ワンダーランド・プロジェクト

 そのとき、私は、住み始めて一年と数ヶ月の棲家、アパートの一室に帰るところだった。
 左手にガードレールのある、坂の道を、山の上にかけて黙々と歩く。
 車通りが少ない真夜中だけど、たまにパアッとライトが足元を照らし、雨上がりのアスファルトをシャアッと音を立てながら車が通り過ぎる。
 坂の下のコンビニで買ったものを入れたビニール袋が、がさがさと音を立てて時折私の足にぶつかった。ひんやりとした冷たさがジャージ越しの足を伝い、手元の重みに加え、ビールは二本で良かったかなと私は小さく息を吐いた。
 勤めていた会社が潰れてしまったばかりで、この日から立派な失業者になってしまったとあって、なんだかぱあっと飲みたくなってしまったのだ。加えて、自分の身なりに気を遣う気力も湧いてこなかったため、私はかなりひどい格好をしていた。
 背中のあたりまで伸びた髪はゴムで後ろ一本に縛り、着ているものは部屋着用のジャージで、おまけにすっぴんである。そもそも、坂を降りるのに十五分近くかかるとはいえ、このあたりの生活に慣れた私にとっては、完全に「ご近所への買物」気分の距離だ。コンタクトレンズを入れる気分にもなれず、ぶっとい黒縁眼鏡が鼻の上に乗っかっている。
 春先の冷たい夜風が、びゅうびゅうと私の頬を撫でた。
 車どころか、このあたりは人の姿すらほとんど見かけない。妙な静けさが漂っていて、風の途切れた瞬間の凪には、電柱の切れかけた灯りがちかちか瞬く音すら聞こえそうな静寂が訪れる。
 そういえば、この山の上の大学には妙な怪談がはやっていることを思い出した。中学校での七不思議は多いが、大学で囁かれる怪談は珍しいな、と思ったので覚えている。もっとも、サークル単位ならどこの大学でもあるのかもしれないが。
 怪談というより、ここのは、神隠しに遭ったという噂がときおり流れるのだったか。
 そんなにほいほい人がいなくなってたまるもんか、と思ったとき、カーブの向こうから、先行して車のライトが道路を走った。
 あっと思ったときには、目の前に巨大なトラックが現れ、舞台のライトのように私を照らした。
 私は咄嗟のことで避けることもできずに、馬鹿みたいに棒立ちになっていた。
 派手なクラクションとブレーキ音。衝撃と白い閃光。
 そして、なにもわからなくなった。


 次に気づいたとき、私が居たのは青い部屋だった。
 私は、誰かに突き飛ばされたかのように斜めに倒れ、床に叩きつけられた。
 その折、ぶつかった台のようなものが倒れて、その上にあったボール状の物が吹っ飛んだ。それは透き通った玉で、光に当たってきらきら煌めきながら弧を描いた後、容赦なく床に落ちた。バアン、という音と衝撃とともにそれは粉々になった。細くとがった欠片が、きんこんと音を響かせて床に落ちる。どうやら、ガラス玉か水晶玉かなにかだったらしい。
 こちらの方にもちりんちりんと落ちてきた欠片を見ながら、私は気付いた。床は大理石だ。薄いマーブル模様が広がっており、部屋が青く見えるのは、青いライトを床が反射しているからのようだ。
 ぼんやりとそう思ったとき、呆気にとられていたかのように止まっていたその場の空気が、ざっと動いた。それは途端に質量をまとい、その場にいる人間の気配を色濃くする。
 わあわあと人が叫び出して、私はあっという間に取り囲まれた。
 白いずるずるを着ている人が多い。儀式の服とか何かの正装とかっぽい気がする。
 この衝撃で弱った頭と、ファンタジー小説で得た実生活には何の役にも立たない知識を総動員して考えた結果、どうやら私は突然この場に現れて、そして何やらの儀式を邪魔してしまったらしい、という結論に達する。
 答え合わせができないのは、言葉が通じないからだ。何を言ってるんだろう、この人たち。
 少なくとも、さっきいたところから突然ここに移動してしまったこと、周りの人たちの雰囲気や服装が現代にそぐわないこと、この二点から異世界トリップというやつに間違いはないだろう。
 もしくは夢だ。私の現実感はトラックに撥ねられた、というところで止まっている。衝撃は感じたが、実際に痛いところはないので無傷らしい。やっぱり夢かな。あまりにも現実感がなさすぎる。
 のろのろと上半身を起こして、さて、どうやったら夢から覚めるかな、と一息吐いたとき、白い集団の中から、毛色の違う黒い服を着た人がかつかつとこちらに近づいてきた。
 ずいぶんとでっかい男の人だ。身長だけなら日本人にもいる高さではあるが、体格はちょっと身の周りにはいないレベル。腰に剣を吊るし、黒い詰襟を着ている。騎士様とか護衛とか、そういう職業の人かな。
 そう思った瞬間、私はその騎士様に後ろ手をとられ、再度床に叩きつけられた。ほとんど地べたに座っている格好からだったから勢いは小さく、そこまでの痛みはなかったが、屈辱的だ。衝撃で眼鏡が吹っ飛んでいってしまった。途端に、視界がぼやける。後ろで組まれた手を、体重を掛けて押さえつけられ、思わず私は悲鳴を上げた。
「いたたた! 痛い! 痛いです!」
 誤解だ、とか不審者ではない、とか訴えたかったが、言葉が通じないのでは仕方がない。状況的に一番理解しやすいだろう痛みを訴えてみたが、じたばた暴れた所為で敵意を持たれたのだろう、首に強い衝撃を感じた瞬間、私の意識は、テレビの電源を消すようにぶつりと途切れた。


 次に目が覚めたときには、暗くて狭い場所に居た。
 なんとなくじっとりと湿気ていて、きんきんに冷えた床の冷たさが、防寒という意味で役立たずのジャージから、じんわりとにじり寄って来る。これは確実に、寒さから目が覚めたのだと思う。
 私、床に頬ずりする趣味はないんだが。今日は床との交流が多いなあ、と思いながら私は身を起こした。申し訳程度にかけてもらっていたらしい毛布を、床に敷き直して私はその上に座りなおす。
 目の前にある、等間隔に並んでいる縦長の細い鉄柱は……どう見ても鉄格子だ。
 どうやら、牢屋に入れられてしまったらしい。
 どうせ失業したところだし独り身だし、無気力の極みにいた私は、十代の娘のような生命力も持ち合わせておらず、現状を打破しようと暴れてみるだけの情熱も持たず、ただもう面倒だから成り行きに任せようかなと思っていた。もちろん、痛い目に遭ったりするのは嫌なので、そういう展開が訪れたときは、遠慮なく抵抗するぐらいの心づもりで。
 だいたい、開けようにもこの鉄格子、諦めてくださいと言わんばかりの雰囲気を怪しいばかりに振り撒いている。
 出入り口になっている扉一面に、青白い光が、ぱりぱりと音を立ててまとわりついているのである。触ったら電気ショックででもやられそうな気配がしていて、おいそれと近寄れない。
 なんだか、まあ、予想はしていたけど、ここは魔法とかそういうのがある世界なんだろう。
 夢である可能性も、まだ捨てたわけではなかったけど、夢の中で気を失うというのはちょっとなさそうな気もするし……考えるのが面倒になって、私は思考を放棄した。
 そのとき、奥の方から、カツーンという音が反響して聞こえてきた。カツーン、コツーン。ちょっと聞いてすぐに、それは響き渡る足音だと理解する。ということはあっちは奥ではなく入口か。
 低い話し声もするが、ぼそぼそとしゃべっている上に言葉尻が反響して何を言っているのかわからない。
 ほどなくして、私の目の前に、二人の男性が現れた――正確には、牢屋の扉の前に。
 一人は、白い髪の老人、もう一人は護衛役っぽいでかい男だ。
 老人の方が、一歩、扉に近づいた。それを見て、男の方が慌てて制止する。
「閣下。危険ですから近寄らないでください」
「なあに、まだ子供だ。それに、いつまでもこんなところに押し込めておくのも可哀相だろう」
 老人の言葉に、私はぱちくりと目をしばたたいた。おお、異世界トリップのお約束だな。つまり、日本人は若く見える! しかしこれ、何歳ぐらいに見られるかによって、喜ぶべきか屈辱を感じるべきか悩むところだ。高校生ぐらいに見えていればまだ可愛げがあるけど、私の実年齢は二十四だ。それ以下に見られているとしたら、成長の仕方をちょっと嘆く必要があると思う。
「君だってこんなところから出たいだろう」
 私に視線を合わせるように、老人はちょっと屈んで微笑した。驚きつつも、私は目線で小さく頷く。
 すると老人は軽く手を振るようにして扉に触れ、青白いぱりぱりを解除してしまった。
「閣下!」男が慌てたように声を上げる。
「心配要らんよ。もう定着している。その証拠に――君、私の言葉がわかっているだろう」
 私は首を傾げたが、キィッという音とともに扉が開いたので、はっとして強く首を上下に振った。
 突然のことで驚いて声を出すのを忘れたが、ちょっと失礼だったかもしれない。
「まあ、少々状況を説明するから、付いてきなさい」そう言うと、老人は背を向けて元来た道を歩き出し、一度だけ振り返った。「私は先に行っているから、この子を着替えさせてやりなさい」
「は、かしこまりました」
 男は老人に一礼してこちらに向き直った。
「おい、坊主、仕方ねえから付いて来い」
 おい。年齢云々どころか、女と認識されてないではないですか。確かに、女捨ててる格好をしてるこっちも悪いけどさ、年齢詐称に加えて性別詐称までする破目になるとは。
「はいはい」
 なんだかこの態度の悪い男には、丁寧に接しようという気が起こらない。私はおざなりな返事をして、よろよろと立ち上がった。


 暗くてじめじめした場所から出られて、やっと人心地ついた。
 燦々のお日様とは、久しぶりにご対面したような気がしてしまう。
 前をのしのしと歩く男の背を見ながら、私は顎に軽く手を当ててふむと頷いた。
 この背の高さと体格の良さ! 醸し出す雰囲気から、日本にいたら絶対、こいつのあだ名は決まっている。
「熊さん」
 思わずぽろりと口から単語がこぼれると、男はさっと振り向いて私を睨み付けた。熊さんと気安く名付けるには態度が刺々しすぎる気もするが、妙な隙がありそうな気がするのも確かである。そのちぐはぐさが、熊さんと呼ぶにふさわしいではないか! やはり、こいつは熊さんである、と私は結論付けた。
「おまえ、いま、熊と呼んだな。この、端整な顔立ちを捕まえて、なんてぇ言い種だ」
「それはどうも。なにしろ、あなたのお名前を存じ上げませんもので」
 涼しい顔で私は答えたが、脳内でごちゃごちゃ遊んでいたところに、割り込んでくるとは思いもしなかった。だいたい、精悍な顔立ちだとは認めるが、端整というには厳しいお顔である。まあ確かに、熊さんと呼んでしまうには少し、顎がシャープすぎるかもしれない。その上、彼の身長体格がこの世界では標準なのだとしたら、熊と呼ばれて不愉快であろうことも認めざるを得ない。
 だがしかし! 私はこの世界の事情など知らないし、自分の感性の赴くままにあだ名を付けることぐらいは許されてしかるべきである。つまり、こいつの事情を酌量する必要などなくていいだろう。
「アレクセイだ、アレクセイ」
 私の脳内で妙な論理が繰り広げられているとはつゆ知らず、苦い顔で熊さんは自分の名前を教えてくれた。
 明るい場所でよくよく彼の顔を見て、私は思わず、あっと声を上げるところだった。
 誰あろう、こいつは、私を床に叩きつけた上に気絶させた奴じゃないか。くそう、素直に言うことを利くと思うなよ。
「そうですか。私は光里ひかりと申します」ぺこりと私は頭を下げた。「では参りましょうか、熊さん」
「おまえな」
「申し訳ありませんねえ、長い名前は覚えられないもので。よろしいんですか熊さん、こんなところでぐずぐず油を売ってると、閣下という方に叱られてしまうんじゃないでしょうか」
 むっとした熊さんはしかし、やっと口を閉じて歩を再開した。
 よしよし、とりあえず一本取ったぞ。しかし、勝ち誇っていいことなんだろうかこれは。
 案内された個室で、用意された着替えを取り上げてみると案の定、男物だった。
 シンプルな上下で色はブラウン系、タイとベストがそろっている。なんというか、使用人見習い、みたいな雰囲気だと思うのは気のせいだろうか。下はゆったりめだし、がちゃがちゃ装飾の付いている服ではなくずるずるしたみっともない服でもなかったので、ほっとした。
 もちろん、熊さんは部屋の外で待っている。ガキの着替えになんぞ興味はない、と言っていたが、むこうはこっちを男だと思っているのだからそりゃ興味はないだろう。
 待たせて、怒られるどころか部屋に入ってこられても困るので、私は手早く着替えを済ませた。贅沢を言えばお風呂に入りたかったけど、この際仕方がない。
 髪はいったんほどいて軽く手櫛で整えてから結び直し、仕上げにクロスタイを首元に留めた。
 よしよし、一丁上がり。
 それでは参りましょうか。


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