チョコレイト狂想曲

 隣の席の大葉おおば星空としたかは、この私、田仲たなか千寿ちずに妙に好意的である。
 ありていに言えば、懐いている。
 そう、きりっとした和犬が、隙を見せないクールな犬が、主人に対しては腹を晒してくんくん懐くがごとく。
 ……我ながら露骨過ぎてひどい表現である。
 もともと、学校内における地位としては真逆である。ほしぞらくんが上位の人で、私が目立たぬ平均の人。……だったのが、いつぞや、ひょんなことから彼が私との昔の接点を知ったのだ。年月が経ち過ぎて私だとわからなかったみたいだけど、どうやら私は彼の大恩ある人だったらしい。
 そのため、クラスメイトである私たちの接点はがっつり増えた。もっと言えば、彼からのアプローチが増えた。友人からの詮索を流すのも難しくなってしまったため、昔の知り合い、という説明はせざるを得なかった。
 それは許容するにしてもだ。私のあだ名、カノンちゃんと人前で呼ぶことだけは絶対に許さん、と私は強く釘を刺しておいた。しかし、ほしぞらくんというあだ名も大概だな、と私も己を振り返ってみたので、それも人前で使うのは封印することにした。
 すがすがしい朝だ。私は教室の戸をからからと引き開ける。
 と、すでに登校していたほしぞらくんが私の姿を認めて、さっと立ち上がった。
 あの日からいままでに、席替えは二回あったのだが、ほしぞらくんは一度目は逃したものの、次はちゃんと私の隣の席を引き当てていた。
 私は自分の席まで行って、机に鞄を置く。
「お、おはよう、ちずさん!」
「おはよう」
 私は嫌がる素振りもなく返す。実際、いまだにこの距離感になれず戸惑ってはいるんだけど、嫌なわけではなかった。
 しかし、ある日突然隣の席の女子を、さん付けの名前で呼び始めたほしぞらくんに、クラスメイトも奇異の目を向けていた。最近では、すっかり慣れてしまったけど。
「いままで田仲って呼んでたじゃん。別に変えなくても」と言えば、
「そんな、カノンちゃんを呼び捨てになんてできない」と言うし、
「じゃあ名字でいいじゃん」と言えば、
「そんな、他人行儀で悲しいな」と言われてしまう。
 きりっとした顔立ちの男の子に憂いを含んだ瞳を投げかけられ、なんとなく応じないのが悪いような気にさせられる。憐れを誘う容姿でも声でもなく、涙を見せたわけでもないのがまた、あざとさを感じさせないので、苛立つ要素もないままになんとなく従わせてしまうのがずるい。


 この日の一時間目、なんとなく隣からの視線がさくさくと刺さるのを感じた。
 まあ、ほしぞらくんが私の方を見ていることはよくあって、たまに視線が合ったりするとにこっと微笑んだりする。それでもしつこいとか張り付いてるとかいう感じはなくて、視線が合ったあとでもすっと授業への集中に戻っているし、授業中に変にしゃべりかけたり手紙を回してくるなんていうことはまずない。
 それでもこの日気になったのは、じっと見つめられているという感じがあったからだ。
 いつものように、ちらっと視線をやるという程度ではない。私は敢えてほしぞらくんの方に顔を向けないようにしていたが、自分の肌がぴりぴりと緊張するのがわかった。
 私、なにかしたかなあ、と考えてはみたけどわからない。
 一時間目が終わると、その答えは簡単に、当のほしぞらくんの席で判明した。
 休み時間に入って、女の子たちが何人かほしぞらくんのところに集まってきた。そして次々に、リボンの掛けられた箱を差しだしたのだ。
「大葉くん、これもらって」
「あ、あたしも」
 そこでやっと私も気がついた。
 ――今日、バレンタインだったっけー!?
 ほしぞらくんは割と人当たりのいい男子なので、そこはなかなか素直に、女子たちから箱を受け取っていた。そして、一瞬だけちらっと、横目で私の方を見る。
 ……これは、もしかしてというかやっぱりというか、期待されてるんだろうな。
 溜息を吐き出しかけ、私は慌ててそれを飲み込んだ。


 二時間目のあと、教室移動の途中にクラスメイトの里香さとかこと、とかちゃんが私に話しかけてきた。
「で、ちずはもう大葉くんにチョコあげたのー?」
「いや、予定なし、なんだけど……」
 期待した瞳を前にして、私はたじたじと答える。それどころか、忘れてました、今日がバレンタインデーだって。そうか、今日だったか。――実はこの学校、受験生のバレンタインは一ヶ月早めるというのが通例になっている。
「ええっ、どうして、大葉くんかわいそうっ!」
 気のない返事に、とかちゃんからはおおげさな反応をもらってしまった。確かに普段お世話になってるし、本命だっておおげさに宣言しながら上げるわけでもなし、ちょっとした気持ちで用意することぐらいなんらおかしなことではないだろう。それどころか、忘れていたなんていうのはもしかしてちょっぴり失礼なことなのかもしれない。
 ――とはいえ。
「あげなきゃだめかなあ?」
「だめじゃないけど、かわいそうだよ、大葉くんあんなにちずのこと好きなのに」
 問題はそれだ。
「それなんだけど、としくんの好意が恋愛的なものなのかよくわかんないんだよねえ……」
 今度こそ私は溜息を吐く。そのために、バレンタインという選択肢は最初に削除したまま、しばらく忘れ去っていたのだ。
 ほしぞらくんは私に執着しない、所有しようとしない。仲良くはしたがるけど、間に別の人が入ってくると、すっと自分は身を引くようにする。それは私に嫌われないようにとか、私のためだから我慢するとかそんなことじゃなく、本当にほしぞらくんはそれが当たり前のようにそうする。
 そういうことを繰り返して、最近、なんとなく私はわかってきた。
 いいたとえが思い浮かばないけど、ほしぞらくんにとっての私は、通学中によく会う野良猫みたいなものだと思う。
 会うと嬉しいし会わないと寂しいけど、会えるのが当り前じゃなくてそれは気まぐれの幸運の様なもの。たまには餌をやったり撫でさせてもらったりするけど、家に連れ帰ろうとは思わない。誰か別の人に可愛がられてるのを見ても、腹が立ったりはしない。だって自分のものじゃないから。
 ――そんな感じ。
「そうかな? ……ま、当人じゃないとわからないこともあるから、これ以上は言わないけど」
 と、とかちゃんはありがたく話を切り上げた。


 結局、その日の授業が終わるまで、何度も視線を投げかけられた。
 そのたびに、うっ、ごめんなさい、と思って胃が痛くなる。
 終礼が終わるとさくっと帰ってしまいたかったんだけど、その日私は日直だったので、じりじりしながら放課後に日誌を書いていた。
 塾とか帰宅とか、クラスのみんながほぼ出ていってしまってから、ほしぞらくんが私に呼び掛けた。
「……あの、カノンちゃん」
「は、はいっ?」
 私は手を止めて振り向いた。日誌はちょうど書き終えていた。緊張して思わず声が上ずる。
 ほしぞらくんはさっと立ち上がって私に近づき、
「あのっ、これもらってください!」
 紙袋を差し出した。
――はい?」
 と戸惑いながら私はそれを受け取る。
「ごめん、朝からタイミング見計らってて、変な態度だったかもしれないけど。受け取ってもらってよかった。ありがとう」
「……こ、こちらこそ」
 ほっとしたように、ほしぞらくんはほわっと笑った。顔が、いくらか赤くなっていた。
 男の子の方から、ということはたまにあるけど、まさかほしぞらくんからチョコもらえるとは思ってなかったよ。同時に、変な勘違いをしていたのがすごく恥ずかしくて、私の顔も赤く染まりそうになった。
 そういえば、ほしぞらくんの方から私に何かしてくれと頼むようなことなんて、いままでなかった。
「じゃあ、私、日誌出して帰るね」と机上を片付けて鞄を持つと、
「うん、じゃあね」とほしぞらくんは私を送り出した。
 タイミングが合えば一緒に帰ることはあるけど、今日は私が帰るねと線を引いたから、ほしぞらくんは踏み込んでこなかった。そういうところ、彼はさりげなく尊重してくれる。
 もらったからにはお返しをあげねば、と帰り道私は考えていた。
 家に帰って自室に上がる。もらった紙袋に入っていた箱を開けると、私は愕然と両手両膝を床についた。
 チョコレートケーキが入っていた。
 しかも手作り。
 ……参りました。


 考えればわかることだった。
 ほしぞらくんの私への好意は、普通の感覚で量れるものではない。彼は私の反応を期待しない。たとえ期待したとして、それが外れても怒ったりがっかりしたりは決してしないのだ。
 ほしぞらくんは私が、存在するだけで嬉しいのだ。私が存在しない人かもしれないと思って、それでも好きだったのだ。私がどんなつもりであれ、彼の一番大事なときによくしてくれたというそれだけで。
 彼は私に何も望まない。既に満たされているからだ。
 私はなんだかちょっと感動してしまった。なんて純粋なんだろう。
 ――私は、その想いに報いるだけのものを持っているのだろうか。
 それから何日かあとに、私はほしぞらくんのファンの子たちに呼び出された。なぜか、ほしぞらくんが私にチョコを渡したことは知れ渡っていたのだ。
「大葉くんを泣かせたら承知しないんだからね!」
「……え? ええっと、はい」
 そこは、近寄るなとか、手を出すなとかじゃないのか。最初は彼女たちも私に反感を持っていたらしいが、どうもだんだんとほしぞらくんを不憫に思ってしまったらしい。
 と、いうことで特にトラブルもなかったが、ホワイトデーの時期は合格発表とか、そうでなくても卒業してしまっているので学校に行くことはない。
 お返しとかどうするかと悩みつつも、
 ――会いに行かなきゃ、って。
 そう思った。

<了>


novel

2011 04 10