晴天のアスタリスク

 噂はよく聞いていた。
 学年一の秀才にも、学年一のモテ男にもなびかない女子がいる、と。
 誰もがその二人になびくわけではないので冗談の範疇だったが、渦中のエルザは、彼らの存在感に呑まれるわけでもなく、丁々発止とやり合っているらしい。
 だからなんとなく、ヴァルドは彼女のことを、我が強くて口うるさいタイプなのかと思っていた。
 興味があるわけではなかったので、そのままであれば、卒業までエルザとは接点のないままだったろう。
 しかしある日、文字通り、エルザが彼の手に飛び込んできたのだ。
 なにかから追われるかのように階段を駆け上がってきたエルザがぶつかってきて、ヴァルドはバランスを崩した彼女が階段から落ちないように、咄嗟に支えた。
 そのとき、髪の香りがふわりと鼻先をかすめたことを覚えている。
 エルザは、身長は平均的だったが、つくりが華奢でひどく軽かった。
 顔を赤らめながら礼を言う姿が、彼が抱いていたイメージとの、最初に感じた齟齬だった。
 それから言葉を交わす仲にはなったが、かなり早い段階でエルザの警戒の壁が薄れ、おそらく自分は異性として意識されていないのだろう、とヴァルドは認識した。
 なぜなら、他のヴァルドの友人たちに対しては、エルザの態度が変わらなかったからだ。
 エルザへのイメージが変わったのは、彼らにしても同じだ。
 ルベリとやり合っている様子から、怒りっぽいタイプかと思われたが、彼女の言葉は理路整然と冷静に選び抜かれており、感情的というよりはいっそクールだった。
 しかしとっつきにくいかというとそうではなく、根に持たないさらっとしたタイプで、女子からは頼りにされたりもしているらしい。
 仲良くなると会話も増えたが、ヴァルド以外の者に対しては、ある一線から踏み込ませないような雰囲気があった。
 彼らに言わせると、「隙がない」のだそうである。
 その言葉を聞いたとき初めて、ヴァルドは自分に対しては彼女の態度が違うことに気が付いたのだ。
 ヴァルドはエルザのことを「無防備だ」と思っている。自衛の心構えがないのかとはらはらしたが、自分以外に対しては違うらしい。ほっとしたと同時に、紳士的な態度を貫かねば、彼女の友情を失いかねないとの危機感を持った。
 おそらくは、自分のことを信用してくれたのだろうと、そうヴァルドはとったのだ。
 しかし、そのはにかんだ笑顔や一歩進んだ距離感など、自分だけに向けられたものだと知って、ぐらりとこない男がいようか。
 雨に濡れた姿を見たときは、正直限界だと思った。
 雨に打たれて震えながら、エルザはひどく心細そうな目でヴァルドを見上げる。
 どこかへ、と促した言葉に、男子寮、と返ってきたときは刹那怒りすら覚えた。そのときは彼女がアインやルベリの部屋に入ったことがあることは知らなかったが、たとえ知っていたとしても、無防備に過ぎる、と思っただろう。
 ほろほろと、涙をこぼしたときには思わず抱きしめてやりたくなった。
 それをしなかったのは、ヴァルドがエルザに対してなんらの権利も有していなかったからだ。彼女は他人に頼るタイプではなく、打ちひしがれたように見えても、気丈に自分の足で立とうとしていた。
 彼女がそのつもりでいる以上、いたずらに手を貸すのはお門違いだと思った。
 もしかすると、拒絶されるのが怖かったのかもしれない。
 このまま平行線をたどっていくかと思われた二人の関係は、エルザが涙を見せた次の日に、劇的に変わることとなる。


 その日はルベリがしつこくエルザをからかっており、いつものことだと思っていたので、ヴァルドは始め、気にも留めていなかった。
 しかし不穏な一言と共に周囲にざわめきが走ったとき、ヴァルドは自分からぴりぴりとした気配が放たれているのを肌で感じていた。エルザを抱きしめる、ルベリの腕から目が離せない。その手が、エルザの背中をたどって薄い肩に触れ、髪をもてあそぶ。
 ルベリと目が合ったとき、彼がにやりと笑ったので、ヴァルドは少し冷静さを取り戻した。
 からかいのターゲットに自分も選ばれたことに気づいたからだ。ルベリは明らかに、わかっていてやっている。彼が憎めないタイプであるために、そういった行為が易々と通ってしまうことがまさに憎らしい。
 しかし、先に限界を超えたのは、普段冷静に流しているはずのエルザだった。
 いい加減にして! とルベリを振りほどいたエルザは、ヴァルドに抱きついたのだ。
――私が好きなのはこっちなの!」
 髪の香りがふわりとかすめ、エルザの華奢な身体が、体格の違うヴァルドに密着している。
 カッと熱が上がるのを感じた。血流の音がどくどくと耳に響く。
「……あの」とかすれがちな声をかけると、我に返ったエルザは絶叫して逃げ出した。
 周りの視線が、痛いほどヴァルドに突き刺さる。
 注目ついでだと心に決め、ヴァルドはひとつ息を吐いてルベリに笑いかけた。
「やってくれますね」
「好都合だろ?」悪びれず、ルベリはくすくすと笑う。
「そうですね。ただ少し、やりすぎかと」
 声に含まれた剣呑さにルベリが笑いを収めた瞬間、ヴァルドは拳を握って一発食らわせた。
 そうしてすぐに踵を返すと、部屋を出て行ったエルザを追った。殴られても、ルベリは笑っているだろうなと思って苦笑の溜息が出る。
 エルザの行方を追うのはそう困難でもなかった。部屋を出たと同時に授業開始の鐘が鳴り響き、廊下には誰もいなかったからだ。エルザが走る、ばたばたという音が反響して、彼女の居場所を伝えていた。
 エルザを追っていき、ある無人の講義室にたどり着いた。この時間は、誰も利用していないらしい。
「エルザさん」
 声をかけると、エルザの肩がびくりと反応して振り向いた。
「ち、違うの! ……あの」
 なにが、と言わなくてもわかっている。
「からかわれて、思わず言わされたことはわかっています。あなたが望むなら、なかったことにしてもいい」
 戸惑ったように、エルザの目が泳ぐ。猫の目のような、綺麗なアーモンド形の瞳は、涙を湛えて潤んでいた。
「その場の勢いだったと、冗談だったと、言ってくれればおれは忘れます。……どうします」
 本気だったのかもしれない。本気ではなかったのかもしれない。ヴァルドは前者を望むが、エルザを追い詰めたくはなかった。彼女が苦しむくらいなら、逃れて欲しかった。
「……で」
「え?」
 涙声が聞き取れず、思わずヴァルドは聞き返した。
「……なかったことに、なんて、しないで」
 すきなの、とエルザの口が動く。
 近づいて、そのすべらかな頬に手を当てると、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
――おれもです」
 今度こそ、ヴァルドは躊躇わずエルザを抱きしめた。
 その権利を手に入れたとばかりに。

<了>


novel

2009 11 15