故意の導き

 故郷から戻ってのち、リールは、自分を男と見せることをやめた。
 ――そして、ジグとの相棒関係を解消した。
 それは、ジグと話し合って決めたことだ。現在は二人ともフリーの状態で、依頼に応じてその都度誰かと組むようになっている。二人が同じ組に入ることもあったが、二人だけで組むことはもうなくなった。
 ジグにとって、それは寂しくもあったし、ほっとした部分もあった。元々リールが女だということに気付いていたジグは、そのことに神経をすり減らさずに済んで気が楽になった。それでもときどき、リールの不在に胸がざらついたようになる。
 今日は、時間が合ったので二人で昼食を摂っている。
「それでね」と目の前のリールの口許が動く。話しつつ、軽く足首を交差させる。
 それを目の端に捉えながら、ジグはスープを口に押し込んだ。
 座り方、足の組み方、そんなものが変わると、もう男のようには見えない。仕草ひとつで、ずいぶんと印象が変わるものだと思う。
 一番変わったのは、声だった。作り声をやめて、リールは生来の声で話すようになった。それは、平均的な女よりは少し低めだったが、やわらかく、落ち着くような声で、やはり男には聞こえなかった。
 リールを女と知って、周りからの目が変わった。実は同じ女からは多くは気付かれていたらしい――町娘たちも、男装と知った上で黄色い声を上げていたのだ。
 態度が変わったのは男どもだ。何をいまさら。
 ――俺は知っていた。
 そう思うから、胸がちりちりと疼くのだろうか。周りからは、相棒でいたことは下品なからかいの種にすら上らなくて、ジグはきっと気付かなかったに違いないと笑われていたのだが。
 リールは確かに、女の中では背が高いし筋肉も付いている。しかしジグにとっては、そんなものはただの誤差だった。体格もよく、冒険者として鍛えているジグから見れば、自分と同じカテゴリに入るなどとは露ほども思わない。
 どう見たって女だった。ずっと女だった。そうと知っていたのに、盲目だったのはジグも同じだ。
 故郷で本来の姿に戻ったリールを見て、固く信じていた信念のようなものが、砂のように崩れた。
 もう知ってしまった。姿も声も、抱き締めた感触も。
 逃れようにも逃れられなくて、そうしてジグは相棒の座から逃げたのだ。
――ジグ?」
 上の空に気付いたのか、リールの顔が少し険しくなる。
「……ちゃんと聞いてるよ」
 愛想笑いを返して、ジグは溜息と共にスープを飲み下した。


――どんな様子だ?」
 木陰にいるリールにそっと忍び寄って、ジグは後ろから声を掛けた。
 驚いたのかびくっとリールの肩が跳ねたが、密着するように近寄っているジグに遮られて、振り向くことができない。
「……まだ、動きなし」
 リールは、掠れたような声で答えた。
 今日は二人は同じ組で仕事をしている。魔物退治の依頼だが、巣があるらしく、それを探ろうとしているところだ。偵察を買って出たリールに、あとからジグが追いついたという次第だった。
 ほっそりとしたリールの首が、襟から覗いている。彼女は今までの男装と比べてさほど服装は変わっていないが、襟の高い服で首を隠すことはなくなった。
 その白い首に、ジグは唇を押し当てたくなる。
 樹の幹に触れていたリールの手の上にジグが己の掌を重ねると、後ろから覆い被さるような恰好になる。もう片方の手で、リールの黒髪に触れると、彼女の呼吸が浅くなった。
 ――馬鹿だな、とジグは思う。拒めばいいのに。
 リールは固まったまま動かない。おそらく混乱している。
 男として過ごした時期が長かった所為で、リールは自分が性欲の対象になるという意識がすこんと抜けている。男に絡まれても誘われても、冗談だと思っている。
 彼女の妹が言うように、ジグのことは少しだけ意識しているらしいが、それは普段のジグを知っているからだろう。理由もなく女に声を掛けたり触れたりする男ではないと知っているからだ。
 ジグの方も、リールのことはわかっている。
 この状況を、自意識過剰だと思っているに違いない。知識がないわけではないのに、それを自分に当てはめられないのだ。ちらっと浮かんでも考え過ぎだと思ってしまうから、違和感を感じているのに拒めない。はっきり言われないとわからない。
 やっぱり馬鹿だな、とジグは思う。
 ――さっさと、ジグが危険なけだものだと気付いてほしい。
 リールの手首を撫でると、また彼女の肩がびくっと揺れた。
――あっ」
 そのとき、気の抜けたようなリールの声がこぼれた。
 監視対象の魔物が動き出したらしい。
 ジグは、リールから離れて、魔物を追い始めることにした。


 その夜は嵐になった。
 がろがろと空が唸り、風に枝がこすれ合う音がばちばちと鳴った。
 窓ガラスに、殴りつけるようにびたびたと激しく雨が打ちかかる。
 いつだかの嵐より、数段風が強かった。この調子では、部屋で騒いでも聞こえないだろうと、ジグは別室で休んでいる仲間のことを考えた。今回は人数が奇数だったので、ジグだけは一人部屋を取っている。
 そんなことを思っていると、部屋のドアが風に負けないようにかどんどんと激しく叩かれた。
「開いてるぞ」
 ジグは大声で返事をしたが聞こえなかったのか、一呼吸おいてまたどんどんと叩かれる。
 やれやれと立ち上がり、がちりとドアを開けると、その隙間からするりとリールが部屋に入り込んできた。
「な――
 うかうかと招き入れてしまったのは、驚いて咄嗟に反応できなかったからだ。
「ああ、ジグ。ちょっと部屋に置いてもらえないかと思って」
 リールはジグを見上げて小首を傾げた。きまり悪そうに言うのはきっと、嵐が怖いからだ。
 ――そうとわかっているのに、ジグの咽喉の奥を、ぐっと怒りが支配した。
「何のつもりだお前」
 怒鳴ったつもりはなかったが、えるような声になった。
「え――
 怒られるとは思わなかったのか、リールの声が戸惑った。
 確かに、以前、ジグはリールを追い出さなかった。でもそれは、リールが男だという建前を持っていたからだ。
 今回は状況が違う。女の身で、こんな夜中に、男の部屋に一人で来る意味を考えないのは愚かだと思う。ましてや日中、ジグは自分が男だと知らしめようとしているのに、そんなものは雲の彼方にされていた。
 わかっているのかいないのか。
 目をつぶって、無かったことにされるのは我慢ならない。
「どうしたの、ジグ? 何か怒ってる?」
 恐る恐る、リールは問い掛ける。
 リールの話し方は、以前とは変わった。男装のときは、仮面を被っているようなものだったのだ。別の人物を演じていた。それはある意味で、リールの障壁にもなっていた。
 しかしそれをやめた所為で、本来の脆い部分が剥き出しになっている。自信のある男を演じられなくなったために、リールは不安を感じるとジグに頼るようになった。
「……ジグ?」
 ――そのやわらかい声で、女のような話し方をしないでくれ。
 頭の中がかっと熱くなって、ジグはリールの腕を引っ掴んだ。易々と掴めるほどの、細さだった。
 背中にぞくんと星が飛び込んだような、そんな心地がした。そこから背骨に火が付いたように、じんと熱いのだ。心臓の裏側が燃えるようだった。
「いいから、お前、帰れ」歯の隙間から食いしばるように出したジグの声を、
「で、でもジグ、ちょっとだけ――
 リールはあっさりと打ち砕いた。
 ジグはリールを引きずるように引っ張って、ベッドの上に投げ上げた。
「馬鹿なのか、お前」
 リールの目を上から覗き込んで、ジグは言った。その中に、嫌悪や恐怖、拒絶を感じたなら、ジグはそのままリールを帰していただろう。
 しかしその目にあったのは、不安に揺れていようとも、ただの混乱だった。ぱちぱちと目を瞬かせて、何かを把握しようと努めている。
 全然だめだ。本当にわかってない――と、ジグはいっそ溜息をつきたい気分だった。
 ジグの心臓は、もう焦げ付いている。
「わかれよ」
 ジグはリールに覆い被さり、噛み付くようなキスをした。
 そこでやっと理解したように、リールの身体がびくんと跳ねる。
 本当に馬鹿だ。本当に――
 夢中になっていると急に、口の中に血の味がした。唇を噛まれたと、遅れて気付いた。
 ジグが身体を起こすと、押しのけるようにしてリールが走って出て行った。ジグはそれを、黙って見送った。
 そうだろうとは思ったが――リールは泣いていた。
 今度こそは、ジグに泣きすがったりはしなかった。


 次の日、リールはジグと目を合わせようとしなかった。ジグも、リールに近寄ろうとはしなかった。幸い、二人だけの仕事ではないので、彼女と一緒に行動しなくてもことは済んだ。
 リールの方は勿論だが、ジグもリールを避けたかった。これで、近寄らなくて済むと思った。
 ジグは、リールに拒まれたかった。手ひどく拒絶されたかったのだ。
 ――俺を、つけ入らせないでくれ。
 これ以上そう思わずに済んで、ジグは安堵した。
 ジグは知っていた。
 リールがジグにすがるのは、――ジグしかいないからだ。
 男装をしていたときのリールは、誰にも弱みを見せられなかった。通常なら打ち明け話は女友達にするものだろうが、リールにはそんな友はいなかった。自分を男としていたから、仲の良い友達を作ることも難しかったのだ。友人がまったくいないわけではなかったが、やはり同性の友達という距離感ではなかった。
 それに、リールが演じていた、自信家で皮肉屋の男では、軽々しく弱みを見せるわけにもいかなかったろう。
 リールにはただ、相棒のジグしかいなかったのだ。
 それを、ジグは知っていた。
 もう以前とは違うのに、リールはそれを改めない。それどころか、脆さを見せるようになった所為で、ますますジグに寄りかかるようになった。リールは周りが見えていない。ジグしかいないわけではないのにすがるというなら、ジグはそれを利用したくなる。
 だから、ジグはリールとの関係を切ったのだ。
 きっともう、こちらを振り向いてはくれないと、薄々わかっていながら。


 リールはジグと行動することがなくなった。
 ジグの方も、リールを避けていた。もうしばらく、会話を交わしていない。互いに泊りの仕事のときもあるので、何日も顔を見かけないこともあった。
 そのうちリールは女の友人が出来たらしく、同性でつるんでいるところを見かけるようになって、ジグはほっと息を吐いた。
 そうして、リールの髪が肩まで伸びたころ、ジグはリールと久しぶりに顔を合わせた。
「ジグ!」
 パン屋を出てジグが通りを歩いていると、後ろから声を掛けられた。
 その声にはっとして振り向けば、リールがこちらに向かってくるところだった。
「なんだ」
 背筋がつうと硬くなる。話す言葉が思い浮かばず、ジグはいくらか緊張していた。
 こちらを見上げたリールの目は、陽の光を呑み込んで、緑色がゆらゆらと光っている。
 それに軽く眩暈を覚えて、ジグは陽を避けるように木陰へと逃げ込んだ。リールは後ろから、慌てて追いかけてくる。
 今ごろ、何の用だろう。
 謝罪もなく投げ捨てた関係だ。まさかとは思うが、いまさら責めに来たのかもしれなかった。
「……ジグ、まだ怒ってる?」
「は?」
 思わぬ台詞を聞いて、ジグは振り向いた。自分の顎が間抜けに開くのがわかった。
「ジグがいないと寂しいよ」
 リールが、腕の中に飛び込んできた。ジグが手にしていた紙袋が、がさがさと音を立てた。
「お前――馬鹿だろ」
 ジグは呆れて息を吐く。リールはぎゅっとジグにしがみついた。リールの身体はあつくてやわらかくて、その熱がジグの心臓に移りそうな気がした。
「それ、意味わかって言ってんのか」
 ジグの不埒な手がリールの背中に添えられ、腰までのラインをなぞる。
 ――さあ、思い知れよ。意地悪な感情が胸を焼く。ジグと一緒に居ることの意味を、知ってくれと思った。
「わ、わかってる」
 と、つっかえながらリールが答えて、思わずジグの手が止まった。
「……考えたよ、時間かかったけど」
 ん、とジグは低く唸った。ごちゃごちゃといろんなものが絡まって、頭の中の整理が追いつかない。
「ジグがいい」
 ぽつりとリールが言って、ジグの胸に頬をすり寄せた。くわんと眩暈がした。ジグの足元から脳天まで、びりっと痺れが走ったようだった。
「……あ、そ」
 間抜けも間抜けな返事をよこして、ジグはリールを抱き締めた。
 いろいろと小賢しい立ち回りをしたが――やはり俺は、かつてリールが思っていたようなただの間抜けだ、と思った。
 心臓の音は、きっとリールにはばれている。

<了>


novel

2017 05 14