引きずり出される昔の影。

幼なじみの法則

 遼路のことをちゃん付けで呼ぶのは世界で唯一人、恭子だけだ。
 再会は、想像していたほど劇的でも甘美でもなかった。
 しかし、「りょーちゃん」と呼ばれた瞬間、世界が一変した。当時とは似ても似つかない遼路の中から、無邪気で幼かった<りょーちゃん>の面影が引きずり出され、恭子の目の前に晒される。
 なんという暴挙だ。
 恭子自身も、幼い<きょうちゃん>の名残を見せながらも、やはり、成長して面影を留めるだけのただの女になっていた。目を見張るほど美しく成長したわけでも、遼路に全幅の信頼を置いていたあの頃のままでもない。
 ただの、どこにでもいるような、二十五の女だ。
 それでも遼路は、恭子が自分に関心を持っていることを感じて、わずかな愉悦を感じた。
 しかし、たまに恭子が見せる、知らない人を見るような目や、かすかに匂わせる警戒心は、遼路を苛立たせた。<りょーちゃん>と呼び、遼路の心を波立たせながら、恭子はあの頃の<りょーちゃん>ではないことを諒解して警戒の障壁を張る。
 仕事帰りに最寄の駅で、恭子とその友人に偶々出会ったときなど、軽い会釈で済まそうとした恭子に怒りを覚えたほどだ。もちろん、大人げなく即座に声をかけ、友人に紹介させることは忘れなかった。
 あの頃の<きょうちゃん>ではないことぐらい、痛いほどわかっている。しかし、成長した遼路は、あの頃の無垢で従順なだけの恭子では、決して満足できないこともわかっている。
 だからだろうか。こんなにも恭子に惹かれてしまうのは。
 それに、恭子は幼い頃の素直さをなくしてしまったわけでもない。だいたい、酒のひと口であの頃の<きょうちゃん>を惜しげもなく披露するなんていうのは、反則以外のなにものでもない。
 あんな紙切れ一枚で、恭子をものにしたなんて思っていない。
 酔っ払った恭子はただ、言われるがまま名前を書いただけで、それ以上の意味などないだろう。
 あんなものを、勝手に役所に提出するなんて狼藉を働くつもりはなく、ただのお守りとして持っていたいだけだ。
 女々しい自分を泣く泣く自覚しつつ、遼路は、恭子が自分のものになればいいな、と切に思った。


novel

2008 08 31