狂い咲きの嘘の花

「リリ!」
「ちょっと待った!」
 その日、いつものように両腕を差し出して迫ったキーツの抱擁は、リリアの押し出した両手でとどめられた。
「……リリ?」戸惑ったキーツがまじまじとリリアを見つめ返すと、
「えっと、あのね、やっぱりこういうのやめない?」
 リリアの返答はつれなかった。つまり、キーツの抱擁は拒まれたのだ。
「嫌じゃないって言ったのに……」
 思わずキーツは恨めしげにこぼした。
 その様子はまるで、叱られた子供のようである。三十を過ぎた男が、自分の半分の年齢の少女に相対している図だとはとても思えない。
 それを見て、えっと、とリリアは必死に言葉を探す。まるで幼子をなだめるかのようであった。
「あのね、小さい頃ならともかく、私もそれなりの歳になったんだから、こういうことするのやっぱり変だよ。抱きあったり、キスしたりするのって、特別な相手と二人きりのときにするものだと思うの。それに公衆の面前でっていうのは、他の人にも迷惑っていうか、ちょっとどうかなっていうか」
 ちなみに、このやりとりをしているのは城門を一歩出たところ、まぎれもなく街路である。
 しょんぼりしたキーツに、リリアは追いうちの言葉をかける。
「私も、嫌だったわけじゃないけど、でもやっぱりいつまでもこのままってわけにはいかないよ。……だってキーツ兄、私のお父さんでもお兄ちゃんでもないもん」
 そう言われ、キーツはショックで呆然と立ち尽くした。
 いたたまれなくなったのか、リリアは落ち着かなげに、今日はもう帰るね、と身を翻した。
 いつもなら家まで送ると申し出るはずのキーツは、それにすら思い至らず、突っ立ったままリリアを見送ったのだった。


 それからのキーツは、数日間は周りから「暗い」と指をさされる破目になったが、表面上はなんとか取り繕える程度に回復した。
 もちろん、リリアに避けられているわけではなく、顔も毎日のように合わせている。ただ、触れるのを許してもらえなくなっただけだ。とはいえ、キーツにとっては思った以上に辛かった。
 触れないのを自分に科した三年間は、それなりの事情と理由があり、実際に会えない時期も長かったしリリアの方が距離をとっていたせいもあって、我慢することができた。
 しかし今回のことはそれよりずっと辛かった。やっと取り戻した蜜月は、わずか一ヶ月で取り上げられたのだ。他でもない、リリアの手によって。
 禁酒に成功した途端に極上の酒に慣らされ、かと思うと明日から一切飲むなと言われているのと等しい。やっかいなことに、禁じられているのはたった一種類の酒だが、他の酒では代替が利かないということだった。
 それこそ酒で紛らわそうということでもなかろうが、その日、キーツはティオに飲みに誘われて、それを素直に受けた。
「……リリが足りない……」
 酒を飲みつつ、早速、キーツは愚痴をこぼした。それをティオは苦笑しつつあしらった。
「まだ一週間しか経ってないじゃないですか」
 俺言ったっけ、とキーツは杯を重ねつつ言う。リリアとのやり取りを誰かに話したつもりはなかった。見ればわかりますよ、とティオも酒を口に運ぶ。
「いつものこと、って感じだったのが急によそよそしくなってますしね。リリアもちょっと、構えてるというか警戒してるというか」
 ティオがさらりと告げると、それが事実なだけにキーツは落ち込んだ。
「結局、フェルグが言ったとおりだったってことかな」
 自分だけが除外されていると思わない方がいい、と。いつだったか釘を刺された。リリアの好意をいいことに、彼女が年頃になってもべたべた触っていたキーツへの辛辣なセリフだった。
「嫌とかじゃなくて、恥ずかしいんだと思いますけどね」ティオがグラスの中の氷をカランと回す。「それと……そうですね、考えてるんだと」
「考えてる?」
「はい、リリアも年頃だから、いつまでもこのままってわけにはいかないでしょう。恋人が出来たらどうするんですか? キーツさんはリリアの兄みたいなものだから、リリアの態度によっては許されるかもしれませんけど。でも、例えば結婚したらもう、絶対許されませんよね。妻は夫のものです」
「……それは」
 キーツは思わず言葉を詰まらせる。
「考えたことないですか? でも、リリアだって結婚できる年齢なんです。そこんとこ、忘れない方がいいですよ」
「……本当におまえは、言いにくいことをぺらぺらと」
「すみません、余計なことまで言っちゃうのが癖になってるんです」
 悪びれずにそう言って、ティオは掌を掲げる。再び酒を口に運ぶティオの隣で、キーツはカウンターに突っ伏した。
 いつまでもこういうことをしていたらおかしい、と判断してリリアは拒んだのだろうか。ならば、再び甘露を与えられる機会はもうないのかもしれない。
「リリアは、けっこういろいろ考えてると思いますけどね」完全に落ち込んだキーツを見やって、ティオは苦笑する。「リリア本人は嫌じゃなくても、世間的に許されないってことです。そういうこと、考える歳になったんだと思いますよ。それに、当てはまるのはリリアだけじゃなくてキーツさんでも同じですからね」
「俺?」
「恋人が出来たらどうしますか? 結婚したら?」
 そういうことか、とキーツは呟いて口をひと口湿らせ、はー、と溜息をついた。
「くそう、寂しい!」
「うわああ!」
 横合いに突然がばりと抱きつかれ、ティオは倒しかけたグラスを脇へと追いやった。
「ちょっと、もう、俺を代替にしないでくださいよ」
「代替にすらなるか。抱き心地が硬すぎる」
「あー……人恋しいんですね」
 文句を言う酔っ払いに、ティオは溜息をつきつつ軽く背中を叩いてやった。


 窓から差し込む陽光が、廊下に白い光を落としている。
 練兵場に向かう途中、キーツは訓練生のライールと行き合った。片手を上げて軽い挨拶を試みようとした瞬間、キーツはそれを放棄する。
「ライール!」
「うわ、落ち着けおっさん!」
 不意打ちの抱擁にぎょっとして、ライールはキーツの顔を押しのけた。
「はー、おまえまで反抗期か……グリフには懐いてるくせに」
「そういう問題じゃないだろーが。別に男に抱きつかれたって嬉しくない」
 ライールは辛辣だったが、キーツは構わない。
「男には許されるのに、女には許されないのってなんでだろうな」
「……キーツ兄」
 なにかを察したのか、ライールはふうと息を吐いてから、手を伸ばしてキーツの頭をちょっと撫でた。
 ゆっくりと一歩離れ、キーツはライールの全身をまじまじと見つめる。少年期を過ぎて、青年期へと入ろうとする入口だ。キーツにはまだまだ届かないが、背丈は一つ年上のリリアより頭半分高い。
「おまえもでっかくなったよな……リリアが成長するわけだ」
 ――考えたこともないなんて嘘だ。
 本当は知っていた。
 ベールを身に付けたリリアを見たとき、そうと知った。いつか、リリアも嫁ぐのだ。もうそんな歳かと思って胸が詰まった。触れたかったから、手を差し出した。
 ライールだったら、いいかなと思った。リリアを渡しても。リリアを託しても。だからあのとき彼女の手を預けた。
「励めよ、若人」
 口の端でにっと笑って、キーツはお返しとばかり、ライールの頭を髪がくしゃくしゃになるまで撫でた。


 その日、キーツが兵舎の自室に戻ると、部屋でリリアが待っていた。
「あ、キーツ兄、お帰りなさい。遅いから入れてもらっちゃった」
 今日は訓練に力を入れていて、キーツはいつもより少し帰りが遅れたのだが、リリアは待つことにして部屋に入れてもらったらしい。
 うん、ただいま、とキーツが頷くと、「はい、差し入れ」とリリアはいつものように籠を差し出した。
 それを受け取ってテーブルに置くと、キーツはリリアへと手を伸ばす。
「だめ」
 と見抜かれて、その手は軽くはたき落されてしまった。
「いいだろ、別に……公衆の面前じゃないし、二人きりだ」
 いつかのリリアの言葉を、二人きりなら許される、とわざと曲解してキーツはリリアに一歩詰め寄った。肩を引き寄せれば、以前より抵抗は弱まったが、手を突っぱねる態度は相変わらずだった。
「だ、だだだだめだってば……!」
 無理やり抱き締めたが、密着しないようにリリアの腕が邪魔をしていて、キーツは少しも満足できなかった。仕方なく、腕を緩めてリリアを解放する。
 はあ、と溜息を吐いて、キーツはベッドの縁に腰かけた。今日は疲弊しているし、最近いろいろと考えて思考力が擦り切れている。
「どうして急に、何もかも駄目なの。納得できないし、我慢できない」
 キーツの硬い声に、リリアは戸惑ったように突っ立ったままだった。すぐにキーツの胸に、愛しさと申し訳なさが込み上げる。こんなに年下の少女相手に、八つ当たりめいたことを言っている自分が情けなくなった。
「……ごめん、いじめすぎた」
「っ、一回許したらしばらく我慢できる?」
 キーツの言葉を遮るようにして、リリアが提案した。あ、気を遣わせている、と思って、キーツはますます申し訳なくなる。
「いいよ、ごめん、リリ」
 キーツはリリアに微笑んだ。機嫌の直っていないふりをしてリリアの好意を享受することもできたが、なぜだかそれを自分に許せなかった。
 おいで、と呼ぶとリリアは素直に寄って来た。彼女の手をとってキーツは軽く握る。やわらかかった。それには、リリアも逃げなかった。思わず、ふ、と笑みがこぼれる。
「……一回だけ、だからね」
 リリアの困ったような声音に、え、とキーツは顔を上げた。
 リリアの髪が目の前でさらりと揺れて、口の端に唇が押し付けられた。
「え」
「じゃ、じゃあね!」
 不意打ちのあと、リリアは火のついたように離れて、すぐに出て行った。
 半開きの扉を見ながら、キーツは無意識に唇を指でなぞる。――やわらかかったな、と思って人知れず赤面した。


 そしていつものように、キーツはフェルグと杯を重ねていた。
「どうしよう、フェルグ。俺、重大なことに気づいちゃった」
「なんですか」
 フェルグは溜息を酒で押し流した。絡み出すとキーツは長い。今日も帰りは遅くなると覚悟を決めてフェルグは先を促した。
「俺、リリに欲情できるわ」
 ごふっ、とフェルグはむせ込んだ。さすがにいまのは不意打ち過ぎた。しばらくせき込んだ後、フェルグは涙目でキーツを睨みつけた。
「どうしていつもそう卑猥な話を私に振ってくるんです、あなたという人は!」
「訊いたのはおまえだろ、誰に言えって言うんだ、ライールか? リリか!?」
「どうしてそう極端なんです。他にもいるでしょう、適任が」
「俺はこれ以上ティオに弱みを握られたくないし、隊長にからかいの種を提供する気もない」
「……それもそうですね」
 さすがにフェルグも冷静になった。なにかきっかけが、と尋ねると、そこは聞かなくてもいい、とキーツは黙した。
「なんかちょっと、見方が変わっちゃってさ」
 とキーツは杯をすすった。
 リリアの唇を思い出す。味わいたい、と思ったのは初めてだった。そう考えている自分に、ひどく狼狽した。
 唇へのキスも、頬へのキスも、抱擁も、キーツの中ではそう大きく順位が付いていたわけでもなく、ただその行為をしてくれること、それを許してくれることに満足していただけのはずだった。まさか、その行為自体に執着するだなんて思ってもみなかった。
 もう少し前なら、抱擁を禁じられたぐらいでは、ここまで渇えなかったかもしれない。しかしもう知ってしまった。最近のキーツは、リリアの抱擁を味わっていたのだ。足りないと思って初めてそうと知った。
「いろいろ考えたらなー、リリもお年頃だし」
「やっとですか」
 前から私がそう言っているのに、とフェルグはぶつぶつと文句を言う。
 それ以上はキーツも言う気はなかった。
 ライールになら譲ってもいい、と思ったことも。
 ――でも、本当はぜんぶ嘘っぱちだ。
 譲っていいだなんて思うはずがなかった。誰にも渡したくはなかった。ずっとリリアはキーツのものだった。どうして、よそに渡してもいいだなんて思えるだろう。
 あの日リリアの手をとったとき、この身が震えた。自分だけのものにしたいと思ったのになかったことにして、ライールになら渡してもいいだなんて、キーツは自分に嘘をついたのだ。
 それ以上考えるのが怖かったから、自分のものにならないときのことを考えるのが怖かったから、無理やりライールに意識を流して思考停止したのだ。
 そんなことを言えるわけもなかった。
 自覚したらなにか変わるのだろうか。
 それもよくわからなかったけど。
「フェルグ、今夜はとことん付き合えよ」
「……私は家で可愛い妻が待っているのですが」
 答えたのは、カラン、というグラスの氷の響きだった。

<了>


novel

2010 10 24