交点ニ至ル

「持ち込みありって言ってたから、悪い予感はしてたんだ!」
 まさか論文形式なんて、と嘆く友人たちと会話しながら私は大学の校舎を出た。
 今日は前期試験があったのだ。必修科目以外は、中学や高校時のテストのように、穴埋めや記号選択の問題があったので油断していたらしい。論文形式では付け焼刃の勉強では歯が立たない。
 私は、よく講義で一緒になる、女の子二人、男の子二人と一緒にグループで行動していることが多い。今日はそろって試験を受け、先ほど終わったので帰るところだった。
 入口前にある短い階段を降りていると、短いメロディーが耳に届いた。
「あ」と私は、鞄から取り出した携帯を握りしめて小さく声を上げる。
 携帯のメール着信音と共に、ディスプレイに表示されたのは小太郎の名前だった。
「えっ、えええ」
 足を止めてしまった私を、友人たちが怪訝そうに振り返る。
「どうしたの、すずな」
「門に居る、って。え、ここのこと?」
 答えず今度は、いきなり走り出した私に、友人たちがおいおいと声を掛けながら追ってくる。
 友人たちには悪いけど、驚きと戸惑いと、それから嬉しさと、早く確かめたい気持ちで駆けだした私の足は止まらなかった。
 正門のところでちょっともたれるような恰好をしてこちらを振り返った背の高い男の子。
「小太郎ちゃん、待った?」
 私は足を止めずに、そのまま彼に飛びついた。
「待ってない」
 小太郎らしいそっけない口調で返されたが、見上げると口の端が少し上がっているのが見てとれた。
「小太郎ちゃん、学校は?」
「大学以外はもう夏休み入ってる。忘れてんのか」
 去年まで高校生だったくせに、と言いたいらしい。そういえばもう、八月に差しかかっている。
「知り合い?」
 そのとき、やっと追い付いた友人たちが、息を切らせながら声をかけた。
「姉がお世話になってます」
 小太郎がそう答えたので、みんなは納得したようだ。へえ、似てないねえ、という目で私たちを見る。
 なんだか変な感じだった。この場には男の子もいるのに、小太郎が一番背が高い。客観的に、小太郎が一番年上のように見えるだろうと考えたら、ちょっとおかしかった。
「小太郎ちゃん、いくら休みだからって急に来なくても……私が大学にいなかったらどうする気だったの?」
「そのときは、家に行きゃいるだろ。行き違ってもケータイがあるし」
「そ、そうだけど……」
 むう、と私はおし黙った。来るなら来ると言ってほしい。
「急に会いたくなったとか。もしかして弟くんって、シスコン?」
 友人がにやにやしながら口を挟んだ。どことなく揶揄のニュアンスを含んでいて、私は小太郎が機嫌を損ねないかと危ぶんだ。同時に、友人の物言いにちょっと腹が立った。
 でも小太郎は怒ったりはしなかった。
「否定はしません」さらりと言って、私の手をとった。「帰るぞ、すずな」
「えっ、え」
 混乱しつつ、私は友人たちの群れから連れ出された。


 小太郎とこうして会うのは久しぶりで、私の気分は高揚していた。
 ゴールデンウィークに一度帰省したが、三ヶ月も小太郎に会っていなかった。今年は小太郎も受験生だから、電話やメールも満足に交わしていないのだ。
 積もる話もあったので、喫茶店に寄ってしばらく居すわった。頃合いに買物をして、それから帰って来たところだ。鍵を開け、私は小太郎をマンションの自室に招き入れた。
 一緒にカレーを作って食べ、後片付けが済んだ後、私は小太郎と並んでソファーに座りテレビを見ていた。夏だからということで心霊特集をやっていたが、怖かったのでテレビの音量を少し落とした。クッションを両腕に抱いた私の耳に、時計の音が、カチ、カチと聞こえる。
「今日は泊っていくでしょ?」
 私はもとよりそのつもりだったが、確認のために口にして隣を振り向くと、小太郎は呆れたように息を吐いた。
「ま、いいけどな……」
「なあに、その態度ー」
 むっとして隣を睨んだが、小太郎からの返答はなかった。うーん、と首を傾げて、私はあることを思い出した。
「そうだ、小太郎、去年言ってた、私のこと姉だと思ってなかったって。なんだって思ってたの?」
「……それ、いま訊くのか」
「訊く、けど」
 訊けそうなときに訊いておかないと。小太郎にとってささいなことなのか、そうでないのかわからないからだ。前者ならいいが、後者ならタイミングを逃してはいけないと思う。
「すずなは、なんて答えてほしいんだ」
「私が、じゃなくて小太郎ちゃんがどう思ってるかでしょ。それを知りたい」
「タイミングの悪い奴」と言って、小太郎ちゃんは私の目を覗き込んだ。口の端がかすかに上がっている。あれ、面白がってる? って思ったそのとき――
 小太郎の唇が私の口をかすめた。触れるだけの一瞬のキス。
 それは、寡黙な小太郎の言葉よりももっと、雄弁になにかを物語っていた。
「えっ、えええ?」
 それがどういう意味か、さすがの私にもわかったが、突然の出来事を処理しようとするのにいっぱいいっぱいだった。
「そういうわけだから、さっさと自分の部屋で寝ろ」
 そう言って、小太郎は私の髪をくしゃっと撫ぜた。背中を促されて、私は素直に寝室に足を運ぶ。
 頭が混乱したまま、電気を消してベッドに潜り込んだ。
 ――眠れない。
 寝るにはまだ早い時間だということもあったが、それだけではなかった。私は、オーバーヒートしそうな頭で、精いっぱいこの混乱を整理しようと努める。
 ――つまりこれは、去年の会話の焼き直しなのだ。
 お互いに、知らないふりをしていたらなかったことになる。でもそれを、表に出して確認してしまったら、それがあるということから目を逸らすことはできない。
 一つ目は、私たちの血縁関係。二つ目は、私たちの内面だった。
 本当は私だって、小太郎と血が繋がっていないことを知っていたのだから、特別な情を持っていないなんてことはないのだ。
 小太郎が私のことをどう思っているかってことを知りたかった。でも私のうかつな行動は、私たちの関係を壊してしまったのだ。小太郎の一言で、私たちの姉弟関係が壊れたあのときのように。
 私は、こんな急な変化は望んでいなかった。なにかが変わるとしたら、もっと緩やかなものだと思っていたのだ。
 あの、付かず離れずの隣にいる距離が好きだったのに。もう、そういう風には戻れないのだろうか。
 嫌だな、と思ってじんわり涙がにじんだ。壊したのは私なのだ。
 不本意な結論を導いたとはいえ、ある程度整理し終わった私の脳は、もう熱を発してはいなかった。とりあえず話は明日だ、と思って目をつぶったが、やっぱり眠れなかった。
 そのとき気がついたが、眠れない理由はもう一つあったのだ。
 起き上った私は慌ててドアを開け、隣の部屋に飛び込んだ。
「小太郎ちゃん、小太郎ちゃん!」
 小太郎はまだ眠らずに一人でテレビを見ていたが、さすがにぎょっとしたらしい。「どうした、すずな」と半身をこちらに向けたので、私はためらわずその両腕の中に飛び込んだ。
「小太郎ちゃん……眠れない」
「馬鹿か。そんなんでこっちに来るな」
 小太郎は怒っているのか、頭を撫でてもくれなかった。
「だって、さっきのテレビの内容が頭にちらついて眠れないんだもん!」
「あー……心霊特集か」
 小太郎は、ほっとしたような呆れたような様子で大きく息を吐いた。
「小太郎ちゃん、怖いから、手つないで寝てもいい?」
 むかしから私は、寝付けなかったり怖い夢を見たり嵐が来たりするような夜には、小太郎のところに潜り込んで手を繋いでもらって、眠っていた。
 二人が本当の姉弟じゃない、って話をしてからはなんとなく気が引けてそういうことをしていなかったけど、それまではそういうことがあった。
 眠れない理由は嘘じゃなかったけど、私はむかしのようなふるまいを無意識にして、二人の仲をもとに戻そうとしていたのだ。私の妙な必死さを理解したのか、小太郎は片眉をちょっと上げて、
「じゃあ、ちょっと譲歩な」
 と言って私の頭を撫でた。

<了>


novel

2010 08 24