そらの音色

 極上のを紡ぐ。
 ――いつか、天上の調べを手に入れる。


 ハギは細身の横笛を取り出した。真正面を見据えてすっと横に構え、歌口に唇を添える。
 最初の一息はいつも、胸をどきどきさせる。
 ひとつ深呼吸をして息を吹き込み、ハギは覚えたての曲を奏でる。
 ここは小さな土手の上で、見下ろす町並に音楽を振りまいているような錯覚が心地好い。しかしそんな気分も、水をさす揶揄の声にあっさりと崩されてしまう。
「ヘタクソ」
 声の主は悠然と木陰で草紙を開いている。青年は涼しい顔で、さらに辛辣な言葉を付け加えた。
「さっさとそのシロモノをしまってくれよ。おれの繊細な耳が壊れちまう」
 ハギは負けじと応酬する。
「なによ、手だけじゃなく、耳まで軟弱ってわけ?」
 青年は反物屋で働いている。店内の仕事はこなすが、染織等には手を出そうとしない。力仕事もしない。だから彼の手は――男の骨太さはあるものの――良家の娘のような綺麗な手をしているのだ。
「糸屋の娘が奏者を目指そうなんて分不相応。染料に染まった指で楽器なんか持つもんじゃねえよ」
「男の癖に働き者の証拠である手を欲しがらない人に言われたくはないわ。いいもん、どうせミソラなんかに芸術がわかるなんて思ってないから」
 そう言いつつも、しゃがみ込んだハギは拗ねたような上目遣いでミソラを見て、
「……で、どこが悪いって?」
 と自分の腕前を批評させる。
「なんだ、えらく殊勝じゃねえか」
「今度の祭りで吹けることになったんだもん」
「……へえ」
 と応えたミソラの声は混沌とした色で、感心しているのか軽んじているのか無関心なのか判別できなかった。
 そして、ミソラはにやりと笑って、わかったふうにこう言う。
「音楽になってないね。おまえのはただ、音を鳴らしてるだけじゃねえか。盛り上がりも主旋律もあったもんじゃねえや」
「うっ」
 痛いところをつかれたのか、ハギは声を詰まらせた。だが、自分はこんなに頑張っているというのに、ただ聞いているだけの男にここまで言われたくはないという思いが勝る。
「なっ、なんでそういう言い方しかできないわけ? もう、ミソラの馬鹿」
 激しやすい彼女はたちまち赤くなって、身を翻すと逃げるように去っていった。
 その背中を静かに見送ると、ミソラは木陰に寝そべった。
「いまさら、そんなもん見せるんじゃねえよ、おれに……」
 ぽつり呟いた言葉は、風に浚われて消えた。


「ミソラ!」
 息せき切った声に、ミソラは目を覚まされた。草の匂いがふっと鼻をつく。視線を上げれば、興奮したように上気させたハギの顔がある。
「……なんだ、少しは上手くなったか」
 ここ最近、ハギが楽器を持ち歩いて、あちこちで鳴らしていることをミソラは知っている。少しは吹き方というものを考えたらしく、試行錯誤する音は、鳴らすたびに音色が違っていた。
「それはともかく、ねえミソラ、あなた奏者だってほんと? 宮廷で演奏してたって、ねえ」
 誰から聞いたか、目を煌かせて、憧れの人でも見るような目つきで。そんなハギに、ミソラは曇ったような渋面で応える。
「……過去の話。それが、なに」
「なにって、すごいじゃない、宮廷の奏者だなんて。どうして教えてくれなかったの? 過去って、ねえ、やめちゃったの、どうして? ねえ、鳴らしてみせてよ」
 ハギの矢継早の言葉を、ミソラはばっさりと切り捨てる。
「やだよ」
 ――どうしておまえにそんなこと答えなきゃいけない?
 うんざりした表情の中に冷たく光る双眸は、そう答えていた。
 たちまちにハギの顔は、さっきまでとは違う興奮に包まれる。
「なによ、ケチ! ミソラなんてどうせ、宮廷に合わなかったのよ。それで自分の未熟さを思い知ってやめちゃったんだわ」
「だとしたら、なに」
 あっさり認めたミソラに、ハギは少し驚く。口調のそっけなさとは裏腹に、ミソラの瞳はぎらぎらとしてハギを射抜く。
「なに、って……」
 言葉を失したハギは、当惑したような責めるような目を見せたが、結局はそのまま乱暴に背を向けた。
 さっきまでの興奮が嘘のように、ハギの心はすっと冷える。何を期待していたのだろう。ミソラがにっこり笑って相手をしてくれるとでも?
「もう、知らない!」
 知らない、知らない。胸中で叫びながら、ハギは走り去る。胸が苦しい。――なんだか、寂しかった。
――ハギ……」
 遅すぎる呼びかけを口にして、ミソラは立ち尽くした。
 ――だけど、自分が間違っているとは思わない。


 ―― くらり。夢の中で。
 絶望の黒い染みが湧き出している。ひとり、立ち尽くしている。
 夢を見るのはハギの所為だ。
(もう、見せるな)
 叫んだはずの言葉は、くぐもった空気の揺らぎとなって闇に消えた。
 何度でも蘇る。何度でも彼を苛む。
 ただこの身ひとつで、この才能ひとつで宮中に飛びこんだ彼に、周囲は冷たかった。同僚は彼をやっかみ、羨み、身分の低さを嘲笑った。周囲はただその点においてのみ、彼に勝っていた。彼と同じ境遇のものは周囲におもねり、卑屈な態度を見せることで、受け入れられた。
 その屈辱を受けることはできなかった。彼の矜持がそれを許さなかった。彼は抗い、自らの音色と才能を見せつけることで闘った。だが、敗れた。足元がぼろりと崩れるように、彼の根底にあるものが揺らいだ。
 音色が濁ったのだ。そのときの焦燥は、宮中の実態を知ったときとは比べものにならなかった。取り戻そうと焦れば焦るほど、それを嘲笑うかのように、彼の楽器は思うように鳴らなかった。
 そしてついに、彼は自分の才能を疑った。
 ごぶり。足元から暗いふちに呑み込まれてゆく。


 七日が過ぎた。
 ハギは待っていた。楽器は手に握り締めたままだ。音を鳴らすのが怖かった。
 ミソラなら、なんとかしてくれるかもしれない。その一心で待っていた。彼ならきっと、この木陰に寛ぎに来る。
 やっとミソラの姿を目にしたとき、ハギの膝は安堵と不安のせめぎ合いにくずおれそうだった。
「ミ、ミソラ」
 おずおずとしたハギの声に、ミソラは眉を顰める。彼はまだ、先日の苛立ちを忘れてはいない。
「なんか用か」
 その突き放すような返答に、ハギの顔はさっと青ざめる。しかし、諦めたりはしない。
「うまくいかないの。やればやるほど駄目になっていくみたいで。ねえ、こないだのことは謝るから、もうなにも訊かないから、お願い、教えて」
 ハギの口はきゅっと一文字に結ばれた。彼女だって、本当は不本意なのだ。自分の力だけで乗り越えたかった。
「……やめれば?」
 ミソラの言葉にハギの身体は固まる。
――え……」
「間に合わなくたって、いいじゃねえか。発表の舞台は祭りだけじゃねえんだろ。腕前を見て欲しいんなら上手くなってからでもいいじゃねえか。そんで、宮中でもなんでも目指せば?」
――違う。ミソラはわかってない」
「え?」
 こんどはミソラが驚く番だった。
「わかってない! 私は目立ちたいんじゃない。巧くなりたいだけじゃない。私はただ、音楽を知ったときの感動を忘れたくないだけなの。本当はどこで吹いたっていい。でも、自分に課せられた責任を投げたら、その気持ちを持った自分が嘘になってしまうと思う」
 上手く言えないけど、とハギは口篭もる。
 本当はもう投げてしまいたいのかもしれない。大声を上げて泣いてしまいたい。でもそれだけはするものかと、ぎりぎりのところで、意地が彼女を支えている。
 刹那、戸惑ったミソラだが、潔く頭を下げた。
――ハギ、ごめん! おれが悪かった」
 ハギを甘く見ていた。彼女の気持ちを軽く見ていた。いや、ちゃんと見ようとしていなかった。
 ――それは、自分が逃げ出したものだったから。
「ちゃんと、教えてやる。おまえが吹く曲は、緩急が激しいんだ。曲調が変わっても、息の量が変わるだけで息の使い方はそう変わらない。静かな曲面に変わっても、決して腹の力は抜くんじゃねえぞ」
 ハギは真摯な表情をして、こくんと頷いた。ミソラは初めて、ハギと向き合ったと思った。
 ――手本があったらいいのにな。
 ミソラは素直にそう思った。
「……ハギ、よく聴いてろ」
 自然な動作で、ミソラは懐から朱塗りの横笛を取り出した。この身から離すことはできなかった。久しぶりに構えるそれは、淡く光って見えるほどだった。
 ミソラは、ふ、と微笑んだ。焦がれるような瞳をしていた。
 ハギはただ、見惚れていた。
 ミソラのその繊細な指は、まさに楽器を持つのに相応しい美しさだった。
 空気が、変わる。
 しなやかな指から音楽が溢れ出した。
 金色こんじきに濡れた音色が、りん、と響いた。
 ミソラはただ流れに身を任せた。本当に久しぶりだ。狂おしいほどいとおしい、身に吸い付くような、この感覚を忘れていた。
 ――忘れていられた、なんて。
 最後の音が名残惜しげに風に消えたとき、ハギはぼろぼろと涙をこぼしていた。
 こんなに簡単にハギを泣かせてしまえたことに、ミソラは少なからず驚いた。
 ――ああ、そうか。
 誰かのために音を奏でたのは久しぶりだった。そんなことも忘れていた。自分が見失っていたものが、いまわかった。
 ――なんのために吹くのかということ。
「……許さない」
 ハギが呟いた。彼女の言葉も、涙も止まらない。
「許さないわ、こんな音を捨てるなんて、諦めるなんて、絶対に。追わせてよ、私の前にいてよ。同じ土俵にすら上がらせてもらえないなんて、酷すぎるわ」
「……ああ」
 ミソラは答えた。ハギの目をしっかり見つめた。
 ――うん、逃げはしない。
「見に行ってやるよ、祭り」
 ミソラはにっこりと笑う。
 ――しっかりと見ててやる。おれの背中を見せてやる。その先にあるものを見たいと思うまで。


 いつか、天上の調べを目指すまで。

<了>


novel

2006 01 02