――そろそろ潮時かな、と俺は考えていた。
何のことかといえば、菜揺との関係のことだ。
佐伯から、菜揺の男嫌いを治せという命を受け、俺は勢いでそれを引き受けた。と言っても、完治させられるだなんて豪語した覚えはない。専門家ではない俺が試行できるのは、緩和させるといったぐらいのことだ。
俺と触れ合う中で、少しずつ菜揺の方が慣れていけばいい――という話だったのだが、近ごろは、なにやら変な方向に嵌り込んでしまっている気がする。
例えば――そう、今の状況だ。
俺は菜揺を膝の上に乗せていた。菜揺の手は、俺の胸元に軽く添えられている。髪を撫でてやると、彼女は大人しくそれを受け入れる。
――おかしいだろ、と俺は思う。冷静に考えると、相当におかしい。
初めのうちは、ソファの上で隣り合わせに密着する程度だった。肩に触れ腕に触れ引き寄せる手に、菜揺もわずかだが慣れていった。撫でるように指でたどると緊張したかのように身を強張らせるが、それでも嫌だと彼女が拒んだことはない。
エスカレートしていくことの気まずさに気付いてはいたが、どこまで触れるべきか、俺自身が戸惑っていたのもあった。
それもこれも佐伯が、恋人が出来ても困らないほどにしてやってくれなどと言い出した所為なのだが、軽々しく頷いた俺も同罪だった。そもそも、俺が恋人の距離に慣らしてどうするんだ、と。誰もそれを指摘しなかったのがまずおかしい。
さすがの俺も、軌道修正が必要なのではと思い至った。恋人が出来てからその相手に慣れるのが筋だろうとそれとなく言ってみたりもしたのだが、佐伯も、当の菜揺まで、「猪川さんだったら大丈夫だから」と返してきたのでそのまま呑み込んでしまった。
――それでもやっぱり、これはないんじゃないかと思う。
「……菜揺」
声を掛けると、菜揺は俺の膝に乗ったまま、顔を上げた。その顔は、常よりかなり赤みが差していた。羞恥か屈辱か。どういう感情かはわからないが、それでも菜揺は拒まない。
膝から滑り落ちないように腰のあたりに手を添えてやると、菜揺は微かに震える指で、俺のシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。
見上げてくる目を、思わず覗き込む。そこは確かに潤んでいた。
菜揺の目が困ったように泳ぎ、ぎくりと肩が揺れたかと思うと堪えるようにぎゅっと目をつぶる。
――はっとした。俺はいつの間にか、鼻の先が触れ合うほどに菜揺に顔を近づけていたのだ。
慌てて身を離すようにする。言葉はとどめる間もなく滑り落ちた。
「――菜揺、もうやめようか」
「……はい」
今度も、菜揺は拒まなかった。
菜揺は、女が見ると溜息を吐きそうな容姿をしていると思う。なんというか、人形めいているのだ。透き通るような肌の白さに、顔が小さく手足も細い。薄い肢体は年相応の肉感を削ぎ落している。背中に流れる黒髪は、艶やかな鴉の濡れ羽のようだった。
その大きな瞳でじいっと見つめられると、落ち着かなくなる。良い意味に限らない。無機質な人形に見つめられているかのような、うっすらと腹の底が冷えるような居心地の悪さ。本人を知った後ではさほどには思えないが、それでも、たまに嫌がらせをされるということの発端はそこにあるのではないかという気さえする。
人ではない者と対峙しているような、現実味のない感覚。存在感のある、邪魔臭い眼鏡だけがかろうじてこちらに現実を教えている。
――しかし、そこに感情が乗ると印象が一変することに気付いた。
大抵は冷ややかに見せている瞳が、たまに緩んだように笑ったり、羞恥に歪んだりする。あるいは、怒りに燃える。頬にうっすら赤みが差して、人形が人間になったかのような、ある種の感動さえ覚える。
――しかもその感情や変化は、こちらに向けられるものなのだ。
自分がこの人形に命を与えている、という妄想めいた錯覚を抱かせる。よく変質者につけ狙われるというのも少し――ほんの少し、わかってしまうような気がする。ともすれば、「俺は特別なのだ」と思わせるのが上手いのだ。本人は、そんな気はないだろうが。
――それに、俺も引きずり込まれているような気がした。
触れているのは菜揺のためなのか己のためなのか、不意にわからなくなる。
だから、放そうと思ったのだ。
そろそろ、菜揺も成人する。そうなると、俺の側に触れる理由が出来てしまうのだ。――まさか、こんな子供に。まさか、こんな未成年に。そう思って見ないでいたものが、牙をむく。
無責任に放り出したつもりはない。少なくとも肩に触れたり隣に座ったりは我慢できるようになったわけで、それ以上を求める必要もないだろう。
必要がある方がおかしいのだ。
何度も自問した答えが、頭の中を掻き回す。
そうだ、俺はおかしい。だから、菜揺とはおしまいにする。
菜揺とは、建前上は『付き合う』ということになっていたため、別れたあとは何の権利も有してはいない。軽々しく家に呼ぶ名目がなくなり、菜揺と二人きりで会う機会を作ることはなくなった。
菜揺が二十歳になったとき、成人祝いに佐伯も交えて食事に行ったが、それだけだった。二人だけで話すような話題は特になく、こちらからは勿論、菜揺から電話やメールが来るようなこともなかった。
何か月も経ったころだろうか、俺は飲み会の帰りに繁華街を歩いていた。幾人かの同僚と飯を誘われ、結局酒が入った次第なのだが、あいにく俺は車だった。ノンアルコールのビールを舐める程度に飲んだだけだ。
人の多さと蒸し暑さに、じわりと汗がにじむ。菜揺と初めて会ったのは冬目前だった。あれから一年半以上経ったのか、と柄にもなく感慨に耽る。暦上ではもう秋の入り口だった。
そのとき、不意に大学生の集団とすれ違った。その中に菜揺の姿を見つけて、俺は思わず振り返った。菜揺は、大学生の中に混じっていてもおかしくないぐらいだった。背の低さと身体の薄さは相変わらずだったが、一人だけ中学生が混じっているようにはもう見えなかった。バイトを始めたと聞いた所為かもしれない。大学生活に慣れた所為かもしれない。少し落ち着きが出てきたのか、他人に合わせることを覚えたのか、浮いているようには思えなかった。いつの間にか、コンタクトレンズまで覚えたらしい。
それなのに菜揺に気付いたのは、その足取りがふらふらとしていた所為だ。こんな時間にこんなところを歩いているのは、ほぼ確実に飲み会だったのだろう。菜揺は大学生になったからといって飲酒をすることはなかった。律義に、成人するまでは控えていたのだと思う。だから俺は、菜揺が酔っているらしい姿を見るのは初めてだった。
それだけなら、友人も一緒のようだし、俺もそのまま立ち去っただろう。しかし菜揺は、足を止めてその場にうずくまってしまったのだ。
「菜揺ちゃん? 気分悪い?」
「牧田?」
何人かが声を掛け、足を止めた。
「だい――じょうぶ、目が回るだけ――」
微かに聞こえた菜揺の返事は、思ったよりはしっかりした声音だったが、途中でぶつりと切れた。
近寄った男子学生が、心配したのか、菜揺の背中をさすり始めたのだ。
菜揺の肩や背中がぐっと強く強張ったことを、俺は知っていた。
「――おい」
俺は思わず、その集団に声を掛けていた。
学生たちは、緊張したように俺を見上げた。俺は、お世辞にも人畜無害そうな見た目はしていない。構えられることも珍しくないので、気を悪くしたわけではなかった。
「そいつ、酒飲んだのか」
「な、なんですかあなた」
そう訊かれて、名乗りを忘れていたことに気付いた。明らかに警戒されている。どう言おうか、と思ったとき、はっと菜揺が顔を上げた。――あ、というように彼女の口が開く。見知らぬ他人に囲まれた中で、唯一の知り合いを見つけたような顔をしていた。
「――尊さん!」
菜揺が、慌てた様子でこちらに寄って来て、勢い余ったかのように俺に抱き付いた。
正直言って、俺は驚いた。どう切り出そうか迷っていたのは、菜揺に対してもあったのだ。菜揺は、妙に頑固でプライドが高いところがある。送ると声を掛けたところで、嫌がったり遠慮したりのひと悶着がある可能性は考えた。それなのに、意外にも歓迎ムードで俺は拍子抜けした。以前は、名前を呼ぶことすら抵抗していた菜揺だったのに。まあこれは、心境の変化というよりは、ほぼ間違いなく酔っている所為だと思う。
「こいつの知り合いなんだ、送っていく」
周囲に声を掛けるが多くは語らず、俺は菜揺を抱え上げた。ただでさえ人さらいと被害者の図に見えることは痛いほど自覚していた。ちくちくと刺さる視線の中で、菜揺が暴れずにいたことだけが有難かった。
「――菜揺、飲めるか」
車の後部座席に菜揺を寝かせたまま、俺は自販機で水を買って戻った。後ろに乗り込み、菜揺の上半身を起こさせる。こちらにもたれさせたまま、ペットボトルの蓋を開けて菜揺の口許に近づけた。菜揺はのろのろと腕を上げてペットボトルに触れたが、まともに掴めているとは言い難い。だから俺も、結局手を離さないまま水を飲ませた。
二三口飲んで頷いたのを見届け、俺はペットボトルの蓋を閉める。
「少し休むか、菜揺」
菜揺がふらふらとしていたので、このまま車を走らせても気分が悪くなるかと思い、俺はそう尋ねた。こくんと頷いた菜揺は、俺の胸元に両手を置く。
「――な」
なんだ、と言おうとしたが、菜揺がぐいぐいと押してくるので、押されるまま後部座席に倒れ込む。足許に落としたペットボトルが、ごろんと転がった。車の低い天井が目に入り、俺は少しだけ混乱した。――どうやらこれは、言うなれば菜揺に押し倒されたということになるらしい。片足は床に着いたまま、斜めにずれて倒れたような恰好だった。
菜揺を押さえつけて主導権を取り戻すことはあまりに容易だったが、怯えさせるのは本意ではないので、そのままにした。こんなものは、脅威でもなんでもない。
大人しく従っていると、菜揺が上に乗っかってきた。膝に乗るようにして、上半身を胸元に寄せる。猫のようにぐりぐりと頭を押し付けてくるところを見ると、どうやら甘えているらしい。この、酔っ払い。
ゆっくり腕を上げて、俺は菜揺の背中に触れた。酒の所為なのか、少し体温が高い気がした。背中を、撫でる。菜揺は嫌がらなかった。
「――俺たち、別れたんじゃなかったか」
この状況を説明する言葉がわからなくて、つい、そんな軽口を叩く。
うん、と菜揺は頷いたが、それは回答ではなかった。声を掛けられたから返事した。それぐらいの反応だった。
俺は軽く息を吐く。「お前が、酔うほど飲むとは思わなかった」
菜揺は、プライドが高い。自分の内面をさらけ出すことにひどく慎重だ。多少酒が過ぎたとしても、たがが外れるようなことはないと思っていた。そういう人間は、見苦しい姿を見せまいと、酒が入っていても強くブレーキがかかるからだ。
「……猪川さんのせいだもん」
「――は?」
なじるというよりは、拗ねたような声だった。
「夏休みでみんな、彼氏ができたとか彼女ができたとか言って。猪川さんいないし――寂しかった」
「それ、俺のせいじゃないだろ」
支離滅裂だった。それで精神的なたがが外れてつい飲み過ぎたと言いたいらしいが、理由になっていない。呆れると同時に、扱いづらい菜揺を新鮮に思った。菜揺はいつも、親の顔色を窺う子供の様に従順だった。無条件でそうだったわけではないが、迷惑をかけないように、我侭を言わないように、気を遣っていたことは知っていた。そして、自分の弱い面を見せるのを恐れていたことも。
佐伯に言わせれば、それなりには甘えていたらしいが、そんなものは親しくない人間相手よりは気を許していた、という程度でしかない。こんなことをしつこく思うのは、本当は――甘えてほしかったからなんだろうか。
対等な友人として出会ったはずなのに、ここに至るまでの道はずいぶんと曲がりくねっている。
そう考えて、ふと気付いた。俺はきっと、初めから――菜揺に気を許していた。
だから、こんなことが気になるのだ。
――こいつの中で俺の位置は、どのあたりにあるのだろう。
「お前は、俺のことなんだと思ってるんだろうな」菜揺の髪を撫でながら、ぽつりと訊いた。
友人ぐらいには、思われているのだろうか。それとも、ただの恩人でしかないんだろうか。
「――好きですよ」
俺の胸元で、菜揺が言った。――え、と予想外の返事に俺は狼狽える。
「好きです」
心音を聞くように、菜揺は頬を当てる。どっ、と心臓が衝撃で揺らいだ。
「でも、お前――反対しなかったじゃねえか」
拒まなかった。おしまいにしようと言っても。別れようと言っても。そうして会わなくなることは、菜揺も同意したくせに。
――寂しかった、好きです、と言われて素直に揺らぐ心臓が恨めしかった。
「だって、猪川さん」菜揺は手を当てて、少し上体を起こす。そうして、俺と目を合わせるようにした。「あのまま付き合うことになっても、絶対、ボランティアの延長ぐらいにしか思いませんでしたよ、猪川さんは」
「そんなことは――」
「あります」
やけにきっぱりと菜揺は言った。「私のこと、疑ってたでしょう。猪川さんに頼んだのは、単に他に適当な人がいないっていう消去法だって」
返事が出来なかった。図星だったからだ。
俺が選ばれたとは思わなかった。本番前の予行演習のようなものだと、そんな風に思っていた。だから、己惚れるなと。本気になるなと。俺は自分に枷をかけていた。たとえそのときに告白されて付き合うことになっていたとしても、こいつは他に男なんか知らないからな、と疑っていただろうことを否定できない。
「――あのね、猪川さん。わかってないと思うけど」
菜揺は、おもむろに俺から離れて身を起こした。それを追うように、俺も身体を起こす。隣に座った菜揺が、俺の目を見上げた。
「私、一度あなたに気を許したんですよ」
――あ、と気付いて、胸がかっと熱くなった。
初めて会おうとしたとき、俺と菜揺は友人だった。菜揺はそのときも過剰な男嫌いで、男と一対一で会うことはひどく勇気が要ったことだったのだ。
菜揺を知った今だからわかる。――俺は、菜揺に信頼されていた。
この人なら大丈夫だと思われていたのだ。結果的には不幸なすれ違いで裏切ったようなものになったが、それが強い傷を残すことはなくて、菜揺は俺と一緒にいることを選んだ。
菜揺の頬に触れると、彼女は動揺したように瞳を揺らめかせた。
「そっ、それに私、あなたに憧れてたんですからねっ」
「――ああ」
知っていた。こいつが、最も憧れるかたちと最も恐れるかたちは紙一重だった。
体格の良い男は、菜揺にとって最大の恐怖であると同時に、そうあれたらという憧れだった。
俺は、認められていた。憧れられていた。好かれていた。そのくせ、こいつは酒が入らないとそんなことも俺に告げないのだ。
――かわいいやつ。
そう思ったので、顔を寄せて唇を重ねた。
菜揺の肩がびくんと撥ねて、その手が俺の腕を強く掴んだ。
「……な、何で?」
「なんで?」
何でって、何でだ。菜揺の顔を見ると、酒が回りきったかのように真っ赤だった。零れ落ちそうなほどの涙が、目に湛えられている。眼鏡をやめた所為で、その目に映る光までよく見えた。軽く噛み締めた唇が、ふるふると震えていた。
「――お前、俺のこと好きなんだよな?」
そういう意味の『好き』じゃない、なんて言われても困る。――それとも、キスが嫌いとかか。
「そ、そうだけど、でも、猪川さん、何で……?」
どうやら、相当混乱しているらしい。そして俺はふと気付いた。
――俺、こいつに好きだって言ったっけ。
言ってねえな。と思ったが、いまさらそんな学生みたいなやり取りができるはずもなく、照れを隠すように俺は、もう一度菜揺の唇を塞いでしまうことにした。
<了>
2016 10 20