当惑香料とうわくトワレ

 エレノアは目を覚ました。
 覚醒と共に知覚したのは薄暗い光。彼女が横たわる、かろうじて弾力の残るベッドのシーツは薄汚れた灰色だ。
「えーと、何年ぶりかしら……」
 エレノアは指折り数えた。子供の頃は何度かあったが、ずいぶん久しぶりだ。八つの頃にあったきりだから、もう十年近くになろうか。
 なにがといえば、現状と類似した出来事のことである。それはといえば、捕らわれのこの身だ。
 彼女は一室に閉じ込められてはいたが、身を拘束されてはいなかった。それは、過去何度か経験したときもそうだった。エレノアは麗しい銀糸の髪を持っている。毛先がほんのり紫がかっているのが珍しい。彼女を誘拐するやからは、その珍しい髪を一目見ようとさらってくる。ついでにエレノアの生家に身代金を要求する。それが面倒なとき、手っ取り早く金が欲しいときは、彼女を売り飛ばそうとする。商品価値が下がっては困るから、彼女に傷はつけない。
 まったく、迷惑な話である。
 この十年ほどのあいだにも、そういうやからが寄ってはきていた。しかし、八つの歳からエレノアにつけられた護衛ヘルが撃退していたのだ。今回は、彼が留守の隙を衝かれてしまったのである。彼の補佐役がうっかり新婚旅行中だったのは間が悪かったとしかいいようがない。
 まあそのうち助けに来てくれるでしょう、と楽観視して、エレノアはとりあえず眠ってしまうことにした。


 ヘルの正確な歳はわからない。たぶん、エレノアと五つほどしか離れていないだろう。
 初めて会ったのは、エレノアの屋敷の厨房だ。ヘルが残り物を漁っていたところに、エレノアがやってきたのだった。ヘルはお腹を空かせてこっそり忍び込んだらしい。彼はどうやら貧民街の子供だったらしいが、孤児のようだったので、エレノアが屋敷に置かせてくれと両親に頼み込んだのだ。
 ヘルにとってもその出会いは強烈だったらしい。なにしろ、こそ泥のごとく忍び込んだところを見つかった挙句、その家の娘も食べ物を失敬しようとやってきたそうで、見つからないようにしようね、となぜか並んで食べる破目になった。そのあとやってきた料理長に見つかって、こってり油を絞られた。
 気がつくと屋敷で働くことになっていたという認識だそうだ。
 最初は両親も、ヘルにどういう仕事をさせようかと、頭をひねっていた。彼を屋敷に置くのに同意したのは、ほかの貧民街の子供たちとはどことなく雰囲気が違い、意外とまともな敬語が話せたからだった。そのうち、剣が使えることがわかり、丁度いいとエレノアの護衛役に納まった。ヘルという名前は少々変わっていたが、彼がそう名乗ったのでそう呼ぶことに決めた。もとはもう少し長い名前だったが忘れてしまったという。
 近頃、剣の腕の上がったヘルは、城の近衛隊から入隊の誘いを受けている。近衛は、軍隊出身でなくとも入ることが出来る。誰もが認める実力と、隊員の推薦があり、隊長に認められればそれでいい。――厳密には王族の誰かしらの認可が要ることになるが、信頼の厚い隊長に一任されているため、彼のお墨付きを持ってそれのかわりとしていることが多いようだ。
 エレノアは、ヘルが迷っていることを知っている。男なら誰でも、自分の実力を試したいだろう。
 ヘルは、エレノアの護衛という自分の責務を放り出すのが嫌なのだ。しかし、エレノアも既に結婚適齢期である。結婚してしまえば、夫となる相手の家に護ってもらうことが出来る。だからエレノアは、ヘルが近衛隊に行ってしまってもいいと思っていた。寂しくなるには違いないが、ヘルだって自分のしたいことをしていいはずだ。どうせエレノアだって、近いうちに婚約者なんて決まってしまうのに。


 ドアの外でどたばたと慌しい音がして、エレノアは目を覚ました。
 来たか、と察知して、エレノアはベッドの上にもそもそと身を起こした。
 予想たがわず、目の前の扉がばたーんと開けられる。
「エレノア様!」声を荒げた人物が部屋に飛び込んできたのと同時に、エレノアは彼に飛びついた。
「待ってたわ! 案外早かったのね!」
「エレノア様、ご無事で……って、え、ええ?」
 もちろん助けに現れたのは護衛のヘルだ。エレノアが飛びついた衝撃で、彼女もろともヘルは廊下に転げた。胸を痛め焦りに駆られてここまでやってきたというのに、エレノアの反応が意外すぎてまだ脳が順応できないようだ。
 ヘルはエレノアの手に触れ頬を探り、無事を確認するとほっと息を落とした。エレノアにとって誘拐は初めてではないし、傷つけられることもないから軽く考えていたのだが、よくよく考えればヘルにとってエレノアが誘拐されるのは初めてのことである。息を切らすほど焦って駆けつけてくれたのが嬉しくて、エレノアはヘルにぎゅっと抱きついた。
「うーん、やっぱりヘルっていい匂いがする」
 ふふ、とエレノアは笑った。思えば、初めて会ったときもヘルは貧民街独特の泥臭いような臭いがしなくて、そこがエレノアの気に入ったのだった。
「え、エレノア様、こら、離れなさい。妙齢の娘さんがそのような真似をするんじゃありません」
 通常の思考に戻ったヘルに、あっさりとエレノアは引き剥がされた。つまりは彼は、お堅いのである。
 こんなところ、さっさと帰りますよ、と促されてエレノアはしぶしぶ歩き出した。抱き上げてくれるとか、せめて手を引いてくれるとかすればいいのに、と思いながら。
 こうしてヘルの救出によるエレノアの初誘拐は幕を閉じたが、そのとき知らなかった事実を、エレノアはその後知ることになる。


「ヘル!」
 ばん、と扉をあけて、エレノアはヘルの部屋に飛び込んだ。
 ヘルはぎょっとして身を隠そうとしたが、もはや手遅れだ。彼は、肩の包帯を換えようとしているところだった。
「やっぱり……」エレノアは力なく唇を噛んだ。
 先ほど、エレノアは母にヘルが怪我をしたことを聞いたのだ。エレノアは屋敷に戻ったあと、疲れて眠ってしまった。目が覚めたいまはもはや深夜だったが、ヘルがエレノア救出の際に傷を負ったと聞き、いてもたってもいられなくなったのである。黒っぽい上衣を着ていたから気づかなかった。血の臭いはしたが、ヘルのものだと思わなかった。
「エレノア様、こんな夜更けに男の部屋に来るものではありません。お部屋までお送りしますから、お戻りなさい」
「ヘルったら!」取り付く島もない態度に悪態をつきながら、エレノアはベッドの傍まで行き、ヘルの隣にそっと腰を下ろした。「……ごめんなさい、私の所為ね」
「いえ、私が無茶をしたからです、応援を待たずに踏み込んでしまって。エレノア様がああまで落ち着いておられたのでしたら、こちらももう少し冷静になればよかった」そう言って、ヘルは微笑んだ。「怪我をしたといってもかすった程度、左は利き腕でもありませんし、大事ありません」
 ヘルは安心させるようにエレノアの頭を軽く撫でた。ヘルのそんな行為は珍しいことだったので、エレノアは嬉しかった。しかし、それとこれとは別問題だ。
「……ねえ、ヘル?」
「なんでしょう、エレノア様」
「私、あなたを解雇しようと思うの」
 ヘルは、はっと息を呑み、瞬間沈黙が流れた。なぜ、と問うヘルに、エレノアは笑みを返した。
「あなたを解放してあげる。自由をあげるわ」近衛でもどこでも入っちゃいなさい、と。
 自分の所為で、ヘルが怪我をするなんて耐えられない。どうせする怪我なら、ヘル自身のためにする怪我の方がよっぽどいい。
 そんなエレノアの思いを、目線だけでヘルは読み取った。


 解雇を言い渡したにも関わらず、ヘルは屋敷を辞さなかった。エレノアの勧めどおり、近衛隊には一度顔を出したようだったが、どうするつもりなのかはエレノアにはわからない。
「ずるずる引き延ばすぐらいなら、あっさり出て行ってくれたほうがいいのに」
 エレノアは人知れず呟いた。そうだ、どうせ別れの時は来るのだから、いっそさっさと気持ちを切り替えたい。
 そんなある日、エレノアのもとについに使者は現れた。
「婚約者が決まったのよ」と母が言う。
 エレノアがどうしても嫌だと、しんから拒めば、その話は流れるだろう。しかし、次の使者がまたやってくる。断っても断っても、最終的には選ばなければならないのだ。
「それなら、と思って受けることにしたの。ブラウトハイルという貴族家の次男だそうよ」
「そう、ですか」
 ヘルに報告すると、彼は静かに頷いた。
 そうしてヘルはその夜、正式に辞去を願い出た。近衛に入ると言い残し、エレノアの屋敷を出て行ってしまった。
 エレノアはその夜、なかなか寝付けなかった。
 眠れない夜は枕元にヘルを呼びつけ、眠るまで話をしてもらった。ヘルの声と匂いに包まれると、自然と睡魔が訪れた。しかしそんな日が再び来ることはないだろう。
 次の日目覚めたエレノアは、こっそりと抜け殻のようなヘルの部屋へ行ってみた。もうヘルの残り香すら感じることが出来ないことを思い知って、ひとり静かに泣いた。


 エレノアの心情など考慮せず、無情に時は流れる。
 その日、婚約者に会うとの名目で、エレノアはブラウトハイル家をおとなうことになった。
 御者の手を借り、馬車からブラウトハイル家の敷地に降り立ったとき、エレノアの心は既に諦観に溢れていた。だから、かの家の使用人がこう言ったときもたいして心は動かなかった。
「あなた様の婚約者ですが、当家ご長男のフェルグ様たっての希望で、ご次男からご長男に当事者が代わってしまったのです。お気にはなさらないでしょうか」
「ええ、どうせそのご次男とやらも会ったことがないんですもの。どうせ家同士の婚姻、相手なんて誰でも同じですわ」
 つんとすまして言ったエレノアの言葉を、玄関から出てきた人物は聞きとがめたらしい。
「本当に?」
「ええ――」答えつつ、エレノアはその声の主を振り仰いだ。そして言葉をなくした。
 使用人がフェルグ様、と声を上げる。かの人は優雅な礼をしてエレノアの手を取った。
「お逢いできたことを嬉しく存じます。ブラウトハイルが次期当主、長男のリッフェルヘルグと申します。誰でもいいとはお言葉ですね、エレノア様」
「へ、ヘル――!」
 そう、かの人はかつてエレノアの護衛を務めていたヘルだった。
「立ち話もなんですから、とりあえずお入りなさい」
 ヘルはそう言って、にこりと笑んだ。


「ちょっと待って、ヘル、なあに、どういうこと?」
 促されてソファーに座り込んだエレノアは、困惑に頭を抱えた。
「私は、ブラウトハイル家の、つい最近まで失踪していた長男なんです」
「失踪――貧民街にいたって言うのは、嘘だったってこと?」
「いえ、それも本当です」答えて、ヘルは紅茶をひと口啜った。
 貧民街で暮らしたのは、一年ほどだったという。もともとは彼は、誘拐された子供だったのだ。命からがら逃げ出しはしたが、恐怖から当該の記憶を失ってしまった。なぜここに来たのか忘れてしまった彼は、いつしか、自分の名前も出自も忘れてしまった。貴族の息子がこんなところで暮らしているはずはない、自分の妄想だと片付け、その記憶も封じ込めてしまったのである。
 始めのうちは、慣れない新入りということもあって、周りのものにいくらか面倒を看てもらえた。しかし彼らもいつまでもお荷物の面倒を看ているわけにはいかない。盗みや恐喝の技術も度胸もないヘルは、いつしか飢えて、ついにエレノアの屋敷に忍び込んだのだという。
「あなたの家で平和な暮らしを手に入れて、私は徐々に自分の記憶を取り戻していきました。自分に帰る家があることを思い出したんです――しかし、私はあなたを置いては行けなかった。思い上がりだということは承知していますが、せめて、私が不要になるまで、あなたが年頃になるまではと思ったのです」
――そうして、私に婚約の話が来たのね……」
「ええ、さすがに弟にとられるのは癪に障りますからね。家に戻ることにしました」
 ヘルはさらりとそう言ったが、エレノアはその台詞でブラウトハイル家の問題が円満に解決したことを読み取った。ヘルが家に戻るのは正しいことでもあるが、その一方で身勝手なことでもある。十年という歳月は、長男を既にいないものとして諦めをつけ、次男を跡継ぎとして育てるのに充分な年月である。それをあっさりと譲ったのだから、よほど家庭が円満なのか、それとも弟がよほど兄のことを好きなのか、そのどちらかであろう。
 しかしそれはそれ、これはこれである。エレノアは、欺かれたようで面白くはない。
「私、ご次男との婚約はお受けしましたが、あなたとの婚約は同意しておりませんわ」
「おや、誰でもいいとおっしゃってはいませんでしたか」ヘルは涼しい顔だ。
――ずるいわ」
 エレノアの頬は羞恥に染まったが、ヘルは「ご安心なさい」と朗らかに笑った。
「私はあなたに結婚を迫るつもりはありません。とりあえず婚約しておけば、周囲にうるさくは言われないでしょう。その後は解消するも、別の人と婚姻なさるも、あなたのご随意に」
 そうまで言われては、このおいしい話を断るのは難しい。
――本当に、あなたってずるいわ」
 エレノアが本当にヘルと結婚したがった場合、その台詞をエレノアに言わせるのだろうか、と彼女は思った。

<了>


novel

2008 08 07