泣く娘

 最近、アレフは泣かなくなった。
 以前はひと気のない木陰を探し歩き、定期的にこっそり泣いていた。その姿を見苦しいと思う者がいるからこっそり、だったわけで、アレフ自身はみっともないことだとは思っていなかった。彼の涙は、悲しさや悔しさに付随する涙なのではなく、泉が滾々こんこんと湧くように身の内からあふれ出るものだったからだ。
 それは澱を流すように生理的なもので、感情的なものというよりはむしろ無感動なものだった。泣くときの彼は無表情だといってもいいぐらいなのだ。それはそれでシュールではある。
 それは何につけ感情移入しやすいアレフが、その感情に振り回されて壊れないように、感情を殺す術を覚えたその反動だった。きりきりと感情を抑制し、その糸がふつりと切れたときが泣き時だ。身の内の抑圧を緩衝させるもの、弁のようなものだとアレフは自分でも諒解している。
 ではそれが、なぜ涙なのか。
 泣かなくなって初めて、アレフはそのことを考えた。誰だって身に抱えた鬱屈があるならば、それを晴らす術を心得ているはずである。剣を振る者、酒を呷る者、甘味に安らぐ者、女に逃げる者、解消法は数あれど、二十歳をいくつも過ぎた歳の男子には、泣くという方法はかなり特殊である。
 泣かなくなって初めて、アレフは理解した。鬱屈の解消法を『薬』に例えれば、泣くというのはかなり強い薬なのである。澱が身の内に溜まり、行き場がなくなってどうしようもなくなったとき、アレフは泣くという方をとる。わずかばかり泣いて気が静まれば、また神経を研ぎ澄ます。それに割く時間は短いといってよい。『強い薬』でなければアレフには到底効かなかったのである。
 それに気づいたのはエミリーの存在があったからだ。気に障ることや嫌なことがあったとき、アレフはそれを態度に出さない代わりに、身の内に溜め込んでしまう。エミリーはそうではなかった。彼女はそれをたいしたことではないと笑い飛ばしてしまう。それができなければ逆に、素直に憤ったり愚痴を言ったりする。ときには落ち込むこともあるが、そんな暇にできることがあるだろうと、なんだか落ち込んでいることが馬鹿らしくなってしまうのだそうである。
 エミリーの感情に触れて、アレフはそのうちに泣かなくなった。それは、彼女を見習ったからではなく、彼女といれば安らぐ自分を発見したからだ。例え泣いたところで、常と何ら変わりない態度で普通に相手をしてもらえる。彼女といれば気を張る必要はない。つまり、アレフの『薬』はエミリーに取って代わったのである。
 それ以来、アレフは泣くための木陰を探す必要がなくなった。
 そんなある日、異変が起こったのはエミリーの側である。


「……なんだこれは」
 アレフは憮然として呟いた。状況が理解できない。
 ジェイがひどく慌てた様子でアレフを呼んでいた、という伝言を同僚のティオより受けて酒屋兼料理屋に駆けつけてみれば、このありさま。
 わんわんと泣くエミリーを、ジェイが必死でなだめていたところに、アレフは踏み込んだのである。
「あ、アレフ」
 入口に足を踏み入れたアレフに気づき、ジェイはほっとした様子で振り返る。そこに、アレフはどかどかと一直線に床を踏んだ。
 口を開きかけたジェイに、状況説明の隙すら与えず、アレフはすかさず彼の襟元を締め上げる。
「なにをした」
「待て、ま、て、って、話すから……」
 首元を絞められて紅潮するジェイを見やり、アレフが手を離すと、ジェイは床に崩れ落ちてごほごほと咳き込んだ。
 アレフはその日、兵士のジェイがエミリーを食事に誘ったことを知っていた。
 嫌がらせのために強引にエミリーを誘った前科があるジェイであるが、アレフに殴り飛ばされてからは心根を入れ替え、エミリーにも謝罪したらしい。今回の様子からみても、心配するようなことはなかろうと、アレフは彼らの会話を横目に通り過ぎた。
 ――はずだった、のだが。
 ジェイには信頼を裏切られ、エミリーはなにやら穏やかならぬ様子である。アレフが多少苛立ったとしても、仕方のないことと言えよう。
「違うって! 俺は何もしていないって。エミリーちゃんが酔っ払っちゃったんだよ……泣き上戸だったみたいで」
「言い訳はそれで仕舞いか」
「ギャーやめてアレフ! 謝る! 謝るから俺が! 悪かった!」
 アレフの目の剣呑な光に、ジェイは震え上がってへこへこ謝った。
 泣いているのはエミリーの酒癖の所為だということはわかった。しかしそもそも、酒を飲ませることが間違っているのだ。エミリーはまだ酒を飲める年齢に達していないはずだし、よしんば彼女が成人していたとしても、一対一の席で女性を前後不覚に酔わせるなど、外聞が悪すぎる。
 ただ、真相は、エミリーが少々酒に興味を覚えたかジェイが悪乗りしたかした挙句、引き時を見誤ったというところであろう。
「悪かったよ。でも、いまは俺よりもエミリーちゃんだろ……」涙目でも、ジェイは言うことはしっかり言う。
 ジェイを締めている間に落ち着きを取り戻したアレフは、ようようエミリーに視線を戻した。
「エミリー?」
 さきほどまで泣いていた娘は、いまはぴたりと静まっている。
 アレフが顔を覗き込むと、さっと逸らされた。エミリーは、両手で顔を覆って背を向けてしまう。
「どうした」
「どうもしません……なんでもないです」
 エミリーは硬い声で応える。声にかすかに震えが混じっている。酒が尾を引いて、まだ涙が止まらないのだろう。手の甲で涙を振り払って、エミリーは無理に涙を止めようとする。しゃっくりを呼んで、咽喉がひくんと鳴る。
「無理に泣きやまなくてもいい」
 そうアレフは声をかけた。涙としゃっくりと声の震えを止めようと、必死なエミリーが呼吸困難に陥ってしまうのではないかと危惧したからだ。
「駄目です……だって泣いてたら、アレフさんに嫌われちゃいます」
――嫌わないが」
 虚を衝かれた。
 アレフも黙ってしまい、場に沈黙が訪れる。店内の酒の匂いを、いまさらのように強く感じた。
 それに触発されたのか、場をとりなすようにジェイが口を開く。「ええと、泣くと嫌われるっていうのはどうしてかな、エミリーちゃん」
「……私は、アレフさんが泣くことを知ってます。アレフさんのそういう姿を知ってる私が、こんなにみっともなく泣くところを見せたら、きっと嫌われます。こんなやつに自分の弱みを見せてたのか、ってそう思うに決まってます――ただでさえ、最近避けられてるのに……」
――え」
 話が明後日の方向に向かっている。
「んんー?」エミリーの方に屈みこんでいたジェイが、思わず直立不動になったアレフを振り仰ぐ。「なにかしたのは、おまえの方か」
――し、していない。だいたい、避けた覚えもないが」
 形勢逆転である。酒を飲ませて酔わせて泣かせたのはジェイの方なのに、なぜアレフが責められる展開になっているのだろう。
「……だって、最近、会いに来てくれないし」
「そんなに会っていないことはないだろう」
「会ってないですよー!」
 エミリーはいきり立って、こちらを振り向いた。
 ふむ、とアレフは顎をひねる。考えてみれば確かに、ここのところ泣きに行く回数は激減している。ほぼなくなったと言っていい。泣くための木陰を探す必要がなくなったということであり、取りも直さずエミリーに会いに行く機会が減ったということでもある。
 ――泣く必要がなくなったのだ。
 それはエミリーのおかげであったのだが、それゆえに彼女との邂逅がないとは、皮肉な話である。
 しかしアレフにはエミリーとの遭遇が減ったとの思いは希薄である。なぜなら、同じ城内に勤める者同士であるから、道行きにすれ違ったり見かけたりといった回数はそれなりにあるのだ。
 そのたびにアレフは、ああ今日も頑張っているなあ、と心が安らぐ思いがするのだが、エミリーにとっては違ったらしい。
「だって、ほんとに、久しぶりなんですよう……」
 言っているそばから、エミリーはまたも目に涙を浮かべていた。
――ああ、なるほど……」
 思い至って合点したアレフはぽつりと呟く。エミリーは人の顔と名前を覚えるのが苦手というだけあって、極端に視野が狭いのだ。仕事に集中すれば周りが見えなくなってしまう。だから、すれ違ったところでアレフに気づいていなかったに違いないのだ。初対面の時、木陰のアレフに気づいたのは奇跡的な確率だったのかもしれない。
「わかった。ではもう少し、会いに行くことにする」
 すんなり応じたアレフに、ほんとですかあとエミリーは笑みを見せた。これにて解決である。
 成り行きを見守っていたジェイも、ほっと息を吐いた。
「なんかおまえらって、進展したいのかしたくないのかわかんねえな」
「なんの話だ」
 不審そうにそちらを見やったアレフに、ジェイは大きく溜息をついてみせた。「わかんないならいいっすよお。もう、おまえら、ゆっくりしてけば。俺帰るから。そんで会計よろしく」
「却下だ」
 即座にばっさりやったアレフに、まあ、いいけどさ、と呟いてジェイは懐の財布を探りつつ帰り支度を始めた。

<了>


novel

2009 07 28