はざまの桜咲く

 風が吹いている。生温くも、冷たくも感じる風が強く吹き付ける。
 獣の遠吠えのように、咆哮のように、ヒュオウとあるいはゴウゴウと空が鳴く。
 確かに晴れているのに、空の色は少しくすんで、どこかに雨の気配が紛れ込んでいるかのようだった。
 あちこちで起こる歓呼の声が、すすり泣きが、カメラのシャッター音が、耳をざわつかせる。
 ――卒業、するんだなあ。
 不思議な心地とともに、あかりは実感した。
 彼女は制服の群れから離れ、ひとり校舎へと疾走した。悠介ゆうすけの姿が見当たらなかったからだ。「みんなの藤原くん」として教室内に君臨するムードメーカーの悠介は、実は肝心なときには集団の中にいない。
 ときに球技大会後の打ち上げめいた盛り上がり、ときに文化祭最終夜メインのキャンプファイヤー、いつも悠介はいない。姿を探せば、屋上や体育倉庫前の段に、缶ジュース片手にひとり座っている。
 あかりは疾駆する。むせび泣きを通り過ぎ、抱き合う群れを横目に、目当ての第二ボタンをむしりとるハンターの山をかき分けて。あかりは息を切らして靴箱にたどり着く。
 途端、世界は静寂への境界線を踏み越える。
 廊下を奥へと歩むごとに、静寂は色濃くなる。あかりは思う。こんなにも晴れがましく切なく、喧騒と静寂が隣り合わせの行事など、三年間のうち、今日この日しかあるまい、と。
 校舎内は静かで薄暗かった。未練を残す者は日の下で尽きる時間を惜しむように友人や恩師と語らい、未練を振り切ったものはこの地を後にする。用事の済んだ在校生はさっさと帰っていく。だから、校舎内にはひと気がない。
 外の喧騒は、とても、遠いもののように聞こえた。教室内で授業を受けているときの、屋外で体育の時間割に振られたクラスの喧騒を聞くように。きちんと聞こえているのに、外の音はまるで別世界だ。
 悠介はきっと、この空気が好きなのだろう。だからいつも、最高潮の盛り上がりのときにいなくなるのだ。それとも、もしかしたら、とあかりは思う。悠介は蚊帳の外に居たいのかもしれない。彼のムードメーカーぶりは演技だ。すべてがそれではないけれど、悠介は盛り上がりに我を忘れない冷静さを常に持っている。だから、最後の最後で、シンクロする集団の中に同調できない自分を発見するのかもしれない。
 それは、あかりもそうだった。しかし、あかりは学年に何人かはいそうな、成績は上の下で、誰とでもそれなりに仲が良いけれど男子のからかいの種には決して上らないような、おふざけの輪には入れてもらえないたぐいの女子だった。あかりは、悠介のように、一緒に破目をはずしてくれるだろうという無言の期待には晒されない。
 午前中が終わるまで、確かに自分の教室だった部屋にたどり着くと、そこに悠介がいた。明かりを灯さない薄暗い部屋で、窓を開けてカーテンが揺れる、そんな窓際に頬杖をついて、悠介は静かに外を眺めていた。
「……ゆうちゃん」
 声をかけると悠介は振り向いた。あかりさん、と応えてへらっと笑う。
 窓を背にしたまま、悠介は後ろ手で窓枠に手を添える。悠介の笑みが、逆光にかげる。
「あかりさん、卒業おめでとう」
 悠介は言う。彼は、初めて会った四つばかりの頃から、あかりのことをこう呼ぶ。彼は当時、ご近所で有名なマセガキだったので、あかりに、つまり女性に敬意を表する意味でそう呼んだのだろう。
 女子にはなかなか馴れ馴れしい悠介であるが、やたら親しげなだけで、無理やりにその距離を詰めようとはしていない。大抵の女子のことは、名字にさん付けで呼ぶ。
 あかりは悠介のいる窓際へと近づく。薄黄色のカーテンがまた、風に煽られふわりと揺れた。
「ゆうちゃんも、卒業おめでとう。それから、合格も」
 うん、と悠介は頷く。二人とも、受験した大学には受かっていた。幼稚園、小学校、中学校、高校、と今まで一緒に過ごしてきた二人は、ついに別々の道を往く。
「ゆうちゃん、下宿先は決めた?」
「まだ。ある程度、目星は付けてあるけどね」
 悠介は県外の大学に行く。新幹線に乗るほど遠くはないけれど、片道二時間半ほどの、少し遠くなる距離に、あかりの目が潤む。幼なじみではあるが、ちょっとした仲良しさん程度の距離でとどまっている二人は、物理的な距離が離れてしまえばほとんど会うことはないだろう。
「ゆうちゃん、部屋が決まったら……遊びに行っていい?」
 勇気を出した言葉は、だめ、の一言にあっさり切り捨てられた。どうして、と問うと、
「だめだ。あかりさんは、俺なんかとそんな、誤解されるようなことはしない方がいい」
 食い下がろうとした言葉は、続く言葉を見つけられなくて、あかりの咽喉の奥にこくりと呑み込まれた。
 誤解される、という意味はわかる。悠介は軟派な性格をしていて、誰彼かまわず、女子をデートに誘うのだ。応じるのは大抵、悠介に友情程度の好意を感じていて、面白半分に乗ってくれる女子である。高校の頃には既に、悠介はそういうキャラクタとして定着していたので、真面目に付き合うつもりで応じる女子はいなかったといっていい。つまり、悠介は“軽い”キャラクタとして認識されていたのである。
「でも……でも、ゆうちゃん」あかりは、窓枠に乗せていた悠介の手に、そっと自分の手を重ねた。「私が、いいって言ってもだめなの」
「だめ」
 悠介の言葉が震える。ぴくりと動いた掌は、それでもあかりの手を振り払おうとはしなかった。
「俺が、なんのために軟派な性格気取ってると思ってんの。あかりさんに、手を出さないためでしょ」
 自分がこういう人間だと、あかりには相応しくないと、己に常に思い知らせていれば、手を出さなくて済む、と悠介は言う。
「そん、そんなの――だって」
 あかりには初耳だった。自分が距離を詰めようとしても上手くいかなかったはずだ。悠介にその気がなかったのだから。
「勝手に、勝手に決めないで、そんなこと。ゆうちゃんはいつもそうだよ、初めて会ったときから。勝手に線を引かないで。勝手に、私をガラス細工みたいに扱わないで。私はそんなに、綺麗でも脆くもないよ――
「でも、やっぱり、あかりさんは俺とは違う」
 それは、相手を尊重しているように見せかけた拒絶の言葉だ。あかりにはそうとしか聞こえなかった。
「じゃあ、どうすれば対等になれるの? 対等に私を見てくれるの?」
 あかりは、触れていただけの悠介の手を両手で握り締めて、己の頬に当てた。
「あかりさん――
「たくさんの男の子と付き合えばいいの? それとも、夜な夜な繁華街で遊び歩くような子になればいいの?」
「だめだ!」
 その拒絶は、さっきまでの「だめ」に比べてどれよりも強かった。
 悠介の身体はずるずると崩れ落ちて床に座り込み、諦めたように首を垂れた。盛大な溜息とともに情けない声が吐き出される。
「くそ、俺の心臓を止める気か。もうわかったからそのままでいて――いや、いてください。お願いします」
「じゃあ、ゆうちゃんを好きでいていい?」
 もうどうにでもしてくれと言って――悠介はそっとあかりを抱き締めた。

<了>


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2009 03 08