星空とカノン

田仲たなか
 数学の時間、単位行列の問題と格闘していたら、隣からこそっと潜めた声がかけられた。
 ええい、私は連立方程式を解くのに忙しいんだ、とちらりと睨むと、声の主はまたひそっと言う。
「田仲、消しゴム、取って」
 ん、と思って視線をやると、私の足元に磨り減った真ん丸い消しゴムが転がっていた。
 それを拾って、はい、と手に乗せてやる。
「サンキュ」と囁いて、彼の視線は黒板に戻った。
 彼の名前は大葉おおば星空としたか。私は、このほしぞらくんとは、できるだけ関わり合いにならないようにしている。
 彼の、女生徒からの人気はまずまず。陸上部の長距離走、5000のエースで、性格もなかなかに紳士的。きりっとした眉と凛々しい顔立ちは、袴の和装が似合いそうな風情である。
 そんな彼をなぜ私が避けているかというと、吹奏楽部のクラリネット奏者の一員である、十把一絡げの、平々凡々なこの私とは致命的に釣り合わないからである。
 ただのクラスメイトであったなら、私もこんな自意識過剰な思考には陥らなかったと思う。
 しかし、私と彼は、三年目にして同じクラスになってしまった、幼なじみだった。しかも、そのことはクラスで私ひとりしか知らない。
 つまり、当のほしぞらくんも、その事実を知らないのである。
 もしなにかの拍子に気づかれてしまえば、人のいいほしぞらくんのこと、なにかと話しかけたり親切にしてくれたりするだろうなというのが容易に想像できる。しかし、仲が良かったのは十年も昔のことだし、「かまってもらっている」気分になったり、女子たちから変な嫉妬を受けるのは面倒くさいなあ、と私は思っている。そしてなにより、昔とはずいぶん違った方向に成長してしまったほしぞらくんに対して、どんな態度に出ればいいのか私は未だ決められずにいる。理由はそんなところだ。


 そんな折、ある、入梅つゆいり前の日だった。
 日直だった私は屋外にある体育用具室で片づけをしていたのだが、奥の方でもたもたしていたせいか、こともあろうに、片づけが終わったと勘違いした体育教師に鍵を閉められてしまった。
 確かに、その後すぐに次の授業開始のチャイムが鳴り響いてしまったし、次は六時間目だから、もう今日の体育の授業は終わってしまったのだろう。
 しかしそれにしても、きちんと確認もしないなんて職務怠慢だと思う。
 あまりに嘘みたいな話で、呆然としてしまったため、はっと我に返って扉にすがりつき、声を上げたときにはすでに手遅れだった。
 仕方がない、と私は汚れたマットレスにジャージ姿のままぽすんと腰を下ろす。
 一時間も経てばホームルームも終わって、部活動が始まる。そのとき、利用者がいれば開けてもらえるだろう。
 そう判断して、私は待つことにした。
 そうして扉は開けられたのだ。ガチリと鍵が回って、陽の光が細い筋となって用具室内に差し込む。
「ああよかった、助かっ――
「……田仲?」
 間が悪いと言おうかなんと言おうか、よりにもよって私を救出したのはほしぞらくんだったのである。
――あ? ああ、えっと、大葉くん、こんなところでなにして……」
「それは、こっちのセリフ。俺は部活のハードル出しに来ただけ。おまえこそ、こんなところでなにやってんだ。教室にいないから、保健室かとみんな思ってたんだけど」
 制服は更衣室に置きっぱなしだし、鞄は自分の席に置いてある。まあ、そう思われるのが妥当なところだろう。私は平凡だがそれなりに真面目な生徒なので、まさかさぼりだとは思われなかったようだ。……まさか、体育用具室にいるだなんて思ってた人もいないだろうけど。
「いや、あのね、うっかり閉じ込められちゃったから、誰か開けてくれるのを待ってたんだけど」
 それを聞いてほしぞらくんは驚いたように目を丸くして、それから、はああと大きく溜息をついた。
「おまえ……落ち着きすぎ。誰も来ないかもとか思わなかったのか?」
「だって、部活があるから誰か開けに来るでしょう。来なかったら来なかったで、窓から出ればいいやと思ってたし」
 と私は、上方にある明り取りの窓を指差して見せた。
 私一人なら楽々通り抜けられる大きさの窓である。難点は少々高いところにありすぎることだ。まあ、いざとなればマットレスや跳び箱を積み上げてよじ登れるかな、と私は考えていた。
「おまっ……」
 しばし絶句したあと、ほしぞらくんは、変なやつ、と呟いてぶふっと笑った。
 その笑いを、私は居心地悪く眺めている。
 人は成長するものだなあと思った。幼稚園の頃は、女の子どころか同じ組の子と話すことさえ難儀していたあのほしぞらくんが。彼は極度の赤面症と上がり症と人見知りで、よくからかいの種になっていた。周りにいた、わずか五つばかりの園児たちは、彼がつっかえながらも一生懸命しゃべるのを、最後まで聞いていられるほど忍耐強くなかったのだ。
 だから、彼の相手をしていたのは、ほとんど私だけだった。私はといえば、自由奔放で良くも悪くもマイペースで自分勝手なママのおかげで、幼くしてすでにその忍耐力は磨かれていた。母子家庭だったので、その影響力はいかばかりか、といったところ。ちなみに私は、その好き勝手しているママの事をとても愛している。憎めないキャラクターなのだ。
 私が、ほしぞらくんとの関係を気づかれないようにしているのはそういう理由もある。彼が昔、上がり症でちびで、ひ弱そうな男の子だったなんてことを知っているのは私ぐらいだろう。小学校に上がる前に彼は引越し、高校で再び一緒になった。幼稚園時代の彼は、としくん、と呼ばれていたし、いまの彼と昔の彼を結びつけるような人はいないと思う。だいたい、十数年前の一年間だけ一緒だったおとなしい男の子のことを覚えている人などそうそういまい。彼はその引越しの後、中学卒業までの時間を県外で過ごし、また親の転勤で戻ってきたのだそうだ。
 私が彼をほしぞらくんと呼んでいたのは、彼の名をいたく気に入った私のママの影響である。おかげで、高校に上がり、彼の名前をクラス分けの掲示板で見たとき、あのほしぞらくんだと知った。しかし彼はすっかり面変わりしており、私は気後れしてしまったのだ。
 だから接点を持ったのは三年生になって、同じクラスになってからだ。でも彼の過去を私が知っているということが彼を気まずくさせると思って、気づかれず関わらず過ごしてきたというのに、こんなところでとんだ失態を演じてしまった。うむ、不覚だ。
「田仲?」
 黙りこんだ私を不審に思ったほしぞらくんが、ふいと顔を覗いた。急に彼の顔が近づいて、私ははじかれたように立ち上がった。
「あれ、田仲って……」
「な、なに」思わず身構えてしまう。
「俺の好きな人にちょっと似てるかも」
「はあ?」
 私はちょっと苛立ちを覚えた。私がばれないように心を砕いているというのに、あんなに内気な男の子だったくせに、そんなこと言って人をからかうってどういうこと!
「それって、俺には好きな人がいるから、ちょっと親切にしたぐらいで勘違いするなよっていう牽制?」
 と言ってやると、そういうつもりはなかった! と顔を赤らめて彼は弁解した。赤面症はまだちょっと残ってるのかな。私も意地の悪いことを言ってしまってちょっと後味が悪かったので、快く許して、御礼を言ってその場は去った。


 ささいなエピソードのひとつとして終わっておけばよかった話だが、あれ以来、どうもほしぞらくんの話しかけてくる回数が増えて、私たちはちょっぴり仲良くなって、私は大いに困惑している。
 ほしぞらくんは、おとなしく真面目だと思っていた私の印象が違っていて面白かったので、興味を持ったのだと言う。
 私はいつばれるかとびくびくしていたが、そもそもほしぞらくんの方から幼稚園時代の思い出話を振ってくるようなわけもなく、日々は平和に過ぎていた。その一方で、彼をだましているようで心苦しい思いを味わっていたことも事実である。
 あんまり仲良くならない方がいいかなあ、やりにくいなあ、と思っていたそのころ、三者面談の日がやってきた。
「カノンちゃん、ごめんー!」
 その日、上履きのまま、じりじりと玄関ホールでママを待っていたら、やっと当の本人が駆け込みながらやってきた。
「ママ、遅いよ! 仕事だからって一番遅い時間にしてもらったのに、遅刻なんてしたら先生に悪いよー」
「だからごめんってー」
「あと、学校でカノンちゃんって呼ばないでよ」
 ここはしっかりと釘を刺しておく。私の名は千寿ちずという。断じてカノンではない。おばあちゃんが付けてくれた名前で、私はわりと気に入っているのだが、ママには可愛さの点で少々物足りなかったらしく、昔から私をカノンちゃんと呼んでいるのだ。私の名はセンジュという字を書くので、観音様という連想をもじってカノン、ということらしい。
 もともとカノンという名前なら可愛くって結構なことだが、自分の名前でもないのに――しかも私の名前は純和風だ――そう呼ばせているなんて周囲に思われたくない。だから学校でそんな呼び方をされたくないのだ。
 ともあれ、遅刻ぎりぎりになってしまったので、私はママを急かせて階段を駆け上った。
 三者面談は教室内で行うため、順番待ちの親子は廊下に並べられた椅子に座って待っている。でも私たちはぎりぎりで駆け込んだ上に、その日最後の組だったので、廊下にはもう、誰も待っていなかった。教室のドアに一番近い椅子に、私たちは腰を下ろした。
 そのとき、がらりと教室のドアが開けられた。直前の組の面談が終わったらしい。ともあれ間に合って、私はほっと息をついた。しかし、安心するのはまだ早かったのだ。
「大葉さん、お疲れ様。次は田仲さんだな」おっとりした風情の担任教師がのんびりとのたまう。
 母親とそろって顔を出したのは、くだんのほしぞらくんだったのだ。私の口の端はひくりと引きつった。まずい。
「大葉さん?」
 人の顔と名前に関しては抜群の記憶力を誇るママが、空気を読まずに口を開いた。
「あの、どちらかでお会いしましたでしょうか」
 ママの呼びかけに反応して、ほしぞらくんのママが、戸惑ったように口にする。
「あら、やっぱり大葉さんだ。ほしぞらくんのママでしょう! あら、じゃあこっちの子がほしぞらくん? やだー、おっきくなっちゃって。覚えてないかしら、幼稚園で一緒だったでしょう、うちのカノンちゃんと」
――あら、カノンちゃんって幼稚園の。まあ、その節はお世話に」
 ほしぞらくんのママの目に、理解の光が閃いた。そのまま母親組は、主婦のおしゃべりになだれ込もうとしていた。
 まずい。これは、相当にまずい。
 ちらりとほしぞらくんの様子を窺うと、彼は呆然と立っていた。
「……カノン、ちゃん?」
 少し、不思議そうな声色。……そうか、私が思っていたほどには、彼は私のことを覚えていないのかもしれない。一瞬だけ、残念な気分が胸をよぎったけど、それならそれで、まあ最悪な事態ではない。
 ――ああ、覚えてないよね、十年以上も前のことだし。って言えばこの場の雰囲気は流れるかな。
 そう思って、「あ」の形に口を開いた途端、
 ――ほしぞらくんの顔が、ガッと一瞬にして真っ赤に染まった。
「え」
 私は二の句が告げない。これは、どういった反応なんだろう。
 真っ赤になったまま、ほしぞらくんは口をぱくぱくと開け閉めしたが、言葉はひとつも出てこないようだった。
 黙っているほしぞらくんに気づいて、彼のママが、「ほら、覚えてるでしょう、カノンちゃん。ご挨拶ぐらいしなさいな」と促した。
 そして、ほしぞらくんは――そのまま背を向けて逃げ去った。長距離選手とはいえ、鍛え抜かれた脚力は、彼の姿を一瞬にして廊下の彼方に遠ざけたのである。
 取り残された母親組と私と担任教師は、少し気を殺がれたが、すぐに本来の目的を思い出した。すなわち、ほしぞらくんのママは帰途につき、残りの私たちは教室内へ移動したのである。


 その次の日、朝の予鈴と共に教室に入ってきたほしぞらくんは、自席に鞄を置くと、私の方を向いた。
「あの、カノ――
「待った!」
 小さな声で鋭く私は諌め、距離が近いのをいいことに、思わず片手で彼の口を塞ぐ。
――その呼び方は、なしだから。あと、昼休みに屋上」
 必要事項だけをさっさと告げ、私は視線を前に戻す。その頑なな気配を感じたのか、ほしぞらくんも口を閉じた。
 しばらくして鳴り出した本鈴を聞きながら、私は机に突っ伏した。――私の、静かな学園生活を返せ!
 案の定、休み時間に私の机に群がった友人たちが、ほしぞらくんとの関係をしつこく尋ねてきたが、なんと答えていいのやらわからず、結局曖昧に誤魔化して終わった。まだ、ほしぞらくんが過去のことを隠しておきたいのかどうかよくわからなかったからだ。私自身、下手に情報の餌をまいて、注目を集めたくなかったということもある。
 ともあれ、昼休みに購買でパンを購入し、それを持って屋上に行くと、すでにほしぞらくんは待っていた。
――あれ、早いね。ご飯は?」
 手ぶらのほしぞらくんに尋ねると、彼はゆるゆると首を横に振る。「食べたほうがいいよ。いっこあげるね」そう言って、あんぱんをひとつ、ほしぞらくんに放ってやった。
「……あの、昨日は、ごめん」
 歯切れ悪く、ぼそりとほしぞらくんは言う。
――ああ、いいよ。上がって声出なくなっちゃったんでしょ?」まだなおってなかったんだね、上がり症、と言うと、それを受けてか彼は見る間に真っ赤になってしまった。
「あの、カノンちゃんって、本当に……?」
「そうだよ。私の方はほしぞらくんに気づいてたけど、気まずいから黙ってた。過去のこと、なかったことにして忘れたいんならこの先も黙っとくけど。どうする?」
「どうもこうも……だって俺、カノンちゃんのこと、夢かと思ってた」
「はあ?」
 予想外の言葉に私は唖然とする。ほしぞらくんを見上げると、本当に戸惑った顔をしていた。いい歳して、順調に成長しておいて、迷子の子供のような顔をするとは。ほしぞらくんは上手い具合に育ったので、その表情は本当に似合わない。
「俺、小学校入りたての頃はなかなか友達ができなくて。カノンちゃんのこと、心の支えにしてたんだ。カノンちゃんだけは、みんなと違う俺を許してくれたから。どこかに俺を受け入れてくれる人がいるっていうのは、すごく心強かった。それで頑張れたんだけど、そのうち、本当にカノンちゃんが実在してたのかわからなくなっちゃって。記憶はすごく曖昧だし、それに――あまりに俺に都合が良すぎたから」
「夢じゃないよ。私、ここにいるし」
 変わった思考回路してるなあ、と思いながら、私は手を差し出してみせた。
 その手を、ほしぞらくんは恭しく両手で握り締める。その手は、少し汗ばんでいた。
「カノンちゃん……あの、カノンちゃんが嫌だったら学校では話しかけないから、ええと……好きでいてもいいかな」
「え? ……いや、いいけど話しかけても。でも、みんなの前でカノンちゃんって呼ばないでね! 本名あるのに全然違う名前で呼ばれるのすごく恥ずかしいんだから、ほんと」
 わかった、とほしぞらくんは頬を桜色に染めたままはにかんだ。
 私も、へへ、と笑い返した。ともあれ、古い友人とまた親交を深められるのは嬉しいことだ。


 ――しかしその後、さらっと流した「好き」という言葉が、友情の意味じゃなかったことを私は知る。

<了>


novel

2009 09 07