troubleトラブル

「しろちゃ……」
 保健室のドアを開けようとして、話し声がしたのでひよりは口をつぐんだ。
 驚いたのは、生徒の声ではなかったから。
 そもそも、ここはあまり生徒が入り浸らない。群れてキャーキャー騒ぐような子はいても、志郎と個人的に親しくなろうという子はいなかった。最近小奇麗にしているとはいえ、去年はまだ不審者レベルの恰好をしていた時期もある志郎だから、その無愛想な態度も相まって不信感を持たれているのだ。加えて、新入生はまだ教師に踏み込むところまで学校に慣れていない。教師も似たり寄ったりだった。
「こんにちは」
 ひよりは声を掛けて保健室に入った。こんにちはと言うのは変だったかなと思ったが、だからといって何と言うべきかもわからなかった。
 そこにいたのは新任の音楽教諭、狭山さやまだった。若い女性で、男子にも人気がある先生だ。軽くカールした髪を、肩のあたりでまとめて緩く垂らしている。
「あら、こんにちは。えっと……」
「二年の計良かずらです。音楽の授業は取ってません」
 丸椅子に座った狭山は、ひよりの注視に気付いたのか人好きのする顔で微笑んだ。
「紙で指を切っちゃったのよ、それで念のため消毒してもらいに来たの」
 それであなたは? と言うように、狭山は軽く首を傾げる。ぱっちりとした瞳が、好奇心でぱちぱちと瞬いた。
「コーヒー飲みに来たのか」
 黙ったままのひよりに代わって、横から志郎が話題をさらった。ここ、コーヒーメーカーあるんで、と志郎は狭山に説明する。おっとりした風情の狭山は疑う様子もなく、そうなんですかと頷いている。
「ほら」
 淹れたてのコーヒーを、ひよりの好みどおりミルクと砂糖をたっぷり入れて、志郎が差し出した。ありがとうございます、と礼を述べて、ひよりはマグカップを受け取った。
 頷くように顎を引いた志郎は、狭山の前だからか、すっかり先生モードの顔になっていた。だからひよりも、おとなしく生徒モードになる。
 ひと口飲んだコーヒーを一度置いて、ひよりは棚から新たにカップを取りだした。サーバーに残ったコーヒーを注ぎ入れて、それを狭山に差し出す。
「狭山先生も、どうですか」
 あらありがとう、と狭山は受け取った。本当は居心地が悪かったが、狭山だけ除け者のように扱うのもひよりは嫌だったのだ。
 志郎が椅子を譲ったのでひよりはそこに座り、狭山と並んでコーヒーを啜るようなかたちになった。
 そのとき、ルルルと内線電話が鳴って、志郎が中座した。
 話し込む志郎の背を一瞥して、狭山は内緒話をするようにひよりの方へ身体を傾けた。
「計良さん、よく来るの? 琴並ことなみ先生、恰好良いもんね」
 好奇心からか同調からか、ほんの些細な何気ない一言だったのに、それを聞いてひよりの頬はひきつるように固まった。その頬を無理やり動かし、そうですね、と無邪気に見えるよう微笑んだ。
 先生に憧れる可愛い女生徒のように、恋に恋する思春期の少女のように。
 ――そしてその日から、ひよりは保健室に行かなくなった。


 保健室に足を向けなくなったのはそれと決めてのことではなかったが、結果的に寄りつかなくなった。
 あの日からたびたび、狭山が訪れていると聞いたからだ。
 特定の女生徒が入り浸っていると知られるのもどうかと思ったし、行ったところで狭山がいれば普段の調子で志郎と話すこともできない。
 狭山の目的は暇つぶしなのだろうか。音楽は選択制の上合同授業でもあるので、週のコマ数が少なく、結果時間があまりがちな一面はある。それとも、コーヒーが目当て。それとも。
――……」
 何かが心に浮かんだが、はっきりと形にならなくて、重苦しい気分のままひよりは溜息をついた。
 こんな気持ちのまま志郎のところに行きたくない。それに、なんだか、狭山と話すのが嫌だった。ただ先生に憧れる女生徒にしか見られなかったことが嫌だった。
 そんなことをぐずぐずと考えた挙句、もう何日も保健室に行きそびれているのだ。友人の詩穂も疑問に思っているようだが、そもそも彼女はひよりが志郎のところに入り浸るのを快く思っていない。なので現状維持だとでも思っているのか、あまり突っ込んだことは訊いてこなかった。
 廊下の自動販売機でフルーツオ・レを買い、ひよりはその場でストローを差して口に運んだ。箱をつぶしながらちゅーちゅーと飲んでいると、そこに志郎がやってきた。志郎は小銭を投入し、自動販売機から缶コーヒーを買う。
「しろちゃ……っと、琴並先生。保健室にコーヒーあるのに買うんですか?」
「うるせえな、たまに自販機の甘ったるいのが飲みたくなんだよ」
 志郎も立ち去らずその場で、パキッと缶のプルトップを開ける。ごくごくと動く志郎の喉元を盗み見て、ひよりはなんだか落ち着かなくなった。
「お前、最近来ないけどどうしたんだ」
「……別に、なんでもないです。試験前だから、勉強が忙しいだけで」
「そうか」
 先生モードのときの志郎は、あまりこちらに踏み込んでこない。授業の間の休み時間ということもあってか、コーヒーを飲み終わると缶を捨て、志郎はさっさと歩き去った。
 その後ろ姿を呼びとめたくなったが、結局、ひよりは黙って見送った。
 以前は、先生と生徒として話すのは、間に一枚布があるようでもどかしかった。早く、他の人が立ち去ってくれればいいと思っていた。そうすれば、志郎ともっと話せる、もっと甘えられると思っていた。
 それなのに最近、先生モードの志郎と話す方が気が休まる。距離を縮めたくない。
 ――そう思うのは、初めてだった。


 ガツン、と衝撃が走った。左足から、痺れるような痛みが這い上がってくる。
「いっ、たあ……」
「ひより、大丈夫?」
 帰り際に靴脱ぎで、脱いだ上履きを手に取ろうと屈んだときに、よろけて床に膝を打ち付けてしまったのだ。後ろからすぐに詩穂が助け起こし、ひよりのスカートの裾を払ってくれた。血がにじんだ膝を見て、
「保健室、行ってきな。消毒してもらった方がいい」黴菌入ったかもしれないし、この辺砂落ちてるから、と言って詩穂はひよりを送り出した。
 ここで待っている、と言ってくれたのはもしかして、ひよりに志郎との時間をくれたのかもしれなかった。
「……こんにちは」
 保健室のドアを開ける。第一声に困って、口から出たのはやっぱり無難な挨拶だった。
「どうした?」
「……転びました」
 傷を見せると、そこに座れと志郎はひよりを椅子へと誘導した。
「今日は、狭山先生、いないんですか」
 ここにいないのはわかっていたが、それでもあとで来るかもしれないと思って、ひよりは背後のドアに目を向けた。
「別に、毎日来てるわけじゃねえし。今日は――午後から用事だとか言ってたっけか。誰も来ねえから、普通にしゃべっていいぞ」
「……う、ん」
 ひよりの前に屈んで、志郎は膝の擦過傷を消毒する。ひよりは、近くにある志郎の顔を見ていた。
 狭山のような、大人の女の人は志郎のどこを好きになるのだろうと思った。志郎が昔もてていたと聞いても、女生徒にキャーキャー騒がれても実感が湧かなかったことが、狭山の存在で急に現実味を帯びた。志郎に魅力を感じる女性もいるということ。
 ――志郎は、女性と交際し得る、という単純なことが。
 ひよりは、志郎の目を見る。最近ノンフレームに替えた眼鏡を、伏せた睫毛を。そして鼻の形や、頬骨のラインを。
「ひよ? どうした、今日は大人しいな」
 志郎が顔を上げて、ひよりと目が合った。驚いて、ひよりは視線をさっと斜め上に逃がした。なんでもない、と答えた舌が、もつれるようだった。
 最近、ひよりの頭を変な問いがぐるぐる回っている。
 志郎は、女の人にどう好かれるのか。――志郎は、どんな女の人に惹かれるのか。
「ほら、終わったぞ。大丈夫か?」
 まともに言葉の出ないひよりに焦れたのか、志郎はいつものようにひよりに構いだした。――正確に言うと、椅子に座ってよいしょとひよりを膝に乗せたのだ。
 思わず固まったひよりは、抵抗すべきかと悩んだ。しかし志郎は構わずにひよりの頭を撫でている。そういえば、ときどきこういうことはされていたのだ。何故今頃になって抵抗を感じるのか、ひよりにはわからなかった。
 こうされたとき、どこに視線をやっていたのか思い出せない。どこに、手を置いていたのか思い出せない。背中の体温に身を預けることも出来ず、ひよりは完璧に固まっていた。撫でられる手にあわせて、頭がぐらぐらと揺れる。
「え――と」
 視線を横に滑らせると、すぐそこに志郎の顔があった。びっくりして身体が揺れると、ひよりの顔が志郎の頬に触れた。
 思わず、離れようとして、ひよりは志郎の膝から滑り落ちた。
 どしん、とひよりはお尻から床に転がった。何が起こったか一瞬わからず、しばし呆けてしまう。
「な――にやってんだ、お前」
 志郎は立ち上がると、ひよりを抱え起こした。無精したのか、片腕で背中から手を回して持ち上げる。ひよりの頬が、ぎゅうっと志郎の胸にくっ付いた。
 かあっと頬に血が上って、ひよりは思わず、志郎を押し返して距離を取った。そこでさすがに、志郎もひよりの様子が変なことに気が付いたらしい。
「どうした、なんかあったのか」
「な、なんでもない」
「なんでもないって様子じゃねえが」ふむ、と一呼吸置いて、志郎は思考する。「俺に、触られたくないのか」
 違うと答えようと思ったのに、身体はひよりを裏切って正直に、びくっと反応した。
――好きな男でもできたか」
「えう!?」
 思わず、ひよりは妙な声を上げた。もう撫でられていないのに、頭がぐらぐらしていた。
 志郎の思考は飛躍しすぎだと思った。なのに志郎は勝手に、一人で納得をしているのだ。
「なるほどねえ、好きな男ができたから、触られたくねえんだな。ひよ、どいつだ、教えろよ」
 ひよりの頬に熱が集まる。何故か鼻がつんとして、視界がにじんだ。
――しろちゃんの馬鹿! もう帰るからね!」
 捨て台詞を投げて飛び出すと、ひよりは保健室のドアを音がするほど乱暴に閉めた。
 玄関口まで走ると、詩穂が驚いてひよりを迎えた。
「何されたの」
 詩穂の顔が険しいのは、ひよりが半分泣き顔だったからだ。
「違う、何もされてない……あのね」
「うん」
 詩穂の声は優しい。促されて、歩きながら話した。
「しろちゃんに会いたくないの。会いたくないし、触られたくないし、見られたくない」
――警察行く? 何された?」
 詩穂の声が一段低くなった。詩穂の思考も、志郎に劣らず飛躍している。構わず、ひよりは話を続けた。
「でね……見られるの、恐いし恥かしい」
「は?」
「なんか、話すのも上手くできなくなって、なのにしろちゃん、好きな男ができたかとか言うの」
 ひどいよ、とひよりはすんと鼻をすすった。
 横を見ると、先程まで怒った様子だった詩穂が、何故か呆れたような顔をしている。
「えっと……ひよりは、琴並先生のことが好きなの?」
「前からずっと、好きだよ?」
「いや、そうじゃなくて……あんた、もしかして初恋もまだとか言わないよね? いままで好きになった男の子ぐらいいるよね? いまの話の流れわかるよね?」
「え? えっと……」
 ちょっと待て、と詩穂はぶつぶつ言い始めた。
 ひよりは、首を傾げたまま詩穂の言葉を待つ。


 夕食後、部屋で机に向かっていると、コンコンとドアがノックされた。
「はーい、開いてるよー」
 振り向かず、ひよりは答えた。部屋で勉強しているとときどき、母が飲み物を持って来てくれることがあるのでそれかと思ったのだ。
「邪魔すんぞ」
 しかし予想に反して、部屋に入ってきたのは志郎だった。
「し、しろちゃん!? なんで――
「最近、様子が変だからどうしたのかと思ってな」
 志郎であれば母は顔パスで通してしまう。まさか家に来るとは思わなかったので、母に言い含めてはいなかった。しかし、理由を言えるわけもないので、どちらにせよ防げるわけもないか――とひよりは肩をがっくりと落とす。
 志郎が来たのは、ひよりが志郎を避けているからだろう。
 触れなくなっただけならともかく、見かけても気付かない振りをしたり、廊下ですれ違っても詩穂の陰に隠れているのではさすがに、何かあったのだと思われても仕方がない。
 志郎がベッドの縁に座ったので、ひよりも椅子を離れて志郎の隣に腰かけた。
「なんだ、急な反抗期か、兄離れか? ひよりの中で完結されてもわかんねえよ」
 くしゃりと頭を撫でられた。志郎の手がひよりの頬を滑る。
 顔を上げさせられたが、目が合ったのでさっと逸らした。頬が熱い。
「どうした?」
 両手で頬を押さえられ、熱でも測るように額を合わされる。具合でも悪いのかと思われているらしい。
 目の前に志郎の顔があって、鼻の先がかすかに触れ合う。
 ――ひよりはふらふらと吸い寄せられるように、首を伸ばして志郎に唇を押し付けた。
――っ、ちょ、なにして……!」
 志郎はぎょっとしてひよりを引きはがした。白黒させた瞳に理解の色が瞬き、志郎の表情がすっと真顔になる。
 ここにきてやっと、志郎はひよりの様子が変だった本当の理由に気付いたらしい。
 知られてしまった、と思うとなんだか強気になって、ひよりは開き直った。
「前に、ちゅーしてもいいって言った」
――や、待て、あれは冗談、言葉の綾だ。するにしたって頬どまりだと思うだろ……」
 ひよりの攻勢に志郎はしどろもどろになる。
「何が駄目なの?」
「何って、だいたい、俺とお前は教師――
 志郎の言葉が止まったのは、ひよりが志郎の口を掌で塞いだからだ。
「……先生だとか、生徒だとか、そういう通り一遍の言葉なら欲しくない。そんな納まりのいい言葉で誤魔化すぐらいならはっきり言ってよ――困るって、やだって、お前なんか、要らないって……言って」
 涙がぼろぼろこぼれて、ひどくみっともない顔になっていると思った。誤魔化されてなだめられるぐらいなら、切りつけられる方がいい。
 死刑宣告のように、ひよりが次の言葉を待っていると、志郎にぎゅっと抱きしめられた。
「しろちゃん?」
「……泣くなよ、堪える。でも、どう言ったって、駄目なもんは駄目だ。……俺は、おまえの情操教育に責任があるからな」
「……ずるい」
 なじりたかったし傷つけられたかったけど、やっぱり、志郎の腕の中は心地が好かった。
「ばーか、しろちゃんなんて嫌い」そう言いながら、ひよりは志郎の首に抱きついた。
「本当に本気なら、自分で責任取れる歳になってから来い。――それまで、待てるならな。だいたいお前、もっと若くていい男いくらでも探せるだろ。何を好き好んで、こんな歳の離れたおっさんなんか」
 志郎はまだ二十代後半だ、おっさんというほどの歳ではない。でもそれは、志郎の自虐なんだということはひよりにはわかっていた。
――だって、欲しいのは、しろちゃんだけだもん」
――っ!」
 ひよりの言葉を聞いて志郎は絶句し、その大きな掌で口許を覆った。うっすらと頬が紅潮し、目が左右に泳いでいる。
「……お前な、ときどき、天然で俺を口説くのやめてくれ」
「なんのこと?」
 ひよりはわからずに首を傾げた。
「……深く考えなくていい」
 溜息の理由が気になったが、頭を撫でられたのが嬉しくて、ひよりはそれ以上気にしないことにした。

<了>


「simple」へ
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2013 08 06