悪魔のしっぽ

 私が家に帰ると、お兄ちゃんはボストンバッグを傍らに置いて靴の紐を結んでいるところだった。
 制服のまま玄関のたたきにたたずんで、背中でドアが閉まる音を聞きながら、私はお兄ちゃんに問いかけた。
「どっか旅行でも行くの?」
「いや、この家を出る」
 さらっと言われた答えを、一瞬理解できなかった。
 それってどういうこと? この家を出て、よそで暮らすってそういうこと?
「出てくって……どこに」
「会社の寮」お兄ちゃんはすっくと立ち上がってボストンバッグを肩にかけた。「じゃあな、ハル。俺がいないからって泣くなよ」
「だれが!」
 いつものとおりに憎まれ口を返すと、もうドアはガチャンと閉まっていた。


「なんなんだあいつ! いきなりすぎる!」
 翌日、私は友人にお兄ちゃんの所業をぶちまけた。お兄ちゃんは私に対する振る舞いがずいぶんと粗野なので、私はよく友人に愚痴っている。
 友人は「せいせいしたんじゃないの」と冗談ぽく笑った。
 そう言われてみるとそうなのだ。私は、常々、あいつには悪魔のしっぽが生えてるに違いない! と言っていた。自分と比べて出来の悪い私に向かって、「俺のような優秀なDNAはおまえにはない」と失礼な物言いをしていた。そりゃそっちには悪魔の血が流れてるでしょうよ! と私は言い返していたものだ。
 でも昨日のお兄ちゃんには、悪魔のしっぽが生えてるようには見えなかった。その背中は、ぜんぜん知らない男の人みたいに見えた。
 それで、急に私は怖くなったのだ。一緒に暮らしていたのに、家族だったのに、私はお兄ちゃんが家を出ようとしているなんて思ったこともなかった。意地悪で自分勝手なお兄ちゃんを私は知ったつもりでいたのに、そうではないお兄ちゃんを知らなかった。そんなことはないと意地悪なお兄ちゃんを思い返そうとするけれど、浮かんでくるのは私をいじめはしても遠ざけはしなかったお兄ちゃんばかりだ。
 それなのに、それなのにお兄ちゃんは私を置いて出て行った。
 ――とはいえ、私は断じてブラコンなどではない。これはきっと、十六年一緒にいた家族がいきなりいなくなったがゆえのただの感傷なのだ! そう自分に言い聞かせることに、私は成功した、と言っていいだろう。
 その日、家に帰ると玄関に見慣れた靴があった。
 私は思わず、脱ぎ捨てた靴もそろえないままに居間に駆け込んだ。そこには、テレビを見ているお兄ちゃんの後姿があった。隣にはやっぱりボストンバッグが置いてあったから、足りない着替えやらを取りに来たのだろう。
「おう、ハル」振り向いて、お兄ちゃんは笑った。
「えっと……お帰りなさい」
 殊勝な私の態度がおかしかったのか、お兄ちゃんはその笑顔をにやりと意地の悪い笑みに変えた。
「よしよし、ハルの顔も見たし、帰るかあ」
 お兄ちゃんはあっさりと立ち上がって、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「え、もう帰っちゃうの」
「なんだ、寂しいのか」
「違う!」と私は憎まれ口を叩く。「違うもん、違うけど、なんで勝手に出て行くとか決めちゃうの? どうしてひとこと言ってくれなかったの? どうせ私のことなんて、お兄ちゃんはどうでもいいんだ!」
 そんなに仲のいい兄妹ではなかったし、私はお兄ちゃんを家族の中で特別慕っていたわけでもなかった。それなのに、なんだか悔しくて涙がぼろぼろと出てきてしまう。そんな妹を、お兄ちゃんは迷惑に思っているだろうな、と思うと余計に惨めになった。
「どうでもいいわけじゃない」
「嘘だ、だって、俺とおまえは血が繋がってないとか俺が出来が良くておまえが悪いのはあたりまえだとかおまえは拾われっ子なんだぞとか、ひどいこといっぱい言ってた!」
「本当のことだぞ」
「なにがよ!」
「血が繋がってない」
「……は?」
 血が、繋がっていない? どういうことだなんだそれ、お兄ちゃんは私のお兄ちゃんじゃないってこと?
「い、意味わかんない」言って、私はさらに泣き出した。
 お兄ちゃんは、よしよしと頭を撫でて、珍しく優しく私を慰めた。
「もうそろそろ、言ってもよかろうと思うから言うけどな、おまえはうちの子じゃなくて拾ってきた子なの。俺が拾ってきたの。大きくなったら僕のお嫁さんにするっつって、小学生の分際で紫の上計画立ててたの。当時はおまえ、すごい可愛かったからなー」
「むらさきの、うえ?」
 混乱する私に、お兄ちゃんはにやっと笑った。
「じゃあまた来るからな、春子はるこ、それまでに源氏物語の若紫の巻を読んでおきなさい」
 お兄ちゃんの背中を見送り、ドアはまたも無情な音を立てて閉まる。
 混乱した頭を整理し、その後私が絶叫したのは言うまでもない。
 ちなみに、その後若紫の巻を読み、図書室で悶絶したのは記すまでもない。

<了>


novel

2008 06 01