籠絡輪舞ろうらくロンド

 かつり、かつり、とメインホールの中央階段から主役のように男性が下りてくる。
 まさに主催者のヘルは、エレノアの前で、かつんと靴音を止めた。
 エレノアの目の前に、ヘルの右手が差し出される。
「お嬢様、お手をどうぞ」
 エレノアは一瞬、パートナーを務めることを促すヘルの顔を見つめたが、すぐに我に返ってヘルのその手に乗せようとした左手を引っ込めた。
「ヘル、ちょっと待って」
 ダンスパーティーの宴もたけなわ、衆人環視のこの状況でそれはまずい。
 エレノアは目で必死に訴えるが、ヘルは気づかない振りをしてふわりと笑んだ。
「さあ、参りましょうか」
 軽くではあるが強引に腕をとられて、エレノアはたたらを踏みながらヘルのすぐ傍に降り立った。どっと背中に冷や汗が噴き出す。
 ホールの中央、エレノアはまさに籠の鳥と成り果てたことを知った。


 エレノアとヘルの婚約は、対外的には公表されていない。
 家同士の口約束のようなものであり、捉えようによっては正式な婚約ではないといえる。
 つまりはいつだって覆せるということなのだ。
 そんなある日、ヘルの生家、ブラウトハイル家主催のダンスパーティーが開かれることになった。
 失踪した長男が帰ってきたという噂はちらほらと囁かれていたが、正式な発表とまではなっていない。ここに至って、一度きちんとお披露目した方がよかろうということで、今度の運びとなった。
 つまり、ヘルは今回の会の主役なのだ。
 ここで、問題が一つ。いうまでもなく、婚約者問題である。充分に結婚適齢期となった跡取り息子に婚約者がいるのなら、この場で発表しないのは不自然だ。しかしそれを為してしまうと、エレノアとヘル双方に身動きがとれなくなる。
 ヘルは、エレノアが求婚者にわずらわされないようにと、いわば最後の保険でエレノアの婚約者に名乗りを上げたのだ。そうエレノアは了解している。エレノアに好きな人、結婚したい相手が見つからないのならそのときにもらってあげましょう、それまでは婚約者の名目で虫除けになってあげましょう、という、エレノアにとって大変都合のいい婚約者なのである。
 エレノアが今回困惑したのは、自分にとって都合が悪くなるからではない。エレノアに婚約解消の余地が残されているということは、ヘルにとっても同じということなのだ。まだ家に戻って数ヶ月、これから次期当主となる教育を受けるであろうヘルが、この段階で婚約者を決めてしまうのは時期尚早な気がしてしまう。ヘルにだってこれから婚約者に名乗りを上げる者が出るかも知れず、それを邪魔してしまうのは心苦しい。
 しかしエレノアに招待状が来ないということは有り得まい。
 そしてその招待を蹴るということもできない。
 そうなるとやはり――とエレノアの思考は同じところをぐるぐるとさまよった。
 そうして結局、エレノアの立てたシナリオは、ダンスパーティーには行くが“エレノア”としては出向かないというものだった。
 つまり、変装して行くのである。ヘルの晴れ姿を見逃すことはないし、「趣向を変えてみたかったの。ちょっとした悪戯心よ」とでも誤魔化せば角は立たないだろう。
「完璧な計画ね」
 にやりと口の端に笑みを浮かべ、エレノアは侍女を呼んで会場へと向かった。
 受付では“エレノア”としてヘルの家族に挨拶し、招待に出向いたことをアピールしておく。その時間帯はヘルは準備や対応に忙しいので対面しなくて済む。その後、ブラウトハイル家の侍女にも協力を仰いで、エレノアは奥の控え室を借りる。
 ――変装開始である。
 エレノアは、変装の際、自分のどこを変えればいいのかをよく知っていた。
 髪だ。
 エレノアと見分けられる一番の特徴は、その銀の髪だった。それがあまりに強烈な印象を残すため、ほとんどの人はエレノアの顔立ちなどろくろく覚えてもいない。
 髪を黒く染めるだけで、もう別人のようになった。鏡を覗き込みながら、侍女たちと三人できゃあきゃあ騒ぎながら支度を調えた。侍女たちだって、変装劇、などという面白いものを見逃す気はない。
「よし、これでヘルだって騙せそうね」
 うきうきとそう言って、エレノアはメインホールへと向かった。


 ――そうしてエレノアは、ヘルにつかまったのだった。
 弦の演奏に乗り、ヘルは軽々とステップを踏んでエレノアをリードしていく。
「ヘル、あなた、自分が何をしているのかわかっているんでしょうね」
「よく存じておりますが」
 くるくる回る間に交わされる会話の間、ヘルは涼しい顔だ。
 雪華を反射するがごとき白銀の輝きが黒く染められようと、エレノアの髪は艶やかで麗しい。しかし問題はそんなことではない。エレノアは万が一の場合を考えて、ダンスに誘われないよう、侍女の服に着替えていたのである。
 しかしヘルはエレノアの変装をひと目で見破ったばかりか、ためらいすら見せずに彼女の手を取ったのだ。
 嬉しくないのか、と問われれば、エレノアだって嬉しいに決まっている。しかし、今日の主役が、一番大事な最初のダンスの相手に、侍女姿の娘を選んだとなれば体裁が悪いこと極まりない。しかもヘルのこと、このあとだって他の娘と踊る気などさらさらないに決まっているのだ。
「今日は近衛の同僚も来ているんでしょう、無様な姿を見せていいと思っているの、興を削ぐような真似をして」
「いえ、このような趣向の方が彼らのお気に召すに違いありません。変わったことを好む方々ですので」
 ああ言えばこう言う、とエレノアは溜息を吐いた。ヘルには口で勝てる気がしない。
「だから――あの、ヘル、いまここで私と踊ってしまうと、もう他の人は選べないのよ?」
 エレノアは泣き出しそうに顔を歪めた。
 誰もが納得するような高貴な人を最初の相手に選んだのであれば、問題はない。しかしヘルは場を乱してしまった。それなりの身分と節度を持った娘たちが、このあとダンスの相手に名乗りを上げるとは思えない。婚約の相手に、あわよくば、と思って来た者もいたはずなのだ。もともとそれなりの身分のあるヘルに、近衛という名誉職が付けば箔が付く。売りがいのある婚約者候補だったのに、ヘルはそれを自分で台無しにしてしまったのだ。
「エレノア様」とヘルが彼女の名を囁く。「私は、貧窮の果てに泥水すら啜って生きた男です。そこから救い出してくれたのはあなただ。私には、あなた以外にこの身を捧げたい相手などおりません」
 直球の台詞に、思わずエレノアは耳の先まで赤くなる。
 会話のペースが乱れない仕返しに、ダンスのペースを崩してやろうと試みてみたが、ヘルの巧みなリードにすべて空振りに終わった。悔し紛れと照れ隠しに、エレノアは思わず苦い顔になる。
「ちょっと、婚約はかたちだけで、手は出さないとか言ってなかった?」
「無理強いはしないとは申し上げましたが、行動を起こさないとは誓っておりません」
 ヘルはまったくいつもどおりの調子だ。
「あの、だいたい、ダンスの最中に相応しい話題だと思えないわ」
 虚しく反撃を試みたエレノアに、
「そうですか、ではのちほど」
 さらりと答えたヘルは、こぼれんばかりの笑みを見せた。

<了>


novel

2009 01 04