脳内ステップ

「じゃあ、送るから」
 さらっと猪川さんに告げられ、私は押し込められた助手席で緊張していた。
 新車らしく、車内の臭いがまだ強い。消臭剤を買うような女の人はいないのか――と改めてほっとしたと同時に、助手席という特別な位置に、また一つ緊張度が上がる。
 固まっていたところに猪川さんの大きな手が伸びてきて、私は声も出ずに目を丸くした。肩の向こうに伸ばされた手は、シュルッという音を立てて引き戻される。
「シートベルト。ちゃんとしろよ」
 何気ない動作の副産物として、猪川さんの影と匂いが覆い被さってくる。う、あ、と私は馬鹿みたいな呻き声だけで反応した。
――菜揺なゆり? 大丈夫か?」
「はっ、はい」
 様子のおかしな私を心配したのか、猪川さんの声がかかる。私の返事は、躓いたような間抜けな響きだった。緊張している理由を適当に解釈しているらしい猪川さんは、それ以上突っ込んでは来なかった。
 まだ発車してもいないのに、私の頭は既にパンク寸前だ。
 一度だけだったはずなのに、もうそれが当たり前になったかのように、名前を呼ばれている。それが嘘みたいで、やめてほしいような、やめてほしくないような変な感じだった。
 ――そうだ、猪川さんのことも猪川さんって呼ばないんだっけ。
「はい、大丈夫です――み、みことさん」
 私は、掠れた声で再度返事をした。
 これではまるで、罰ゲームみたいだと思った。


 私の高校卒業祝いと大学入学祝いを兼ねて、猪川さんと佐伯さんが食事に誘ってくれた。それにのこのこと出掛けて行ったのが、罠の始まりだったと思う。
 私でも入りやすそうな――つまりはそこまで高くなさそうな――イタリアンレストランで、佐伯さんは革のパスケースをプレゼントにと私にくれた。
 ありがとうございます、と礼を言う私の向かいで、猪川さんは少しばつの悪そうな顔になる。
――俺、何も用意してねえな」
「え、そんなの――
 祝いの言葉と食事だけで充分なのに。本音を言うと会ってくれるだけで嬉しいのだが、それはさすがに口には出せない。
 しかし、気にしないでほしいと私が告げる前に、佐伯さんがさっさと遮りにかかった。――それは、悪魔の妨害だった。
「プレゼントの代わりに、菜揺ちゃんと付き合ってあげればいいんですよ」
「は――?」
 あまりの馬鹿馬鹿しさに、自分が発した声かと思ったが、その低音は猪川さんだった。どういう意味だと唸るように訊いた猪川さんを、佐伯さんはにこにこと迎え撃つ。
「だって、もう大学生だし。いつまでもこのままじゃ、いけないかなって」
 何の話かと思えば、私の男嫌いのことだった。嫌いなだけで済めばいいのだが、私のそれは、もはや恐怖と紙一重だ。大学ともなれば、制服もなくなり、周りの男性は少年ではなく歴とした大人の男となる。日常生活に支障をきたす可能性もなくはない。
「猪川さんだったら、慣れてるから菜揺ちゃんも平気でしょ」
 一理ある。――あるが、半分ぐらいは私をからかっているに違いない。声もなく、私は隣の席の佐伯さんの腕を揺することで抗議した。
 それだというのに、まさかの猪川さんが、その提案を真面目に吟味してしまったのだ。
――なるほどな。要するに、ごっこかフリみたいなのでいいんだろ」
「ひょぇ」
 ぎょっとした私は変な声を上げてしまったが、猪川さんは納得するように頷いている。付き合うというのはもちろん建前で、男性に慣れるように協力してやれという提案なのだ。
 しかし、猪川さん本人には何のメリットもない。その上、もし意中の女性でもいれば、誤解を生んで面倒なことになる。
「あ、あの、猪川さんって彼女――
「いたらさすがに引き受けねえぞ、俺でも」
 私の意を汲んで、猪川さんは言葉を引き継ぐ。その言いようだと、既に引き受ける方向になっているのだろうか。かあっと私の頬に血が上った。
「……いいぞ、付き合っても」
 私の方を見ながら、猪川さんはにやっとした。ぱくぱくと口を開け閉めしている私を、からかっているつもりなのだろう。嫌がらせのつもりなら作用していないのだが、そんな反論をできるわけもなかった。
――あ、そうだ、菜揺」
「やっ」
 不意打ちで名前を呼ばれ、私の肩はびくっと跳ねた。おまけに妙な声を上げてしまい、私は慌てて両手で口を押えた。なんなのか、本格的に嫌がらせなのか、と涙目で猪川さんを睨むと、彼はにやっとしたままの顔で、
「俺、おまえのこと名前で呼ぶから」
 などと言う。
「な、なんで――」心臓が持たないからやめてほしいと思ったのだが、
「客観的に見て、俺とおまえの関係ってすごい変なんだよな」と猪川さんは説明にかかる。
 つまりは、社会人と未成年という組み合わせが変なのだそうだ。私だって来年には成人するのだが、見た目は中学生のように見られるので、そこは強くは言えない。通常社会人が子供と知り合うパターンは、親戚の子だったり、親と知り合いだったり、そうでなければ教師と生徒だったりだ。
 私と猪川さんのように、名字で呼び合うというケースは実はあまり一般的でなかったりする。それに加え、猪川さんは背が高いので、私との身長差がますます強調され、目立ってしまっている。それが、猪川さんは嫌なのだそうだ。これ以上目立つ要素は増やしたくないというわけである。
「で、でも、名前――
 理屈はとてもよくわかった。でも、すぐには付いていけないのが心情というものである。
「構わねえだろ、名前ぐらい」
「じゃ、じゃあ、私だって名前で呼びますからね!」
 猪川さんの言いぐさに腹が立ち、私は思わず言い返してしまった。しかし、
――呼べば?」
 見事に墓穴を掘っただけに終わったのである。


 この日、私は、猪川さんの家にお邪魔していた。
 本当は遠慮したのだ。二人きりだなんて、緊張するに決まっている。しかし、猪川さんお決まりの「目立ちたくない」で押し切られてしまった。
 いままでだって、食事ぐらいは一緒にとったことがある。しかし、そこに『付き合っている』という条件――もちろん建前だが――が入ると、人目を気にしてしまうものらしい。
 それもこれも、佐伯さんのせいだと思う。
 ソファに座っていても落ち着かなくて、やっぱり床に直接座ろうかと思っていたら、コーヒーカップをソーサーごと持った猪川さんが戻って来た。
「ほら」
 目の前のテーブルに、ことりとカップが置かれる。良い香りがして、ほんの少し私は落ち着いた。先ほど電動ミルのすごい音がしていたから、豆から淹れたものらしい。
「菜揺、砂糖とミルクは?」
「け、結構です」
 名前を呼ばれてまた、びくっと心臓が跳ねた。これにはまだ慣れそうもない。
 おずおずとカップに手を伸ばそうとすると、猪川さんがどさっと隣に座ったので、私はつい手を引っ込める。
 猪川さんの重さにソファが沈んで、傾いた私は、とんと猪川さんの肩に触れた。それに驚いて、慌てて座り直す。
「どこまでだったら大丈夫なんだ、おまえ」
 不意に手を握られ、ひゃあと私は情けない声を上げた。猪川さんのために弁明しておくと、彼は私とどうにかこうにかなろうという気持ちはこれっぽっちもない。すべては、やっぱり――佐伯さんのせいである。
「男の子と付き合えるようにしてあげてくださいね」なんて言ったのだ、あの人は。
 それはつまり、恋人同士の距離にも慣れさせてやれという意味だった。ナイスアシストと言えなくもないけど、まわりまわってオウンゴールです。
 かちんこちんになっている私の肩に手をまわし、猪川さんは引き寄せるようにする。大きな掌が肩をすっぽりと覆っていて、その熱までも伝わってくることに、私はどぎまぎした。ぐいと押されると、猪川さんの方に密着してしまい、ますますどうしていいのかわからなくなる。
――これはまだ平気か」呟くように猪川さんは言う。
「い、猪川さ――
 私のか細い声を聞きつけ、猪川さんはまたにやっと笑った。
「名前で呼ぶんじゃなかったのか? ん?」
 うぐ、と息を呑み込んだ私を見て、猪川さんは低く笑い声を漏らす。これは、わかっててやっている嫌がらせだ。
 私の緊張は伝わっていると思うが、それが嫌悪にまでなっているかどうか、猪川さんは冷静に見極めようとしているらしい。
 うーんと猪川さんが唸ったと思ったら、――不意に、私はソファの上に押し倒された。
「……え?」
 背中にぼんと衝撃が来て、両腕が掴まれていることに気付く。猪川さんの影が被さってきて、顔が近づく。視線が合って、私は目を見開いた。
 手足が冷たくなる。全身の血がスゥッと下がったような気がする。ヒュ、ヒュと呼吸が困難になり、私は絶望した。ちりちりと、刺すような嫌悪感が込み上げてくる。猪川さんでも駄目なのか。猪川さんでも。
 ――そんなの、ひどい。
 思わず浮かんだ涙が、目の端からぽろぽろと零れた。それを見て、猪川さんは慌てて私の上から離れる。
「おいっ、大丈夫か」
 猪川さんの、こんなに慌てた声は初めて聞いたかもしれない。猪川さんは、背中に手を添えて私を抱え起こした。
「……悪い、ちょっと己惚れてた」もう少し大丈夫かと思ったんだが、と猪川さんは大きく息を吐く。
 私はといえば、茫然としたまま、背中や肩を撫でられるに任せていた。涙は、ぽろぽろと流れるままだった。反応しない私を見て、猪川さんは手を離す。触れるのは逆効果かと思ったらしい。
 その手を追いかけ、私は猪川さんの服の袖をぎゅっと掴んだ。
――菜揺」
 猪川さんが私を呼ぶ。すーはーと深呼吸をして、私は猪川さんを見上げた。少し、睨むようになる。
「……私、諦めませんから」
 絶対に克服してやる、と逆に闘志が湧いてきた。好きな人とも触れ合えないなんて、これは確かに問題だ。半ば意地もあったけど、猪川さんに協力してもらっても無理なら一生無理だ。ここで治すしかない。
 私の熱気――もしくは敵意であったかもしれない――にあてられたのか、猪川さんは、
「お、おう」
 とたじろいだ返事を寄越したのだった。

<了>


novel

2016 09 12