脳内スイッチ

「オイ牧田、どうした」
 声を掛けられて、はい? と私は振り向いた。ビルのロビーには猪川いがわさんが立っていて、なんだか変な顔をしていた。
「いつもシャキシャキ歩いてるのに、今日は亀みたいにのろいぞ」
 失敬な、と私は呟いたが、猪川さんには聞こえないようだった。猪川さんはその大きな歩幅で私の目の前までやってきた。たった三歩だった。猪川さんの顔は見上げる位置にある。首が痛くなる角度だった。
「風邪でも引いたか」
 見上げた額にぺたりと、大きな手が置かれた。ぬるい掌だった。
「やっぱり熱があるん……」
 言いかけて、猪川さんは手を離した。不思議そうな訝しそうな、妙な表情をしていた。なんですか、と私が首を斜めに倒すと、なんでもねえよと返されてしまう。
「とにかく、無理はすんなよ。早退するなら連絡入れろ」
「……わかりました」
 私は大人しく頷いた。こういうときの猪川さんはとても真面目な顔をしている。いつもはもっと、いい加減そうな面倒臭そうな態度なのだ。
 予備校の帰りに猪川さんに送ってもらうのは、ほとんど習慣になっていた。変質者に怯える私を猪川さんが安心させようとして始まったことだったので、やめると言うタイミングをどちらもつかめないまま続いている。週三度とはいえ申し訳ないと思っているが、夜道を一人で帰るより気が楽なことは確かだ。もちろん都合がつかない日もあるし、家も近いからと猪川さんは言ってくれている。
 そんなふうに気を許しているのは、我ながら不思議だった。私は自他共に認める男嫌いで、本来なら傍に寄るのも嫌なはずなのだ。たぶん、猪川さんとは先入観や警戒心を覚えないようなかたちで出会った所為かと思う。年が離れている所為もあるかもしれない。同級生なら絶対に、弱みを見せたくない、と思ってしまう。
 その日の講義を終えると、私はすっかり疲れていた。やっぱり、猪川さんが言っていたとおり、熱っぽいのかもしれない。頭がぼやっとして、思考に難儀するのだ。というか、考えているうちに何を考えていたのかわからなくなるような感じだった。
 いつも落ち合っているロビーに急ぐと、そこにいたのは猪川さんではなく、彼の同僚の佐伯さんだった。
「あ、菜揺なゆりちゃん、こっちこっち」
「……あの、猪川さんは」
「今日はバトンタッチしたんだ、大丈夫、ちゃんと門まで送るからね」
 そう言って、佐伯さんは私の腕を自分の腕に絡ませて、ぐいぐいと引っ張った。
 門まで、とわざわざ言ったのはたぶん、猪川さんはそこまで送らないからだろう。いつも、手前の曲がり角までで別れている。私が家に入るまで見届けてくれているそうなので、そんなに違わないと言えばそうなんだけど。でもそれは、私が門までは要らないと言った所為だった。家族に見つかったときに、ただの知り合いにしょっちゅう送らせていることの説明ができないからだ。明確な理由があってのことではなく、猪川さんの好意にただ乗っかっているだけなのだから。痴漢騒ぎのときに家に連絡は入れたので、猪川さんという人がいることは家族も知っているのだけど、その人に更に手間を掛けさせているということも言いにくいのだ。
「あの、佐伯さんは電車で帰るんですよね? 駅から離れちゃうし、送ってもらうの申し訳ないです。帰りの夜道だって暗いし」
 慌ててそう言うと、佐伯さんは、もう、と少し怒ったような顔をした。
「菜揺ちゃんてほんと、堅物なんだから。猪川さんには甘えてるくせにい」
「あ、甘えてないです!」
 とんだ誤解だと言いたかったが、佐伯さんは子供をあやすみたいに軽く流してしまう。
「はいはい。私のことは気にしなくていいよ。今日は菜揺ちゃんの具合が悪いみたいだから特別だし、夜道に関しては私だって護身術ぐらい心得てるしね」
 そう言われてしまうと、固持するのも狭量に思える。それに、佐伯さんを支えにして寄りかかってしまうことを自覚しているので、一人で帰るのが心もとないことも事実だった。
「わかりました、お願いします……」
 私は、おとなしく送ってもらうことにした。


「よう、牧田じゃねえか」
 その日、予備校の講義が終わったあと、エレベータから下りると同時に声を掛けられた。嫌な予感がして振り向いてみれば、隣のクラスの男子だった。予備校でもクラスが別なので、普段会う機会はあまりない。
 男は、取り巻きを二人連れてにやにや笑っていた。九頭木くずきという名のこの男は、ときどき妙に絡んでくる。私に興味があるらしいが、好意的な意味では決してない。
「……何か用」
 私は、動揺を声に出さないよう気を付けながら、九頭木を睨みつける。私は彼の嗜虐心を煽る存在らしかった。この幼く見える容姿が悪いのか、物事の綺麗な面だけを見て育った、無垢なお嬢さんに見えるらしい。そういう存在を踏みにじってやりたいと思う下種な人種がいるが、この男もそういう一人だった。
 私だって、この年相応の清濁は持ち合わせている。ただ、こういう人種には説明したところで言葉が通じないのだ。幸い実力行使に出られたことはまだないが、ひどい嫌悪を感じさせる相手だということに違いはない。
「何だ……生意気だな」
 九頭木の顔が醜悪に歪んだ。私は、はっとした。普段なら適当に無視して、もっと当たり障りない態度で臨んでいたはずだ。腕力では絶対に勝てないことが分かり切っているから、怒らせないようにしていたのに。私は唇を噛んだ。たぶん、もうじき猪川さんが来ることがわかっているから、気が大きくなっていたのだと思う。
 九頭木とその取り巻きは、私を囲むように壁際に追い詰めた。気丈な態度を、と思っても無理だった。もう足が震えている。私の背が低いこともあって、見下ろされるのには強い圧迫感と威圧感を感じる。
「どうだあ、このあと、遊びにでも行くか」
 脈絡なく、九頭木が言う。まだ何もしてこないのは、じわじわと追い詰めて楽しんでいるからだ。こちらの反応を楽しみにして、じろじろと舐めまわすように見る視線にも、怖気をふるった。
「……この時間じゃ、どこも開いてない、と、思う」
「あるだろ、カラオケとか、ゲーセンとか」
 こんなとき、自分のことが大嫌いになる。ひどく憤って、嫌悪感が募っているのに、相手の顔色を窺いながら怯えた反応しか返せない。自分の無力さを、嫌というほど思い知る。
「ほら、いいだろ、行こうぜ」
 九頭木が手を伸ばして、私の腕をつかんだ。鳥肌が立つほど気持ち悪かった。吐き気がして頭がぐらぐらした。
――や」
 慌てて振りほどこうとしたが、全くの徒労に終わった。何か言おうとしても、咽喉からはヒュウヒュウと掠れた息が漏れるだけだった。思わず目尻に浮かんだ涙を見て、九頭木の口の端がぐいと愉しげに歪む。
 ――そのとき、
「何してんだ」
 九頭木の腕を、横合いから伸びた別の手がつかんだ。つかまれた手に力を込められて、九頭木は私の手を取り落とす。
 ――猪川さんだった。顔を見上げると、私を見て彼はにやっと笑った。
 荒事になるかと私は怯えたが、九頭木たちは混乱はしていても戦意は無いようだった。それもそのはず、つるまないと他者に威張れないような九頭木たちと、彼らより縦にも横にも大きくて剣呑な気配を漂わせている猪川さんとでは勝負にもならない。
「おまえら、人のもんに手ぇ出そうとはいい度胸だな」
 猪川さんは蔑むように彼らを見下ろしたあと、私の腕に迷うように目をやった。
――菜揺なゆり、来い」
――な、え」
 猪川さんは私の手首をつかんで引っ張った。言葉と展開が一瞬理解できなくて、歩き損ねた私はたたらを踏む。猪川さんの足は止まらなかったので、私は引きずられないようについていくのがやっとだった。
 そのまま、自動ドアから外に出た。道に沿って歩き出し、しばらくして猪川さんは足を止めた。
「……悪かったな、大丈夫か」
「え、あ、はい」
 つかまれた手を離され、私は取り戻した手首を握りながら拳を胸に当てた。
「気分悪くないか。吐き気とかは」
――え、いや、大丈夫……ですけど」
 猪川さんは私の顔を何秒か見つめ、やっと安心したかのように息を吐いた。
「適当に睨み効かせといたし、おまえとの関係も勘違いさせといたから、しばらくは何もしてこないと思うけど。同じ学校の奴なんだろ」
「……はい、助かりました」
 そこまで考えてたんだ、と思った。急に名前を呼んだり、腕をつかんだり、いつもと態度が違うと思ったけど、そこまでは気付かなかった。
――あ、でも、私の態度変だったから……」上手く合わせられなかったから、九頭木たちに見抜かれたかもしれない。そう言うと、意外にも猪川さんはにやっと笑った。
「いや、逆に都合がいいよ。脅されて、俺と付き合ってるように見えただろう。その方があいつらも、おまえに何とかしろと言えないからな」
「な、なんか慣れてますね」
「まあ、追っ払いたい相手がいるから彼氏のふりしてくれ、とかそういうことにはよく駆り出されるからな。別に、腕力だけが身を護る方法ってわけじゃない」
 おまえも変な隙見せるんじゃねえぞ、と言って、猪川さんは軽く腕を上げる。一瞬、私の頭を撫でそうになったが、猪川さんは結局腕を下ろしてしまった。


「あ、美味しい」
「でしょ? ここのシフォンケーキ、気に入ると思ったんだ」
 カフェの窓際の席で、私たちはケーキを食べていた。今日は講義もない日曜日だ。この店は、佐伯さんのお薦めだとか。
「菜揺ちゃん、絡まれてるとこ猪川さんに助けてもらったんだって? そういうことは猪川さんに任せとけば安心だよねー」
「あ、はい」もう伝わっている。同僚だから当然なんだろうけど、猪川さんと佐伯さんが仲良さそうなのがなんだか気にかかる。「……あの、もしかして、佐伯さんって猪川さんとお付き合い……されてたりとか」
 思わず言ってしまった。
 佐伯さんはちょっときょとんとした顔をして、それから思い切り吹き出した。
「あらー、気になる? 菜揺ちゃん、猪川さんのこと好きだもんねえ」
――ち、違いますっ!」
 とんだ逆襲に遭って私はうろたえた。好き、とかそんなことは考えたこともない。
「照れない照れない。大丈夫よ、ちゃんとお似合いに見えるから」
 あまつさえ、子供をなだめるように頭まで撫でられてしまう。
「だから、違いますって。……だいたい、歳が離れすぎてるし、見た目子供っぽいし、猪川さんにとって私なんか全然――対象にならないです」
「ああー、もう、可愛いんだ」慌てている私に対して、佐伯さんはちっとも笑いをひっこめてくれなかった。
 違うと言っているのに。思わず睨みつけると、佐伯さんはけらけら笑うのをやめて、でもにっこりと優しい顔をこちらに向けた。
「だって菜揺ちゃん、本当に誤解で言われるの嫌だったら、相手がどれだけ自分の対象にならないかってこと言うと思うの。でも、言うこと逆なんだもの。自分は好きなんだけど、相手にしてもらえないって言ってるように聞こえるよ」
「え――
 ついに言い返すこともできずに、私は言葉を失くしてしまった。何故って、言われて初めて気付いたからだ。自分の気持ちを自覚したという意味じゃなくて、自分の言動に気がついたという程度だけど。だから、軽い混乱に陥ってしまった。
「なんかあんまり納得してない顔してるね」
「そ――う、ですか?」
「自分でよくわからないなら、猪川さんに会ったときにちゃんと考えてみると答えがでるかもよ」
 楽しそうに、佐伯さんはそう言った。


「……なんだ?」
 猪川さんに訝しがられ、いえなにも、と答えて私は視線を外した。佐伯さんにいろいろ言われたから意識してしまって、つい猪川さんに目をやってしまう。
「あ、そうだ牧田、あの連中は何も言ってこないか?」
「こないだ絡んできた人たちのことですか? ええ、はい、大丈夫です」
「そ、良かったな」
 ふっと猪川さんは笑った。途端、私の頬がかあっと熱くなった。うわ、猪川さんが優しい。なんか、変に居心地が悪くなった。
 ビルから外に出ると、凍るほどに風が冷たかった。剥き出しの膝に、切られるような痛みが走る。くしゅんと小さくくしゃみをしたら、「風邪ぶり返すんじゃねえぞ、受験生」と猪川さんにからかわれた。
 その笑った顔を見て、突然私は気がついた。
 ――あの日、熱があるのかって訊いた猪川さんの手。
 私は触れられたのだ。男性に。
 猪川さんも触れてから気付いて、それで妙な顔をしたんだろう。きっとあの日は熱でぼんやりしてて、自分でもよくわからなかったのだと思うけど。それでも初めて現実で会ったとき私は猪川さんの手を拒んだし、普段は男性が後ろに立っただけでも背筋がぞっとする。
 九頭木たちから助けてくれたあとも、気分が悪くないか、猪川さんはしきりに気にしていた。猪川さんのこと、デリカシーないなんて言ったけど。
 ……そんなことない。
 思えば、あの日に佐伯さんを呼び出したのも、熱を出した私が寄りかかれるようにだったのだ。
「どうした、黙り込んで」
 考え事をしていたら、猪川さんに顔を覗きこまれた。急に顔と声が近くなって、私はどぎまぎした。
 刹那、
 ――菜揺。
 耳に、一度きりのあの呼び声がよみがえった。その破壊力に、思わず、息ができなくなる。
「顔赤いぞ。まさかまた熱出したんじゃねえだろな」
 またあの大きな掌が伸びてきて、意識しすぎた私は思わず飛びのいた。
「……ん、ああ」
 一瞬驚いたように固まった猪川さんだったけど、納得したように頷いて一歩下がった。
 私は、違うんです誤解なんですと言いたかったけど、何も言えなかった。
 大きな手が離れて残念だなんて、ちょこっとでも思ってしまったなんて事も。

<了>


novel

2012 05 10