朝の予鈴が鳴った頃、恵の教室に一人の女生徒が顔を出した。
「恵先輩ー」
声をかける下級生に、恵のクラスの女子たちは軽い失笑をこぼした。朝の、こんなわずらわしい時間帯に、しかも目立つ教室内で、恵が女子の呼び出しに応じるわけがない。
しかし、室内の予想に反して、恵は立ち上がるとすたすたと戸に近寄った。
「先輩、図書室にペンケースお忘れでしたよ」
はいどうぞ、と女生徒は恵に忘れ物を手渡す。
「ああ、わざわざすまない。いや、助かった、ありがとう」
礼を述べ、恵はわずかに微笑んだ。
その瞬間、教室内は、恵が女子に三語以上しゃべった! 笑った! と震撼した。
「では、朝のホームルーム始まっちゃうのでこれで!」
要件を済ませると、その女生徒は時間が惜しいとばかりさっさと立ち去った。廊下で、恵は彼女の姿が見えなくなるまで見送る。それから、静かに教室内に戻った。
席に着いた恵に、友人の遊馬が近寄った。
「あの子が例の、苑江さん?」
こっくりと恵が頷くと、遊馬はなるほどねえ、と顎をかく。
そのタイミングで丁度、本鈴が鳴り響いた。
最近、恵は苑江叶子に、遊馬は上坂一葉に、普通程度以上の好感を持っていた。彼女たちは彼らになんらの要求もしない。それが妙に心地好く、居心地が良かった。
彼女たちの名前の他には、制服のリボンの色から二年生だということがわかったぐらいである。普段の交流から、本好きだということはわかっているが、それ以上のことは知らない。彼らは、女子というものは訊きもしないことまで自分から語る人種だと思っていたので、聞き出す会話の術を持っていなかった。本命に臆病なのは世の常である。どこまで問うていいものかまったくわからないため、何も訊けずにいまに至る。
溜息をつきそうになって、恵は慌ててそれを呑み込んだ。彼は今、叶子と歩いている。廊下でたまたま会い、行き先の方向が同じなので一緒にいるだけなのだが、彼女と居てつまらないと誤解されてはことだ。
ふと目の前の職員室の戸が開き、遊馬と一葉が顔を出した。彼らも、たまたま職員室内で一緒になったらしい。
挨拶代わりに軽く右手を挙げ、恵はこのまま遊馬らと合流すべきか躊躇した。人が増えて話しやすくはなるが、叶子とふたりきりの機会を奪われてしまう。瞬間、走り合わせた視線で、遊馬が同じ思考に至ったことを理解した。
さて――と思ったところで、相手に反応したのは叶子だった。
「一葉ちゃん!」
「かな!」
二人の女子は走り寄って、ひっしと抱き合った。瞬間、彼女らの周りにだけ女子校ノリの空気が漂う。恵と遊馬は完全に置いてけぼりを食った。
「……知り合い?」
恐る恐る、といった調子で彼らは二人に尋ねる。いまや彼らは完全に面食らっていた。叶子はあっさりさっぱりな女子ではなかったのか。一葉はクールな女子ではなかったのか。こんなにフレンドリーだったとは聞いていないぞ。
叶子と一葉は友人同士らしい。出身中学が同じだが、現在は同じクラスではないので、会わない日もあるのだという。一葉が帰宅部で、叶子が図書委員のため、タイミングが合わないと一緒にも帰らない。仲が良い割に、ちょっと変わっている。
「なんか俺たちと居るときと態度が違うよねえ」
遊馬は軽く口にしたが、内心はばくばくものである。
「それはそうですよ。女の子の友達と、男の先輩に対してと、態度が同じわけないじゃないですか」
叶子も笑顔で軽く返す。
普段ならここで、「先輩、私、馴れ馴れしいと嫌われちゃうんじゃないかって思ってたんです、いいんですか、嬉しい、実は私先輩のこと……」という展開になったりならなかったり。
こっちに脈がない子を相手にするのって、なんと難しい。と彼らは嘆息する。
「一葉ちゃん、久しぶりに一緒に帰ろっか」と叶子が口にする。今日は図書カウンターの当番ではないらしい。
そうしよう、と盛り上がる二人に、
「喫茶店にでも入ろうか」
「奢ってやるから」
と遊馬と恵はなんとか下校の約束に滑り込んだ。
ティーカップ片手に世間話に花を咲かせる叶子と一葉の様子を眺めつつ、恵と遊馬はどうしようかと思案していた。
二人の会話の邪魔をするには忍びないし、かといってこのままではただの財布係である。
はあ、と思わず吐いた遊馬の溜息を、幸か不幸か叶子が聞きとがめた。
「あ、ごめんなさい、私たちだけで盛り上がってたら悪いですよね」
そう言われたら、そんなことないよ、と首を横に振るよりほかに仕方がない。
「先輩方って、いい人ですよねえ」と叶子はにっこりした。
そう言われた二人は目をしばたたいた。今日の支払いのことではないらしい。攻撃的な恵と、相手を煙に巻く遊馬の、どこがいい人だというのだろう。
「一番楽な方法を選ばないですよね」と一葉も口にする。
「楽な方法?」
恵と遊馬は顔を見合わせる。双方、心当たりはない。
「先輩方ってもてますよね。でも、それが嬉しいとは思ってない。放っておいてもらえるのがいいんですよね。そうすると、誰か一人を選んで付き合っちゃうのが一番いいじゃないですか。告白されても、彼女がいるから、で断ればいいわけですし、彼女がいれば寄ってくる人も減りますよね」
叶子が言って、紅茶をひと口飲んだ。
それは、二人とも考えなかったわけではない。しかし、その方法を取るのはやめた。それは、ないがしろに隠れ蓑にされる当の女子が可哀想だと思ったわけではなく、単に好意の欠片もない相手と付き合うのがおぞましいと思っただけのことである。
「安易な方に流れないからいいですよね」
と誤解まっしぐらな一葉の言葉を聞いて、恵と遊馬は意図せぬ予防線に気づいた。
つまり、このあと、彼女らに安易に声をかけてしまうと、隠れ蓑にされるのだと誤解される恐れがある。
――もてるのって、本当に、損だ。と二人は痛感した。
<了>
2009 02 08