と咽喉から欠伸が湧いて出た。
 寝不足で軽く頭痛がする。電車内で少し眠ったが、たいして眠気は晴れなかった。
 欠伸を掌で隠しながら、千花は鞄から厚めの文庫本を取り出した。
 物語はだいぶ終盤になっている。昨夜から読みだした本だが、下巻に入ったところで普段の就寝時間を割ってしまった。しかし先が気になったので無理に読み進めた結果、いつの間にか寝落ちしてしまったのだ。
 物語もクライマックス、一刻も早く続きを知りたいが、乗り過ごす危険があるので電車では本を開けない。やっと高校の最寄り駅について、ページを開いたところだった。
 しかし、何ページも読まないうちに、千花の手から本が浮いた。手を伸ばすと、千花の指先が届かないところまで更に上がる。
「何すんの」
 千花は、文庫本を持ったまま上げられた腕に飛びついた。誰かが千花の手から本を奪ったのだ。ピョンピョンと無駄なジャンプを繰り返し、そこでやっと、千花はその泥棒の顔を見た。
「……かや先輩」
「おはよう、千花ちゃん。歩きながらは危ないからやめようね」
 子供のように諭されて、千花はむっとした。
「大丈夫です、返してください」
「大丈夫じゃないでしょう、いま電柱に頭ぶつけるところだったよ」
「うっ」
 自分では気付かなかったが、そうだと言われればそうなのだろう。なにしろ千花は、読書中は周りの情報がほとんど脳に入ってこない。
 結局、千花の本は門に着くまで下柳先輩から返してもらえないことになった。
 不機嫌そうに唸る千花に、「これでも食べて目、覚まして」と下柳先輩はキャンディをくれた。透明の袋に入った、ちょっと大ぶりで口の中でごろごろするやつだ。もらって早速、千花は口に放り込んで頬をリスのようにした。
 先輩とはときどき、図書室で会っている。と言っても千花が気付かないので、先輩はむしろ、千花と話すことより千花に気付かせることに目的が変わっているような気がする。なにしろ場所が場所なので、大声を出すことも出来ないのだ。
 そんな読書狂いの千花とのやり取りを、下柳先輩はゲームのように楽しんでいるらしい。放っておけばいいのにと思う千花にはちょっと、わからない感覚だ。
 父親は千花を書痴だとからかうが、千花は自分ではそう思っていない。千花にとって書痴とは、貴重な文献や古書をたくさん蒐集しゅうしゅうしていて、研究者ばりに造詣が深い人に対する称号だ。第三者にとっては、読書狂いも書痴もなんら変わりがないのだが。
 そんな千花は学校に着いて本を返してもらうと、靴を履き替えていそいそと教室に向かった。教室に着くまで我慢したのは、ふらふら階段を上るより結果的に効率がいいと判断したから、そして、後ろから下柳先輩が恐い目で監視していたからだった。


 今日の千花はちゃんと席に着いている。
 ハードカバーの本を、少し立てるようにして開いていた。
「千花ちゃん」
 千花の読書ペースは遅い方ではないが、文体との相性というのもあって、中でも翻訳物は少し読むのが遅い。だから、今日は大人しく席に着いているのである。もちろん続刊も確保してあるが、今日は読み切れずに貸し出し手続きをすることになるだろう。
「おーい、もしもーし、千花ちゃん?」
 千花はぺらりとページを繰った。海外ファンタジーはスロースターターが多く、話が動き出す局面まで少々ページ数がかかるのがもどかしい。
「ん?」
 千花はそのとき、口の中が甘いことに気がついた。半分以上咀嚼していたそれは、チョコレートだった。
――ち、ちょっと、かや先輩! 図書室は飲食厳禁!」
「あー、ごめんね、あんまりにも気付かないから、もしかして物食べても気付かないんじゃないかと思って」試してみた、と下柳先輩はいましも千花の口に入れようとしていた次のチョコレートを手に持って、悪びれずにへらりと笑う。「でも、三つは食べたね」
「うっ」
 三つ目まで、千花は気付かなかったらしい。
 結局その日千花は、口の中の甘みが気になって階下の水飲みまで駆けた。
 ――後日、図書室で一緒になったあとの帰り道に、千花は下柳先輩に袋入りのクッキーを渡した。
「かや先輩、こないだのお菓子のお返しです」
「ありがとう――あれ、わかってた?」
「……友達に教えてもらいました」
「やっぱり」
 含み笑いをする先輩に、わかりませんよ! と千花は憤慨した。
 ――今日は、三月十四日だ。

<了>


novel

2012 10 07