月夜酒

 その夜は、満月が綺麗だった。
 月を眺めていると酒が飲みたくなり、風花ふうかは会社帰りに焼き鳥屋ののれんをくぐった。
 カウンター席で串を平らげながらちびりちびりと飲んでいると、後ろから男に声を掛けられた。出入り口の方向ではなかったので、四人掛けの席で飲んでいたものと思われる。
「姉ちゃん、お一人?」
 頭悪そう、という感想を持ったきり、風花は返事をしなかった。コップの酒をもう一口、あおる。
「なあ、姉ちゃん」
「うるさい」
 何度も呼びかけられても迷惑だ、とりあえず反応は返したが、風花は意地でも視線を相手に向けなかった。それが悪かったのか、しつこい男は風花の隣に席を取る。
 そうくるとは思わなかった。ここは徹底的に無視する方がいいのか、それともきっぱりお断りする方がいいのか。悩み始める風花をよそに、男はさらに呼びかけてくる。
「おねーえちゃん」
「……」風花の眉間に皺が寄る。
「風花姉ちゃん」
 ハッとして風花は相手を振り向いた。知り合いだったのか。そう思ったが、見上げた顔は、知り合いの誰とも思えなかった。良く会う友人ではない、久しぶりの同級生かとも思ったが覚えにない、もちろん職場の人間でもない、取引先の、とも思ったがそんな奴は社会人として失格だ。
 風花の眉間の皺が深くなった。
「あれ、俺のこと、わかんない?」
「なんだあ、雪太せった、ナンパ失敗?」
 進まぬ問答の横合いから、彼の友人らしき人物が現れる。そのときにやっと、風花はこの男が誰なのかを知った。
「セッちゃん!?」
 驚く風花に、おうともよ、と雪太は芝居がかった笑いを見せた。


 雪太は、風花の二つ年下の幼なじみだ。
 といっても家が隣同士だったわけではなく、ベタベタに仲が良かったわけでもなく、数いる幼なじみ集団の一人だった。端的に言えば、小学校の登校班が同じだったのだ。
 風花の方が年上だったこともあり、世話焼きの姉と手のかかる弟のような組み合わせだった。とはいえ、それは年長者が卒業して風花がその役割になってからはっきり定まった関係だったので、それまでは集団の一員としては付き合っていたが一対一ではそれほど仲が良いわけでもなかった。
 卒業前の二年間はかなり世話を焼いてやった覚えがあるが、中学と高校は一年間しか在校期間が被っておらず、高校卒業後は会ってすらいない。そんなものでよく、現在の私を見分けられたものだな、と風花は妙に感心する。
「セッちゃんももう、社会人になったのかあ」
 自分だってそんな歳だから当たり前なのだが、風花は雪太の背広姿を見ながら息を吐いた。そんな風花を見て酒を流し込みながら、「そうだよ、もう二年目」と雪太は微笑を浮かべる。
 女は変わると言われるが、自分たちの場合は逆だな、と風花は思う。あまり化粧っ気のない風花は、しばらく会っていない雪太にあっさり見分けられるほど、顔が変わっていないのだろう。一人でこんな店に入っているのを見てもわかるとおり、サバサバしすぎる性格の所為で、自分を変えてくれるような彼氏の一人すらいないのだ。
 翻って雪太は、風花の目から見れば大きく変わっていた。背は高校のときには風花を追い越していたのだが、いまは当時よりももっと伸びたようだし、体格もしっかりしているようだ。野球少年だった証の坊主頭も、いまは普通の短めの髪型だった。目元は変わっていないと思うが、顔つきも全体的に大人びたようだ。
 社会人になった所為なのか、なにより、落ち着きが身についていることに風花は驚いた。
 ――うーん、人は変わる。
 とはいえ、弟分が立派に成長したことには喜んでもいた。
 同席していた雪太の友人二人は陽気で、酒を酌み交わすにはまあまあ良い相手だった。初対面の癖に風花さん風花さんとベタベタしてきたのには閉口したが、酒の席でもあり、深刻なセクハラに発展したわけでもなかったので、そこは鷹揚に流せた。
 それなりに酒の席を楽しみ、終電の時間が来る前に、四人はさっさとお開きにした。大学生の頃とは違い、社会人には次の日の出勤時間をずらせるという自由などないに等しい。
 家の方角が同じということもあって、自然と雪太が風花を送っていくことに決まった。
 店を出ると、ほろ酔いの頬に冷たい風が気持ち良かった。
「うーん、飲みすぎたかな?」
 風花の足元が少しふらついた。一人で店に入るときは、多くても三杯程度しか飲まず、食事を終えて八時には店を出ていることが多い。今日はもう十一時を回ろうとしている。会話をする相手がいればやはり長っ尻になるな、と当然のことを当然のように思った。
「大丈夫か、姉ちゃん、つかまってもいいけど」
「ああ、うん、いいわ」
 腕を掴まえてくれた雪太の手をゆるく振りほどいて、風花は笑った。こういうところが可愛くない、と自分でも思う。
「……悪かったな」
「え? 何が?」
 雪太の謝罪に、わからないふりをしているのではなく本当に疑問に思って、風花は訊き返した。
「あいつら、馴れ馴れしくて」
「ああ。そうだね、馴れ馴れしかったね」
 風花はさらっと返す。そんなことないよ、と笑って言うタイプではなかったし、雪太に対して気を遣う必要もないと思っていた。
「うん、でも本気で嫌だったら殴ってたよ。ま、たいしたことされてないし、いいじゃん、男前だったし」
 最後の一言は冗談で付け加えたのだったが、それを聞いて、雪太の機嫌が急降下した。
「……むかつく」
――は、あ?」
 思わず足を止めた風花の手を、乱暴に取って雪太は歩き出した。
「どしたの、セッちゃん」
 どこが地雷のスイッチだったのかわからん、と思って雪太の顔を見ると、彼は急に激昂したような顔ではなく、ふつふつと煮えたぎる怒りを抑えるような顔をしていた。もしかして、もうずっと前から怒っていたのだろうか、と風花は思う。
――あいつら、遠慮なく名前呼んだりベタベタしたりして、それに文句を言わない姉ちゃんにもむかつく」
 なんだか、変なところに怒っている。そもそも、友人たちと居るときに自分に声を掛けたのは雪太だろう、と風花は息を吐く。
「だいたい、男前だからいいじゃん、ってなんだよ。年下には興味ないんだろ」話が飛んだ。
「それ、学生のときの話でしょ。この歳になったら、社会人てとこさえクリアしてくれたら歳はちょっとぐらい気にならないって」
 雪太はこっちを見なかったが、手の力がぎゅうと強くなったことは感じた。
「馬鹿野郎。――俺が、俺が、どんなに」
 雪太は声を詰まらせる。
「セッちゃん、落ち着いて。とりあえず、どっか座ろう?」
 どんどん感情的になっていく雪太に焦って、風花は近くの小さな公園へと雪太を誘導した。自動販売機で缶コーヒーを買って、雪太をベンチに座らせる。
「何を心配してくれてたのかわかんないけど、セッちゃんってそんなに過保護だった?」
 昔は私の方が世話焼いてたのにね、と笑う言葉も終わらないうちに、風花は腕を引かれて雪太の腕の中に飛び込んだ。雪太の膝に乗せられ、そのままぎゅうと抱き締められる。
「ちょっ、セッちゃん?」
 慌てて押し返す相手の胸は、離れなかった。
「俺は、ずっと、姉ちゃんを追っかけてた」
 雪太は言った。
 最初は、ささいな気持ちだった。悪ガキでいれば、構ってもらえて世話を焼いてもらえた。みんなから頼られて好かれている年長の風花に、目を掛けられているのが心地好かった――たとえ、悪さをしないように見張られていたのだとしても。風花が卒業して居なくなった途端、自分が風花の存在を強く欲していたことに気が付いた。それからは、悪戯など味気なく詰まらないことに思えてやめてしまった。
 雪太が風花に再会したのは、中学に入ってからだ。もちろん、同じ学校であることは知っていたし、会えると思っていた。しかし、初めてのきっぱりした上下関係の社会に、雪太は圧倒されてしまったのだ。一年生にとって、三年生とは雲の上の存在で、たとえ部活の用事だとしても、彼らの厳かなるフロアに足を踏み入れるのは勇気が要った。そんな学校生活にどうにかこうにか慣れたときにはもう、風花は受験勉強で、雪太の相手をしている暇などなかった。
 高校のときは、もっと、最初は楽だった。一年生と三年生の壁は中学ほどには高くなく、風花にも気楽に会いに行くことができたのだ。しかし、受験の夏は、中学の頃よりもっとずっと早くやって来た。大学という、当時の雪太には想像もできない先を見ている風花が、違う世界に居るように見えた。
 大学は同じにはならなかった。もういい加減潮時だということに気が付いていた雪太は、風花を忘れることにして別の女の子と付き合い始めた。大学の間に三人と付き合ったが、最後の彼女も卒業と同時に自然消滅してしまった。新生活もあるし、しばらくは独り身でいるかな、と思ったとき、ふと風花のことを思い出した。あまりにもまざまざと思い出してしまったことに、雪太は動揺した。
 届かない背中を、いつまでもいつまでも追わなければいけないのか、と歯噛みしたのだ。それから結局、新しい恋人を手に入れる気にはなれなかった。
 ――と、そんなことを、隅々まで雪太は吐露した。
「今日姉ちゃんを見つけて、俺がどんなに嬉しかったか、わかんないだろ。年下でもいいってんなら、それが俺だって構わないだろ、なあ」
「ちょ、お、セッちゃん、落ち着いてー!」
 雪太の熱っぽい声は激しく、腕の力はますます強くなる。
「……姉ちゃん、キスしていい?」
「ちょ、耳、耳元でしゃべんないでー!」
 ぜーはーと攻防を繰り返し、風花はやっと雪太を落ち着かせることに成功した。「わかった。困らせたくない」という雪太の返事に、少し胸がちくりとはした。
 これでひとまず、と風花は雪太から離れて息をつく。しかし、これから同じ電車に乗り、同じ道を並んで帰らなくてはならないことに気づいてぎくりとした。その前に、社会人の(さが)で終電がまだあるか腕時計を確認することも忘れなかったが。
「……あの、さ、逃がした魚は大きいというか、会わない間に美化してたりしてない? 案外、こんなものかって、さっさと飽きるかもよ」
 失礼な物言いだということは承知で、風花は雪太にそう言った。自分がそんなに大それた人間ではないという自覚があった所為もある。
「それでもいい。それでもいいから……飽きるまで付きあってくれよ」
 息を吐きながら雪太は立ちあがった。飽くまで諦める気はないらしい。
 そんな雪太にほだされたのか、風花は嫌だということができなかった。
 ――だいたい、ここでどう言おうが、この縁を断ち切れないことはわかっていた。お久しぶりです、と家に来られたら、母親が玄関から上げてしまうに違いないのだ、と思ってしまうところが風花たる所以ゆえんなのかもしれなかった。
 溜息とともに見上げた空は、相変わらず月が円く光っている。

<了>


novel

2011 11 30