ささめき月の夜

 こぽこぽこぽ、と琥珀色の液体がグラスに注がれるのはもう何度目だろう。
 目の前の杯を空ける男に、フェルグは呆れたように視線を向けた。
「もうそのくらいにされたらいかがですか」
 程よく酔っぱらっている相手を心配して言っているのであるが、
「もう酔ってんだから、何杯呑んでも同じだろ」と返されてしまう。
「見苦しいと言っているんです。リリアが見たら呆れますよ、キーツ」
 今度こそ呆れた息を吐いて、フェルグは取って置きの切り札を切った。
「それなんだよ、聞いてくれよ、リリが反抗期でさああ」
 フェルグはリリアの名前を出せばおとなしくなると思ったのであろうが、キーツはそれに反して暴走した。なにしろ、そのことをぶちまけたくてたまらなかったのだ。素面で言えば我が侭ととられるどころかリリアを非難しているとみられるかもしれない。酔って愚痴を吐く程度にこぼすのが無難だった。
「……わかりました。どうせ聞くまで帰してもらえないんでしょう。好きなだけくだを巻きなさい」
 なにやら失礼なことを言われているが、キーツには堪えない。これ幸いとさっそくぶちまけることにする。
「……リリがチューしてくれない」
「……は?」
「だって昔はしてくれたんだよおお」
 曰く。リリアが幼い頃はもっと濃いスキンシップをとっており、頬に口付けると必ずお返しをしてくれた。最近はそんな雰囲気にすらならなかったが、記憶を取り戻して軟化したあとはこちらからの口付けを許してくれるようになった。しかし、お返しはしてくれない。
「……頭痛がしてきました」
 フェルグは頭を抱えた。これを反抗期というのは、世のお母さん方に失礼である。キーツは心臓に毛が生えているに違いない。
「年月を考えればわかるでしょう。リリアも、もう妙齢の娘さんなんですから、軽々しく抱きついたりキスしたりするのはやめなさい」
「なんでだよ」
「もう昔とは違うということです。成長したリリアを見て、思うところはないのですか」
「……おっきくなったなあ、と」
 フェルグは、この男は本当に自分と同い年なのだろうかと、近衛の同僚を半眼で睨む。
「抱きついたりすることに関しては」
「抱き心地が良くなったなあ、と」
「……卑猥な」
「……さらっと卑猥とかいう単語を出すお前の方がヒワイだ」
 単に、キーツとしては、小さい頃のリリアをめいっぱい抱きしめても腕の中が物足りなかったのが、成長して触れる面積が増えたのでやっと満足した、ということにすぎない。
「……これはリリアも苦労するはずですね」
 溜息とともに吐き出したフェルグの言葉は、キーツの耳には届かなかった。


「リリ!」
 今日もやってきていたリリアの姿を認めて、キーツは後ろから不意打ちに思い切り抱き締めた。
「ひゃあっ」
 突然後ろから伸びてきた腕に、リリアは驚いて声を上げる。どかそうと軽くじたばたするが、目の前でがっちり組まれた腕を見て、早々に抵抗を諦めた。
 三年ぶりに復活した密着っぷりに、周囲はしばしばどよめいていたが、最近になるとさすがに慣れてしまったらしい。リリアに同情めいた苦笑を送るばかりで、誰も阻止しようとはしなかった。
「見事なべたべたっぷりですねえ。少しはこちらに、その至福を譲ってくれたりはしませんか?」
 胡散臭げな笑みを浮かべるウィーダリオンに、キーツは「だめだめ」と追い払うように手を振った。
「お前らに、俺のリリは渡さん」
「でも、昔は他の者にも抱っこさせてやってましたよね」涼しげな笑みでフェルグが言う。「少しは融通を利かせてくれてもよろしいんじゃないですか」
 当事者のリリアを完全に無視して、彼女の上で言葉がぽんぽん飛び交った。
「だーめー。リリアもお年頃なんだからそう簡単に渡せないんだよ」
「……昨夜と言っていることが違っていませんか」
「違っていない!」キーツは勢いづく。「お父さんも遠ざけるお年頃だぞ。異性にも好みってもんが出てくらあね。そう軽々しく許されると思ったら大間違いだ」
「自分が除外されてるあたりがおめでたいですね」
 苦笑気味に言われて初めて、キーツはそれを確認していないことに気がついた。腕の中のリリアに頬を寄せ、囁くように尋ねる。
「リリ、こういうの嫌か?」
 そういえば最近は、キスを返してくれないどころか、目を合わせてくれないような気がする。キーツが妙に不安になりかけたところで、リリアがか細い声で返答をした。
「……や、じゃないよ。ちょっと、照れるだけ、だから」
「そっか!」
 その返事が嬉しくて、キーツはますます強くリリアを抱き締める。
「そういえばキーツさん、ティオとライールにはそのガードが少し緩いですね」ウィーダリオンが話の舵を少しそらすと、
「ライールも俺のお気に入りだからな」キーツはにやっと笑う。「こーんなちっちゃいときから、リリと一緒に可愛がってたし。だいたい、俺にとっちゃまだまだちびっこだな」
「それはそれは。ちなみにティオはどういった理由から?」
「恋愛対象になりようがないだろ。ルゥエの好みだったのは奇跡的だよなあ。いやー、あれ以上の女の子、一生現れんわ」
「ひどい!」
 くだらない会話を横で聞いていた当のティオが、思わず声を上げた。


 キーツは夜道を歩いていた。
 月は冴え冴えと中空に白く浮かび、雲ひとつない藍色には、ぶちまけたような星屑が光っている。
 頬をなぶる風は少し冷たかったが、歩いていると体も温まるのでさほど気にはならない。
 ポケットに入れていた手を、片方夜風に晒してみる。
 隣にリリアが居れば手を繋いだのにな、とキーツは思う。ずっと、保護者のつもりでいた。それが突然断ち切られてから、もう三年も経っている。
 その間に、いくらリリアが少しばかり成長したからといって、周りの対応は少々神経質だ。つまり、キーツの態度が批判されているのである。
 キーツは小さく溜息をこぼす。自分はただ、昔と同じように仲良くしたいだけなのに、なぜあっちこっちから制止の声を掛けられるのか。
 そう、例えばフェルグとの会話ひとつとっても。
「……良いだろう、抱き心地」
 納得のいかないキーツは、小さく自分を擁護する。
 別に妙な意味で言ったつもりはない。小さい頃のリリアは、それは愛らしかったが、同時にその幼い体つきはひどく頼りなかった。きつく抱き締めれば潰れてしまうのではないかと恐れるほどに。
 それが、程よい大きさに成長した。抱き締めたときに背中で腕を交差させるのも心地よいし、背中から腰へのなだらかなラインを指でたどるのも気持ちがいい。
 十を過ぎたころは、手足も伸びてきていたがまだまだ痩せていて、膝に乗せたときは骨が当たっているような気がしたものだ。それがこの頃では、体つきも丸みを帯びてきて、程よい重みもやわらかさも心地よい。
 最近ではつい、抱き締めたら手放したくなくなってしまう。
 やわらかいといえば、唇のやわらかさは変わるのだろうか、とふと思った。
 リリアがうんと幼い頃は、唇同士の口付けも交わしていたが、数年後にはしなくなった。周りの友達は誰も、お父さんとそんなことしないもん、と言われて軽く落ち込んだものだ。それでも頬へのキスは返してもらっていたので、さほど不満は感じなかった。
 それが最近ではまったくしてくれなくなったので寂しいと思う。
 ああ、そういえば、三年前に人工呼吸はしたな、と思い当たる。やわらかかったな、と思い出して、
「……うわ」
 ――待て待て待て。なんだか、思考が、やばい方へ傾いていやしないか。
 そう思い始めると急に、身体の芯がかっと熱を持った。夜風が火照った頬を冷やすかのように吹きつけるが、熱はなかなか冷めはしなかった。
 いい歳して、夜道で頬染めているのもどうかと思う。
 自分はあの子の存在をどういうふうに思っているのだろう。
 衝撃的すぎて思わず止めた足は、なかなか動き出してはくれなかった。

<了>


novel

2010 03 27