トライアングル

 雨が降っていた。
 廊下には、水を踏んで汚れた足跡が、いくつにも乱れて重なっている。上履きの底のゴムがキュッキュッと音を立てる。冬の入口に入ろうとする季節の廊下は、ひどく冷えていた。
 滑らないように寛崎かんざきは注意深く爪先に力を入れる。
 そんな寛崎の隣で、一人の女生徒がすっ転んだ。正確には、すっ転びかけた、だ。
 驚いて咄嗟に差し出した寛崎の手が、その女生徒の腕をつかんでいた。引きずられて自分も転んでしまわないよう、寛崎は彼女を自分の胸元へと引き寄せる。
「無事か、香坂こうさか
「……うん」
 驚いたままの声音で、香坂は小さく頷いた。そのあと、気がついたかのようにはっとして、寛崎の胸を押しのけた。
「あ、た、助かったありがと……!」
 早口に礼を述べると、香坂は目当ての教室へするりと入っていってしまった。
 その後ろ姿を見送ってから、寛崎も止まっていた足を動かす。
 最近の寛崎は、香坂のことが気になっている。いつからだったろうか、考えるまでもない。二学期最初の中間試験、そのテスト前期間のことだった。
 寛崎はよく、秀才の林田はやしだに試験対策を請うているが、今年同じクラスになってからは、香坂もそれに加わるようになった。
 その日の放課後、三人はいつものように試験対策に勤しんでいた。用があった寛崎が席を外して戻って来た時、場の雰囲気は一変していた。
 ドアを開けた途端に飛び出してきた香坂、困ったように立ち尽くす林田。林田の鉄壁の笑みに、なにがあったか話す気などない、ということを悟った寛崎は、香坂の方を追いかけた。追いついて何をするというでもなかったが、泣いていたかと思ったのだ。一瞬で、はっきりと確信はできなかったけれど。
 追いついた先で香坂を振り向かせると、彼女はにっこりと笑った。
「なんでもないから気にしないで。ごめん、先に帰っててくれる?」
 寛崎は、頷くことしかできなかった。
 明らかに、こすった涙の痕がある頬を晒して、それでも香坂が微笑んだのは訊かれたくないからだ。その笑みで、部外者の寛崎と線を引いたのだ。
 それを悟って、ひとつ間違えれば泣きだしてしまいそうな香坂を、後ろ髪を引かれる思いで寛崎は置いて帰った。
 それから寛崎は、香坂のことが気になっている。
 なんとなく、三人一セットに思い始めていただけに、林田と香坂の間には、自分が踏み入れられない領域があるということを、改めて思い知らされた気分だった。


「あれ、今日は香坂も当番?」
 寛崎が体育の授業で使ったハードルを体育準備室へ運んでいると、香坂がバレーボールの入ったキャスター付きの籠を引きずってやってきた。
「あ、そうそう、今日は男子も外授業かー」と言って香坂は笑った。
 埃っぽい準備室の中に最後の一つを運び込んで、寛崎は振り向いた。「香坂、手伝おうか?」
「あー、うん、いいよ。もう終わりー」
 香坂が答えた途端、ガツンとなにかにぶつかった音がして、ふぎゃっと叫び声が上がった。
「こ、香坂?」
「いたぁ……」
 振り向いた拍子に足をぶつけたらしく、香坂はマットレスの上にボスンと体を投げ出してうずくまる。肩まである髪が、さらりと広がった。
「おい、大丈夫か」
 驚いて寛崎が顔を覗き込むと、香坂は何かにびっくりしたような顔をして、さっと半身を起こした。
「だ、だだだ大丈夫でーす」
「嘘つけ、どこだ」
 脛を押さえているのでその辺りかと、寛崎は香坂の足を見た。短パンから伸びた脚は、普段の制服姿からは見ることのできない太腿を惜しげもなく晒している。この近距離で女子の脚を拝む機会のない寛崎は苦労して視線を外し、目の前の白いふくらはぎにそっと手を添えた。
「どの辺だ?」
 香坂はまたふぎゃっと小さく叫んで、寛崎を突き飛ばすようにした。
「いいっす、オッケーっす、治ったっす!」
「……なんだ、その喋り方は」
 とりあえず大丈夫だと判断して、寛崎は香坂に手を貸して立たせた。
 平気ならそれに越したことはない。寛崎とて、香坂に妙な気分を抱くのは望むところではない。
 ――香坂が好きなのは、林田なのだから。
 もともと、香坂が寛崎に近づいてきたのは林田と仲良くなる繋ぎを作るためだった。踏み台にされるようで気分が悪かったし、友人の林田にそんな女を近付けるのも業腹だったので、最初のころは寛崎の態度もなかなかに刺々しかった。
 しかし段々と仲良くなるとまあいいか、という気分になり、その辺りの線引きはだいぶ曖昧になってしまった。寛崎も寛容になって、思い出したように林田と香坂が二人になれる機会を作ってやったりした。
 そのうち、香坂も寛崎を添えもの扱いするのをやめて、三人セットでも文句を言わなくなった。そんな矢先にあんなことがあったから、しばらくはぎくしゃくするような気分を味わったが、取り繕うのが巧い林田と香坂の両手腕により、表面上は元のとおりになっている。
 ただ、あれ以来、香坂は林田とのことを寛崎に頼むことをやめた。


 一転、期末試験前である。
 どうなるかと寛崎は危ぶんだが、結局はまた三人で机を囲むこととなった。
 今回は香坂が途中で席を外し、寛崎は上手い具合に林田と二人きりになったので、気になっていたことを訊いた。
「なあ、ほんとはあのとき、何があったんだ?」
「あのとき?」
「おまえが香坂を泣かせたときのことだよ」
 思い返す素振りを見せなかったところを見ると、林田は寛崎が何を言いたいのかをわかっているようだった。
「僕が? ……まあ、結果的にはそうなのかな。寛崎は、何があったと思う?」
 林田の笑みは、事情を飲み込んでいない寛崎をからかうかのようだった。それに少しむっとしつつも、寛崎は答える。言いにくい――言いたくない言葉を舌に乗せるのに、多少苦労した。
「……おまえが、香坂を振ったんだと」
「あー、やっぱり? 寛崎、そう思ってたんだ!」
 確たる解を言わず、林田は妙にはしゃいだような声を出した。どうやら、面白がっているらしい。「逆だよ、逆!」
「逆、って……」
「僕が振られたの!」
 え、と言葉がこぼれて、寛崎の思考はしばし停止した。
「……なんでそうなるんだ」
「告白したら、香坂も色よい返事をくれようとはしたんだよね。でも、どうしても言えなかったの。言えないまま、香坂は泣きだしちゃった」疑問を口にしようとする寛崎を眼で制して、林田は流れるように言葉を紡ぐ。「だから言ってやったの。言わなくていい、君が他の人を好きなことは知っている」
「え、だって、香坂が好きなのは林田――
「うん、本人もね、僕に言われるまでそう思ってたみたい。自覚なかったんだね」
 え、とさらに寛崎の混乱は深まる。淡々と語る林田に、自分だけが翻弄されていたような気がして、寛崎は妙に腹が立ってきた。だいたい、なんでおまえがそんなこと知ってるんだ、と詰め寄ると、
「だって僕、恋してる香坂が好きだったんだもの」にっこりと、笑んで林田はそう言った。「ちなみに本命が誰かってことは香坂本人に訊いてね」
 林田の笑いを含んだ目線に、はっとして、寛崎は振り向いた。
 開いたドアの先に、香坂が立っていた。両手で口元を覆い、肩がふるふると震えている。
「は、林田くんの馬鹿ー!」
 捨て台詞を放って、香坂は駆けだした。寛崎は思わず、慌ててその後を追う。
 追いついた先は、屋上だった。既に開かれていた扉から後を追うと、びょう、と冷たい風が吹きつけた。
 扉を閉め、寛崎はもう逃げ場のなくなった香坂をあっさりと捕まえた。
「……香坂。話の続きは?」
「つ、続き?」
 しらばっくれようとする香坂の頬を両手で捉え、寛崎は上を向かせた。
「俺に、教えてくれるの?」
 もしかして、と思ったがやっぱり、寛崎が触れても香坂は嫌悪を現さない。寛崎の手が頬を固定しているせいで、香坂は表情を隠せず、目線を泳がせることしかできなかった。
「……顔、赤いぞ」
「こ、これは寒いの!」
 自分で外に逃げたくせに、と寛崎は苦笑を返した。恥ずかしさからかそれとも怒りか、香坂が身をよじって逃げようとするのを寛崎は逃がさない。じっと見つめると、香坂の目元はますます赤らんで、じんわり涙目になった。
 やべえ、キスしてえ、と思ったが、それはさすがに一方的に過ぎるかと、寛崎は耐えた。
「で、誰が好きなの。俺?」
「し、知らない知らない」
 ふうん、と寛崎は息を吐く。否定にもなっていないことに、既に寛崎は気付いている。
 そうして、さて、どうしてやろうか、と寛崎は口の端を引き上げた。

<了>


novel

2010 10 26