未必の恋

 久しぶりの帰郷だった。
 リールは、しばらく妹のところに滞在することになった。実家はもう無い。妹のカドは、若くして一回り年上の男の妻になった。そして、夫婦で宿屋を経営している。
 昔、姉妹は祖母と暮らしていた。祖母が遺した財産は、二人が大人になるまで慎ましく生活できる額だったが、学費に充てるには足りなかった。だからリールは家を出た。先行投資のつもりで傭兵の予備学校に通い、卒業後は冒険者になった。カドを寄宿舎付きの学校に入れ、毎月仕送りをした。
 ふうとリールは息を吐く。女物の服に袖を通すのは久しぶりだった。髪は付け毛をして、顔には化粧を施す。万が一知り合いに会ったときの用心だった。
 冒険者としてのリールは、男装を貫いている。ギルドに登録したばかりの頃は、背丈はあったが痩せていて、動きやすさのため短く切った髪の所為もあって、男だと思われていた。そのうちに男の方が割のいい仕事が来ることに気付いて、訂正しないまま今に至る。
 女の冒険者は少ない。皆、結婚を機に引退してしまうからだ。リールも、既に適齢期は過ぎている。王都など大きい都市では年齢が上がるが、田舎では二十歳前後はほとんどが人妻だった。
 ――いつまで仕事を続けるべきだろう。最近、ふいにそんな思いが湧き上がってくる。
 妹を養う必要はなくなった。食べていく以上に稼ぐ理由は、なくなったのだ。
 男に混じってひたすら肉体労働をしてきた所為で、もちろん恋人はいないし、結婚相手にも巡り合えるわけはない。
 束の間、女の身に戻ってはみたものの、今いる場所は仮の宿でしかない。
 すうっと胸が寒々しくなるような心地だった。
 ――女としての自分には、行く場所がないことにリールは気付いたのだった。


 休暇中とはいえ、動かさなければ身体もなまる。
 暇を持て余してしまうこともあって、リールはカドの宿を手伝っていた。はじめは奥で皿洗いや掃除などをしていたのだが、そのうち表の方に出されてしまった。とりあえず、若い女は接客がいいらしい。
 一階は食堂になっていて、宿をとる以外の客も訪れていた。昼は窓から入る陽も明るく、がやがやと騒がしく賑やかだ。
 注文をとり、リールはくるくると働く。足にさわるスカートの裾の感触が、懐かしくてなんだか不思議だった。
 忙しさの合間に、入口のドアのベルが、かららんと音を立てた。
「いらっしゃい――
 振り向いたまま、リールは固まった。笑顔に引き上げた口の端が、ひくっと引き攣るのがわかった。
「おすすめある?」
 どかっと椅子に座りざま、入って来た男はそう言った。荷物を床に置き、やれやれといった様子で息を吐く。
 ――ジグだった。リールの相棒だった。
 なんでこんなところに、と頭の中は混乱をきたしながら、リールの口はすべらかに本日のランチメニューの中身を答えている。
 知人がまったく来ないような場所ではない。しかしそれでも。それにしたって。ジグじゃなくてもいいじゃないかとリールは天を呪いたくなった。
「それで、空いてるなら宿もとりたいんだけど」
 目の前の男の発言に、リールは手にした盆を齧りたい気分だった。いつもながら、タイミングの悪い男だ。
「空いております、けど」
 人一倍鈍いジグが、リールに気付いているとは思えない。普段は意識して声を低めていたこともあって、声で気付かれるとも思わない。それでもリールは平静ではいられなかった。逃げ出したくて、背筋がむずむずする。
「……観光ですか?」何しに来たんだと思ったときにはもう、尋ねていた。
「療養」答えて、ジグは朗らかに笑った。「いま、怪我で仕事休んでんだ。この辺、温泉あるだろ? 骨休みでもしようと思って」
「……そうですか」
 まさしく、リールの休暇の原因でもあった。ジグは先日の魔物退治の際に怪我をした。腕の裂傷はさほどひどくはなかったが、したたか肋骨を痛めたのだ。
 もっといい宿に行けと言いたいが、この宿も温泉の湯を引いている。断る理由にはならなかった。


――ごゆっくりどうぞ」
 注文品をテーブルに並べると、リールは速やかにそこから離れた。
 いつもならジグの向かいに座って、その食べっぷりを観察したり、それとなく皮肉を言ってみたりして楽しむのだが、いまはそういうわけにもいかない。
 相手をしなくて済むことに安堵すると同時に、――話すことなど何もないのだ、ということを痛感した。女としての自分は、ジグとの接点がない。
 厨房の方へ向かおうとしたとき、傍のテーブルからグラスが滑り落ち、ぱしゃんと景気の良い音を立てて割れた。少し残っていた中身が零れて、古ぼけた床に吸い込まれていく。
「おわっ」
 慌てたのは、この店の常連だ。中年男がすまねえすまねえと謝る様子に、気にしないでと柔らかい声を掛けて、リールは膝をつかないようにして屈み込んだ。
「カド、ほうき持って来て!」
 店の奥へと声を掛け、リールはひとまず大きな欠片を拾い上げる。
「ああっ、リルさん、綺麗な指に傷が付いちまう」
 慌てる男に、大丈夫ですよとリールは苦笑を返した。リルというのは愛称だ。本名そのままで呼ばれない方が都合が良かった。
 ほどなくして妹がほうきを持って現れ、細かい欠片をさっさと始末する。
 大したアクシデントではない。だからリールはそれきり意識から流していたのだが、ジグに麦酒の追加を持って行ったときに、手首を掴まれてぎょっとした。
「指、怪我しなかったか?」
「だっ、大丈夫ですから――放して」
 リールは少し強い調子で、己の手を取り返した。頭にかっと血が上るような気がして――おそらくは、腹が立った。この場は初対面のはずなのに、なんて馴れ馴れしいんだ、この男。
「うわっ、お姉ちゃん、珍しい。どうしたの?」
――なにが」
 からかうように声を掛けて来たカドに、リールは不機嫌な返事をした。目の前のジグに落ち着かなくて、ささくれ立っている。それが自分でも馬鹿みたいで、苦々しくなる。
――いや、珍しく感情的だから。いつも、酔っ払いに絡まれても涼しい顔で流すじゃない」
「……そうだっけ」
「そうだよー? えっ、もしかして、こういう人が好みのタイプ――
「もうっ、怒るよ!」
 怒ってるよーと騒ぐ妹を放って、リールはそのまま店の奥に逃げ込んだ。頬が熱い。ジグの顔を見ることができなかった。


 その後は夜まで、ジグと顔を合わさずに済んだ。夕食の給仕はそつなくこなし、後片付けを済ませると、リールは借りている部屋まで引っ込んだ。
 ――今日はとにかく調子が悪い。考えたくないことまで、考えそうになる。
 ベッドに突っ伏して少し落ち込んでいたが、リールはそのまま眠ってしまったらしい。
 目が覚めると深夜だった。
 目を擦って、リールは起き上がった。中途半端に眠った所為で、咽喉が渇いている。
 水を求めてリールは階下に降りた。階段がわずかに、きし、きしと音を立てる。宿の客への配慮もあり、食堂は深夜までは営業していない。昼間の喧騒が嘘のように、あたりは静まり返っている。
 桶に水を移して顔を洗ったあと、飲料用の甕から水を汲んで、リールは咽喉を潤した。
 厨房の小窓から、月明かりがほのかに差し込んでいる。誰かを起こすことを危惧して、ランプは付けなかった。勝手がわかる場所ということもあって、少しの明かりで充分だ。
 とろとろと青い薄闇に、リールの気分もくらりと沈むようだった。
 台に置いた指に力が入る。このところの心のかげりが、夜の中に静かに浮上する。
 ――どうしてすがってしまったんだろう。
 あの、嵐の夜。
 家を出てから、リールは一人で暮らしている。家族に救いを求めたって、無駄なことはよく知っていたのだ。
 それなのに、あの日はジグが一緒だった。普段偉そうにしているリールが、雷が怖いなどと言えば笑われてしまっただろう。言う気はなかった。知られる気もなかった。
 ――それなのに。どうして、ジグの部屋に行ってしまったのだろう。
 こんな静かな夜には、自分の弱さが浮き彫りになる。男の中で働くには、強くなければいけなかった。でもそんなものは、ただの虚勢でしかない。自分は、弱い。
「う……っ」
 思わず洩れた嗚咽を、リールは押さえつけた。ずるりと、床に崩れ落ちる。
 不安だった。怖かった。先行きが見えない。したいこともない。一緒に生きるべき人もいない。妹はもう手が離れて、自由になったはずなのに、リールには何も残っていなかった。
 座り込んだまま静かに啜り泣いていると、後ろから、ぎしっと足音がした。
「……誰かいるのか?」
 ランプの灯りが床にすっと差し込んで、リールの心臓はひゅうっと冷えた。
 ――聞き違うはずはない。それはジグの声だった。本当に、タイミングの悪い男だ。
「どっ、どうかしたんですか」
 慌てて涙を拭いながら立ち上がり、リールは後姿のまま尋ねた。
「いや、水でも貰おうと――そんなことより、そっちこそ――
「灯り、消してください」
「え?」
 ジグの声を遮って、リールは訴えた。その、ぼんやり光る、橙色の灯りが嫌だった。腕で顔を隠しながら、リールはゆっくりと振り向いた。
「……だから、化粧落としてるんです。見られたくないので」
 泣き顔を見られるのも、嫌だった。こんな状態で、自分がリールだと知られるわけにはいかなかった。一方のジグは、声で昼間の給仕だとわかったらしい。ふっと息を吐く気配がした。
「早く、灯りを――
 リールはそれ以上、言えなかった。ふいに、抱き締められたからだ。
「え――
「これで、見えない」
 かしゃんと、台の上にランプを置く音がした。
「な、なに言って……」
「見えないだろ?」
 なんで、こんなこと。――ジグのくせに。そう思ったのに、リールの口から零れたのは、かすかな嗚咽だった。
 ――すがっていい人がいるだなんて、思ったことがなかった。
 あの嵐の夜、ふいに目覚めたリールは、ベッドの中にいた。ベッドの脇で眠ったはずなのに、寝惚けたのか、どうかしたのかわからないが、いつの間にかジグと一緒に眠っていた。
 そのときの混乱を、リールはよく覚えている。
 ――そのときのようだった。あの夜のように、リールはジグの体温を思い知る。
 不安なリールの胸に、いっそ暴力のように、沁み渡るのだ。
 ジグの身体が大きいことも。ジグの胸が温かいことも。ジグの手のひらが優しいことも。何も、何一つ、知りたくはなかった。
 揺さぶられるのだ。怪我をしたジグには悪いが、この休暇はリールにとって渡りに船だった。ジグと距離を置けてほっとしたのだ。
 揺さぶられると、見えないものに気付いてしまう。見えない気持ちが、見えてしまう。
 ――気付きたくなかったのに。
 この気持ちを抱えながら、何食わぬ顔で隣に立っていることはもうできない。相棒ではいられない。それがつらくて、リールは泣いた。
 それを慰めるジグの手は、残酷なほど、優しかった。


 ――次の日、リールは町に買い物に出た。
 朝、起き出してきたジグを見たときに、今日は仕事は出来ない、と思ってしまったのだ。羞恥と戸惑いと、なにやらわからない感情を持て余して、顔が赤くなるのを感じた。
 今日は町に出たい、と妹に願い出ると、幸い仕事は少ないらしく、客が増える昼食時には戻ると約束をして外に出た。午前中いっぱいあれば、何とか気も紛れるだろう。
 必要なものがあれば買っていこうと、店をちらほら覗き見たりもしたのだが、何も思いつかなかった。リールは手ぶらのまま、町をぶらぶら歩く。
 裏路地の先の、水飲み場がある小さな広場にたどり着いて、リールはそこのベンチに座った。家々の裏手なので、日が陰り、人通りもなく閑散としている。いまのリールには、その静けさが心地好く思えた。
 ふと、リールは男が二人立っていることに気付いた。絵に描いたようなごろつきが、にやにやと笑いながらリールに近づいてくる。そういえば、この辺りはあまり治安が良くないな、とリールは思った。無意識のうちに、人の多いところを避けて来たのだった。
 金品を要求する男たちを見上げながら、リールはにやりと笑った。
 ――ちょうど、誰かをぶちのめしたい気分だったのだ。
 手前の男の顎を蹴り上げると、リールは呆気にとられたもう一人の男の懐に飛び込んだ。ナイフを叩き落とし、力任せに蹴りつける。あとはもう、難しくはなかった。
 二人の男を昏倒させると、少し気分がすっとした。
 両手を叩くように軽く払ってから、リールは表通りに戻ろうとした。
 ――そこに、ジグが立っていた。
――っ!?」
 冷静に男たちに対処したリールも、さすがに狼狽した。なんで、ジグが。なんで、ここに。
 慌てて背を向けるが、逃げ場の路地はジグに塞がれている。横の細道から抜けようとしたところで、すぐに追いつかれ、後ろから腕を掴まれた。
「は、放し――
「見覚えのある体術だな」
 ゆっくりと、確信のある声で、ジグが言う。
「なんで、ここに――」息も絶え絶えに、リールは尋ねた。
「妹さんに訊いたら、町に出たって言うから。声が聞こえたから、通路覗いたら、ここに」
「なん――
「昨日、様子が変だったから。気になった」
 そう言って、ジグはぐっとリールを引き寄せた。背中がジグの胸にぶつかって、すうっとリールの背筋が冷える。
「どうりで、気安い雰囲気がすると思った」
「なに――
「昨夜も、誰かさんの身長がこのぐらいだったな、と思って」
――や」
 遠回しに、ジグはリールを追い詰めていく。
 そして、決定的な一打を放った。
「……リール」
「ちがう」
 リールは、力なく首を横に振った。何を否定しているのか、自分でもよくわからなかった。
「言っとくが、俺、知ってたからな――お前が、女だって」
「えっ」
 はっとリールは振り向いて、三つ年上の男の顔を見上げた。そこにすかさず、ジグの手が伸びてきて、リールの顎を掴んだ。ざらついた太い指から、熱が、じわりとリールに伝わる。
「やっと、こっち見た」
「は、放してよ!」
「暴れるなよ――俺の傷に響くだろ」
 両腕を掴まれて、リールは動きを封じられた。その辺のごろつきは簡単に倒せたのに、この男には、力では敵わない。
 ――自分は非力な女だと、思い知らされるような気分だった。加えて女だと知られていたなら、どう思われていたのだろうと気になった。滑稽だったろう、見苦しかったろう。必死に男に付いていこうとした自分の、立つ瀬がない。
 じわじわとつらさがせり上がってきて、リールの頬を、涙がほろりと伝った。
「うわ――ちょっ」
 慌てたように、ジグはリールを抱き締めた。
「な、泣くなよ……」
 ――また、胸を貸してくれるということだろうか。優しくて残酷な男だと、リールは思った。手を伸ばせるところに待っているのは、ひどい誘惑だった。
「ジグの馬鹿野郎――相棒なんて、やめてやる」
 知られてしまったならちょうどいい。もう、破れかぶれだった。やめてしまいたいと思ったはずなのに、
「ああ、俺もいま、そう言おうと思ってたとこ」
 などと返されて、その台詞の痛烈さに息が詰まった。小さく、リールの身体が震える。
「俺さ、お前が女だってことにはなんとなく気付いたけど、大丈夫だと思ってたんだよなあ」
「……なに、が」
「女だってわかっても、相棒としか思わなかったし。でも、こういう恰好してるの見ると駄目だよなあ」
「なんの、話」
 聞けば聞くほど、リールの混乱は募った。何の話をしているのか、わからない。
「いまのまま続けるのは無理だわ。泊まりの仕事とか来たら、ムラムラしそう」
――は!?」
 リールは、ぎょっとして思わず顔を離した。涙も引っ込むほどだった。
 ――ジグもそういうことを考えるのか、と思うと、胸の中が狼狽えて、どうしたらいいのかわからない。女として扱われない時期が長かったリールは、その手の免疫がひどく弱かった。
「まあいいか。ギルドに戻ったら、一緒に考えようぜ」
「……一緒に?」
 手を引かれ、リールはジグに続いて歩き出す。
「そりゃまあ。二人の問題だもんな」
「一緒に……」
 歩きながら、その言葉を噛み締める。
 大きな背中を見上げながら、リールは涙を拭った。
 ――もう、一人で悩まなくていいのかもしれなかった。

<了>


novel

2017 04 12