泣く男

 空はすかっとした気持ちのいい晴れ模様だった。
 青空に白の色を差すように、エミリーはシーツをばさっと広げる。
 彼女はお城で働いている。朝起きたら洗濯、お昼ご飯まで洗濯で、午後は床磨きと皿洗いだ。
「うーん、いい天気ー!」
 エミリーは思い切り伸びをした。晴れた日の洗濯は気持ちがいい。天を向いた鼻の頭のそばかすだって気にならない。
 パンッと皺を作らないようにシーツを広げて、籠一杯のそれを干す。
 そのころになるとちょうど、遅れた洗濯物を持った連中が現れる。
「エミリーちゃん、これも頼む!」
「もう、汚れ物はちゃんと夜に出してくださいって言いましたよね?」
「すまん、でも今日の演習が終わったら明日着るものがなくなるんだあ……!」
「今回限りですからねー、そっちの籠に入れておいてください」
 と言いつつエミリーは別段気分を害しているわけではない。なにしろ日常茶飯事なのだ。この程度で腹を立てていては仕事など出来ない。女性陣はその辺りを心得ていて、シーツやタオル以外の汚れ物がたくさん出てくるようなことはあまりない。みな、自宅や寮に持ち帰って洗うとか、少なくとも下着は手洗いを実行している。下着も、泥まみれの服も、何もかも見境なく洗濯室に持ち込むのは男性陣だ。しかも時間を守ったためしがない。
 第一弾を干し終え、エミリーはうーんともう一度伸びをする。
 第二弾を取りに行こうと建物内に戻りかけたところで、エミリーはその男に気がついた。
 大きな肩が丸まったように背を曲げて、木陰にぽつんと腰掛けている。
 なんとなく気になって、エミリーはその男にすたすたと近づき、背中に声をかけた。
「こーんな朝っぱらから、おサボりですか? 日向ぼっこならあっちの方が日当たりがいいですよー」
 くるりと振り向いた男は泣いていた。
「……」
 エミリーはびっくりして思わず動きを止めてしまったが、構わず男はめそめそ泣いている。
「まあっ、どうしたんですか、何か悲しいことでも」
 うっかり手のかかる弟を思い出してしまい、エミリーはエプロンのポケットからハンカチを取り出して、泣く男の涙を拭ってやった。
「何がというわけではないが、定期的に泣きたくなるんだ、お気になさらず、いや、親切ありがとう」
 変な人だ、とエミリーは思った。とりあえず自分のことは棚に上げた。
「まあ、泣きたいときに我慢するよかいいかもしれないですね、あ、これ、頂き物ですけれどどうぞ」
 エミリーはポケットからおやつに食べようと思っていたアップルパイ八分の一切れを取り出した。ちゃんと包んであるものだ。泣いている子にはお菓子をあげたくなってしまう。
「すまない、ありがとう」
 とりあえず甘いものは嫌いではなかったようで、やっと男は笑みを見せた。
 なんと気弱そうな笑顔であることか。めそめそ泣くでっかい熊さん。シュールだ、とエミリーは思った。


 男の名前はアレフといった。
 彼は毎日やってくるわけではないが、たまに来てはめそめそ泣いている。
 そのたびエミリーは、話し相手になったりお菓子をやったりして付き合っていた。
 最初のころこそ気にはなったが、どうもこれはアレフ流のストレス解消のようなのだ。だからエミリーは、黙って泣かせておくことにした。
 しかしなんであんなにこそこそ泣いていたのか、と訪ねると、やはり周囲があまりいい顔をしないからのようだ。
「あんなに優しい言葉をかけてくれたのは、君だけだ」
 面倒くさがらずにきちんと相手をしてくれたことをアレフは言っているのだが、優しい言葉って「おサボりですか」がか、と思ってしまったエミリーには伝わっていない。しかし、あ、お菓子をあげたことかも、と思い至り、
「アレフさんが泣いてるの見ると、実家の弟思い出しちゃうんですよねー」
 と告げたがそののち失言に気づいた。どう見てもアレフの方が年上だ。弟みたい、などと言われて喜ぶかどうか。
 お仕事つらいんですか、とは聞きづらかったので、エミリーはなんとなく自分の話をしていた。
「私かなり新米なんですけど、やっとこ仕事には慣れましたよ。人の顔と名前覚えるのすごく苦手なので、まだ顔と名前一致しない人いっぱいいますけど」
 洗濯などの力仕事はエミリーのような若い娘担当だ。二十歳を超えると、希望すれば事務仕事のような内勤に就ける。
 しんどくないのか、と問われ、エミリーはきょとんとした。
「そんなにつらくないですよ。身体いっぱい動かすと、夜たくさん眠れますし。朝早いのも気持ちいいですよ。それに家庭内ならともかくこんな体力仕事、若い人の仕事ですよ、おばあちゃんにさせるなんてかわいそうです。あと、いろんな人と会えるから面白いですよ」顔を覚えているかはともかく。
 アレフが笑みを見せたので、エミリーもつられてにこっとした。この人が元気になったならいいなあと思った。しんどいことがないではないが、わざわざ告げるほどではない。それに、いま言ったことも嘘ではないのだ。
 結局、エミリーはアレフがこの城でなにをしているのか知らなかった。
 なんだか気弱そうだし、体力だけはありそうだが、雑用でこき使われているとか、軍の下っ端で先輩からいびられてるとか、かなあとなんとなく失礼な方向に思考が向く。
 本人にはやはり聞きづらい。泣くのは単にストレス解消の手段のようだが、本当に、仕事とか仕事の人間関係でつらい思いをしていたらどうするのだ。話をしているうちに泣いてしまうかもしれない。
 などと考えてしまったエミリーは、やはりアレフを大きな弟だと思ってしまっている。


 その日、エミリーはジェイという軍の一兵士にデートに誘われた。
「あら、私、仕事があるので行けません」
「そんなこと言わずに」
 男は食い下がる。面倒くさいなあとエミリーは思った。
「えーと、ジェイさん、昨夜、サイコロ賭博してましたよね」
 ずばりと切りかかられ、ジェイはうっと咽喉を詰まらせた。エミリーはにこにこ笑顔で言いのける。
「きっと負けたんですよねー、それで負けが込んじゃって、罰ゲーム代わりに洗濯娘を引っ掛けて来い、と。こんなところですか」
 図星を指されたジェイの顔は、蒼白になった。
 エミリーは、自分が器量良しではないことを自覚している。こんな話も一度や二度ではないため、相手が本気かそうでないかの見分けぐらいはつくようになった。
「と、とにかく一緒に来てくれればいいんだ」ジェイはエミリーの腕をぐいと引っ張った。
「どうせそのお店に行ったら、賭け仲間とやらがお待ちかねなんでしょう。私、物笑いの種になるの好きじゃないんですけど」
「そこをなんとか……!」
 離してください、と腕を振りほどこうとしたが、エミリーの腕力では敵わない。ジェイが、嫌がるエミリーをずるずる引っ張るような格好になった。
「離せ、嫌がっている」
 そこへ、ぬっと現れた男が、ジェイの腕をつかんだ。そのおかげで、エミリーはあっさり解放される。そのでかい男を見上げると、泣き虫のアレフであった。
「アレフさん!」
 エミリーは声を上げた。エミリーの方を向いたアレフに、ジェイが殴りかかろうとしている。
 アレフはジェイの腕から手を離し、襲い掛かる拳をひょいと避けると、猛然とジェイに殴りかかった。一発で戦意喪失、駄目押しにもう一発食らわせてジェイを沈める。後ろ手を取ってぎりぎりと締め上げると、ジェイは苦痛の悲鳴を上げた。
「ジェイさん!」
 エミリーは思わずジェイの味方をした。ただの悪ふざけの代償が腕一本では、割に合わなさすぎる。
「アレフさん、やめてあげてください。腕が折れちゃったらかわいそうじゃないですか」
「俺は仕留める相手に感情移入などしない」
 エミリーをちらりと見たアレフの表情は、いつものそれとはまるで違っていた。感情をそぎ落としたかのような冷たい横顔。慈悲の欠片もないような目の光が硬質さを訴えている。
「……どうしてですか」
「そんなことしたら肉が食えなくなる」
「おにく……?」
 エミリーはぽかんとした。


 どうにかこうにかアレフを説き伏せ、まずはエミリーはジェイを医務室に連れて行った。
 一段落したところで、こんどはアレフだ。
「あの、アレフさん、お肉ってどういう……」
 エミリーは一番気になっていたことを尋ねた。この答えを聞くまでは今夜は眠れまい。
「俺は、肉屋の息子で」
 アレフの返答をまとめるとこういうことになる。アレフの実家は肉屋である。当然、兎や鶏や鹿などの可愛らしい動物を連れ込んではばしばしかっさばくのである。しかし、可哀想と思ってしまってはその肉は食べられない。食べられないところで、次の日も仕事は続くのだ。
 アレフもその仕事を担当することになり、年頃になるまでに彼は悟ったのである。刃を振るうときに情けなどかけては駄目なのだ。無為に感情移入などしては自分が壊れてしまう。
 そうしてアレフは、自分をコントロールする術を覚えた。人間関係に対しても、すべての人に感情移入をしていてはとても追いつかない。だから、そうするのは極一部の人間にだけ。
 しかしいつも気を張り詰めていては疲れてしまう。だからたまに泣くのだという。
 そういうことだ。
「あ、じゃあ、アレフさん、お城にはどういったお仕事で……?」
「あー、その」アレフはごほんと空咳をした。「近衛で」
「えっ、すごいじゃないですか!」
 近衛隊とは個人技の優れているベテラン集団である。軍から引き抜かれたり、特別に剣技が優れていると噂される者をスカウトしたり、総勢三十名を超えない程度に編成されている。
 女性たちのあいだで一種のファンクラブが出来ているほどの知名度と人気があるのだ。エミリーですら、隊長とそれに順ずるものの顔と名前ぐらいは知っている。さすがにアレフのことは知らなかったが、めそめそ泣いている姿しか知らない彼女に、彼を見分けられたかどうかは疑問である。
「すまなかった」
「そうですよ! もっと早く教えてくれればいいのに!」ばしばしとアレフの腕を叩くエミリーに、
「いや、君は俺のことを弟のように思ってくれているので、気を悪くするかと」
「えっ、しませんよー! 女の子は、強い男の子が好きなんです」
 うふふとエミリーは笑った。
「そうか」
「そうなんです」
 アレフはにっこりした。
 エミリーもにっこりした。

<了>


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2008 09 22