四面楚歌。

温泉の罠

「うはー、極楽極楽」
 肩まで湯につかり、ガイアは思わず常ならぬ気の抜けた声を上げた。
 身に沁みるような熱さが身体に浸透していく。
 彼は湯治に来ているところだった。とはいえ文字通り病にかかったわけではなく、疲れを休めるためで、つまりは単なる慰安旅行である。
 ガイアは霊峰にある神殿に雇われた、神の子サマラの教育係である。神殿とは言っても名前だけの小ぶりなもので、そこに直接住んでいるのは二十人ほど、あとは麓からの通いが数十人いる程度のささやかな場所だ。教育係の名もそう大げさなものではなく、神の子を外部の者に馴らす程度の話だという。サマラがガイアに馴れてきたため、週六日の授業も最近では週四日に減っていた。
 つまりはまとめて休みが取れるということで、ガイアは骨休みに温泉旅行を思い立ったのだ。
 しかし思惑通りにのんびり一人旅――という次第にはならなかった。
 温泉に興味を持ったサマラが付いてきたがったのだ。ならば当然、世話係のリニが付いてこないはずがなく、神の子を心配した爺さん連中が付いてこないはずもなく、当初の予定より少しばかり大所帯となった。
 予定は狂ったが、サマラの相手はリニがすると言うし、一人の時間を邪魔さえされなければそんなに困らないか、と判断して来てみたガイアである。
 些事は気にかけぬことにして、ガイアは温泉の湯を楽しんでいた。ところだったが――
「ふむ、少し熱いのが難だが、なかなか気持ちが良いな」
「うおっ、あ!?
 傍に聞こえた幼い声に驚いて、ガイアは普段の上品さをかなぐり捨てた声を上げた。ついでにザバッと立ち上がりかけたが、途中ではっと気づいて身体を湯に戻す。
「な、な、何をしておられるのですっ、こんなところで!」
「何って、温泉に来たのだから湯につかるのは当たり前だろう」
 心外だと言わんばかりに幼い声を上げた口元が尖る。それを見て、ガイアはああああと息を吐きながら頭を抱えた。もちろん、声の主はサマラである。
 ガイアが問いたいのは温泉につかっていることではなく、何故自分と同じ湯に入っているのかということだ。
 湯けむりと白濁湯のおかげで、お互いに見えてはならないところが見えているわけではないが、混浴だなんて、聞いていないにもほどがある。
 少年にも見える中性的な容姿のサマラだが、ガイアと出会った頃と比べると最近は髪が伸びて、女の子らしさが少しばかり勝っている。濡れた襟足や白い首元、どこを見ればいいのか困惑して、ガイアの視線は中途半端にさまよった。
「私がここの湯に入っていることは告げておいたのですが……リニ殿からは何も言われなかったのですか?」
 恐る恐る、ガイアは尋ねる。この状況を故意だなんて思われては名に傷が付く。せめて、言い訳できる情報が欲しかった。本当に、自分は知らなかったのだ。サマラが入ってくるなどと。
「ふむ、少しばかり問題が起こるかもしれないが、すべてガイアが良いようにしてくれる、自分たちも協力を惜しまない――と言っておったぞ、リニと爺様連中が」
「外堀から埋めにかかってるっ!?
 既成事実狙いだなんてひどい、とガイアは泣きごとを吐いた。落ち込んで湯に沈みそうなガイアを見て、やっとサマラもあまり歓迎されざる状況だということに気がついたらしい。
「すまない、私の行動が何かまずかっただろうか……」
「……悪いことはなさっていませんが、せめてもう少し慎みを身につけてくださいね……」
 泡になりそうな溜息に溺れて、ガイアはもう一件重大な事実に気付かなかった。
 ――湯から上がるときに、もうひと苦悩を免れないということを。


novel

2011 10 02