ソラにつづくFの音

 両側に並ぶ、見上げるばかりの本棚はどことなく威圧感を感じさせる。中に詰まっているのが、くすんだ色合いの古書となればなおさらだ。
 本棚の間は狭い。蟹が這うように、身体を横にしなければ擦れ違えないほどだ。だが、カウンターの奥は意外と広いスペースが用意されている。
 縁側のような段差には、座布団、卓袱台ちゃぶだい、急須、碁盤などといった寛ぎセットが常備してある。普段、ここを利用しているのは、ここの店主を含めた老人三人組である。しかし今日は、その孫三人組が一堂に会していた。
「なに、虎絃こげん、まだはぎさんにオッケーもらえてないの?」
「っつうか、萩が逃げてんだよ」
 奥から出てきた真夜しんやは、海棠かいどうと虎絃の話を断片的に聞き取り、座布団を陣取りつつ口を挟む。
「え、虎絃、萩に迫ってんの?」
――っ、違う!!」
 わかってんだろ、と虎絃は口調を荒げて反駁しようとするが、真夜に軽くいなされてしまう。
「はいはい、お茶が入ったよ」
「お茶請けは、わ、雪屋の最中じゃないか」
 海棠は小さな喚声を上げたが、
「……爺むせぇ」と虎絃は不機嫌そうに呟いた。
 しかし、素早く最中をつかみとり、すでに口へと頬張っている。
 彼らの祖父は仲の良い友人同士である。古書肆こしょし、和楽器店、骨董屋の店主たちの孫もまた、仲が良く、祖父と同じように古いものを好んでいる。三人の共通点はそれだけではなく、同じように家を出て祖父の家に居候し、同じ高校に通っているのだった。
 普段は、両親共働きの海棠以外は、あまり店番を頼まれることはない。虎絃の場合、両親はこの近くに住んではいないが、祖母がいる。この日は、真夜の両親と共に、祖父が温泉旅行に出かけてしまったため、店番と相成ったのだ。
 卓袱台の上には、教科書とノートが乱雑に広げてあった。試験が近いのだ。
「真夜、数学と化学と世界史と英語のノート、貸せ」
 そう言って、虎絃は手を差し出す。古典と日本史の成績は三人とも良いので、そのための勉強は必要ない。
「……ほとんど全部じゃないか。数学はノート見ただけじゃ駄目だろ、虎絃、ベクトル理解してる? 円の方程式、覚えときなよ」と虎絃を非難するような助言を与える海棠だが、こちらも手を差し出す。「真夜、おれにもノート。英語ね」
「海棠、おまえそんなガリ勉する必要ないだろ、成績落ちたのかよ」
 虎絃は反撃の糸口を見つけたが、
静音しずねさんも成績良いんだよ、負けられないもんで」
 と切り返されてしまい、面白くない。
「なにおまえ、静音さんとか呼んでんの、けっ」
「悔しけりゃ、虎絃も朔実さくみさんとか呼んでみれば」
「なにそれ、萩の名前?」
――だからー、なんでそっちに話を持っていくかな……」
 虎絃は脱力して、卓袱台の上に顎を乗せた。


 ことの始まりは、虎絃が学校を休んだ日。次に登校したときには、すべてが決定した後だった。
 文化祭で自分のクラスが劇をやることは知ってはいたが、そのキャスティングは決まってはいなかったのだ。しかし、油断した隙に、虎絃が主役に決まってしまった。
 しかも、聞けば始めから決まっていたことだという。ここ一ヶ月、悩みながら台本を書いていた都子いちこがこう言い放ったのだ。
「もう、三空みそらと朔ちゃんのイメージで書いちゃったから、ふたりで主役張ってね」
 寝耳に水である。しかし、クラス一丸となられては太刀打ちするすべもない。虎絃は観念した。
 ――それなのに、朔実が逃げ回っているのだ。
 虎絃は、朔実と会うたびに突進する。
「萩! いい加減にしろ、役、やれよ」
――やだ、私、三空くんみたいに目立つの平気じゃないもの」
 そう言って朔実はかわそうとするが、そんなことでは虎絃は引き下がらない。いつも、朔実が泣きそうな顔になるまで踏み込んでいた。
「おれだって嫌なの。しょうがねえだろ、決まっちまったんだから。おい、瑞口みずぐち、なんとか言えよ」
 事の発端となった都子に促すと、
「あら、良かれと思ったんだけど、逆効果だったかー」
 と、虎絃には呑み込めないことを言う。
 虎絃は苛々した。


 もちろんこうしたいきさつは、都子から真夜へ、真夜から海棠へと、完全に筒抜けになっている。
「……虎絃ってさ、せっかく良い役振ってもらってるのに、本人が追いついてないよな。子どもっぽい」
 カリカリとノートに文字を刻みながら呟いた海棠に、虎絃は憤る。
「なんだよそれ。おれじゃ、役不足だってのか?」
「あ、虎絃、それ用法違い」
 すかさず、真夜のチェックが入った、かと思うと、海棠はさっさと話を切り替えてしまう。
「真夜、ここのalsoってどこにかかんの?」
「どれ? ……この辺りの単語だったらどこにかけてもいいんじゃないか? alsoって入れる場所決まってないから」
「オッケー。じゃあ、ここの訳は?」
「それは、倒置だから、IF用法」
「あ、そっか」
 英語の教科書を挟んで、ああだこうだ言い出したふたりに、置いてけぼりにされた虎絃が割り込んだ。相手にされないので、面白くないのだ。
「なあ、ちょっと、なに勉強してんだよ」
 ふたりが同時に振り向いた。
「なにしにきたと思ってるんだ、虎絃」


 虎絃は、廊下の窓から斜め下に見えるグラウンドを眺めていた。辺りを橙に染める夕日は、生徒のシルエットを黒く浮き出させている。
 虎絃はその陸上部員の足元を見つめていた。
 タッタッタとリズム良く、地面を蹴る。
 微かに砂が舞って、また一歩、前へと押し出される。
 真剣な眼差しは、ただ前を見据える。
 虎絃は彼女のまっすぐさ――なにものをも疑わないような、その素直さが羨ましかった。
 ただ走ればいいと知っているような、迷いのない足取り。そうして虎絃は、些細なことに振り回されて、すぐに演奏を投げてしまう自分を思うのだ。
「帰るぞ虎絃。……なに見てる?」
 真夜の声がかかって、虎絃は我に返る。
「ああ――」なんでもない、と言いかけて、虎絃は微かに首を振った。
「真夜、おれ、自分に素直になりたい……」
 子どもっぽい呟きを、真夜は嗤いはしなかった。微笑を浮かべると、虎絃の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
――素直だよ、おまえは」


 カラン、と骨董屋の扉にかかったベルが鳴る。
 引き開けた扉の先に、ひとりの少女が見えた。
 彼女は虎絃の方を振り向いて、笑みを見せる。
「こんにちは、木幡このはたさん」
「こんにちは、虎絃くん」
 挨拶を返すと、静音の視線はまた並べられた骨董品へと戻る。彼女はたまにやってきては、こうして品物を物色しているのだ。買うわけではないが、創作活動への良い刺激となるらしい。
 次に、ガランガランと騒々しい音が響き渡って、扉が乱暴に開けられた。
「こんにちはーっ」
 大声の主を見ると、クラスメイトの都子いちこである。
「あ、静さん、もう来てたんですか?」
 都子は素通りで虎絃を無視して、静音へと駆け寄る。
――おい瑞口みずぐち、なにしに来たんだよ」
「見てのとおり、静さんに会いに来たのよ」さらっと言うと、都子は腕組みをして暫し考え込む。「うーん、でも、井筒いづつんとこの店なんだから、井筒には挨拶すべきかなあ」
 あとでいいんじゃない、と静音が言って、そうですね、と都子はにっこりした。そうして静音は、思い出したように虎絃を見やる。
「虎絃くん、奥でお待ちかねよ」
「三空、泣かせたら許さん」
「まあ、押して駄目なら引いてみたらいいんじゃない」
「……はあ?」
 ふたりからの一方的な会話に、虎絃はついていけなかった。
 気を取りなおして虎絃は店の奥へと進み、部屋の扉を開ける。
「海棠、用ってなに」
 そこでは、海棠と朔実がテーブルを挟んでお茶を飲んでいた。朔実が虎絃に気づいて、軽く会釈をする。
――萩……?」呟いた虎絃に、
「ああ、虎絃、待ってたんだ」と海棠が片手を挙げた。
 用事を察した虎絃は、ちょっと、と海棠を手招きした。そして、近寄った海棠に小声ながらまくし立てる。
「用事ってこのことか? なんで萩がここにいんだよ。なんか、余計なこと考えてないか?」
 涼しい顔で海棠は切り返す。
「真夜なら放っておけって言うんだろうけどね、おれはまだるっこしいのは嫌いなの。さっさと決着つけちゃいなよ。この状況なら萩さんだって逃げられないだろ」
「……おせっかい」
 虎絃はそっけなく言い放った。突然転がり込んだ状況への戸惑いと、友人の配慮に対する嬉しさと気恥ずかしさが混ざり合ったひとこと。ありがとうと言えるほど、素直にはなれなかった。
 海棠は、ややもすれば冷たく聞こえる虎絃のひとことに、怒りもせず柔らかな笑みで応える。
「言葉の使い方を知らないな。恩に着る、っていうんだよこういうときは」
 虎絃は、こういうとき、海棠には敵わないと思う。自分よりも顔立ちは幼いのに、ずっとおとなびていると思う。
 微かな頷きで応えると、海棠は「じゃあ、しばらくふたりっきりにしてやるから」と言って、虎絃の背中をぽんと叩いた。
 海棠が退室すると、虎絃は後ろ手で扉をぱたんと閉めた。そのままその場を動かず、座ろうともしない虎絃に、朔実は席を立とうとする。それを手振りで押し留めて、虎絃は「そのまま聞いて」と静かに言った。
 しばらく目の前のテーブルの白さを見つめていた虎絃だが、改めて口を開く。
「……おれさ、おまえが走るのをときどき見るんだ」
 構えていたのとは全然別の方向から切り出され、朔実は戸惑ったように身動ぎする。しかし、口を挟むようなことはしない。その様子を軽く見やって、虎絃は話を続ける。
「長距離でもギブアップしたことないし、弱音吐いたり、諦めたりしないだろ。それ、すごいと思った。おれ、おまえは、走るのが辛いこと知ってて、それでも走るのが好きな自分を知ってんだと思う。だから、羨ましいし、ちょっと尊敬もしてる」
 それまで下を向いていた虎絃だが、すっと目線を上げた。
「あのさ、身勝手かもしんないけど、おれ、おまえにがっかりさせられたくないんだ。そんだけ」
 そのことばは朔実のこころに深く届いた。もちろん、虎絃は逃げ回っている朔実のことを言っているのだ。まっすぐ自分を見る虎絃を、朔実は眩しそうに見つめる。
「……ごめんね、私、逃げるだけで考えようとしなかったね。ほんとは、ただ、恥ずかしかっただけなの」
 虎絃は、ほっと息を吐いた。
――じゃあ、引き受けてもらえる?」
「うん、考えてみる」照れくさそうに頬を染めて、朔実は虎絃を上目遣いに見た。「でも、条件がいっこあるけど」
――なに?」
「三空くんの、笛、聞いてみたいな」
 それを聞いて、虎絃は微笑んだ。
「そうだな、うん、わかった」
 本当に、朔実に聞かせたいと思った。いまの自分に出せる音を吹いてみたい。
 まだそらには届かなくても、
 ――それに続く音なら出せると思うから。

<了>


novel

2006 01 09