タッタッタ。
踊り場で反転、廻るスカート。
「朔ちゃん!」
都子が慌てて声をかけると、朔実は立ち止まってさっと振り向いた。
「ごめん、いっちゃん、うっかりしてた」
「もう、本調子だって朔ちゃんの足には敵わないんだからね」
朔実に置いていかれる恰好になった都子は、かたちだけでも憤ってみせた。捻挫治療中の身では、思いっきり走ることもできない。
「あ、そうだ朔ちゃん、どうせあたし部活休むから……」 と自分から朔実に持ちかけた話を、都子はあとで後悔する破目になる。
「――ちょっと待ってよ!」
図書室に入るなり、都子は声を張り上げてしまった。
「図書室では、静かに」
もっともなことを言いつつ、だがカウンター内に座った男子生徒はこちらを見ずに本を捲っている。
都子はつかつかとカウンターに近寄り、その上を軽くバシンと拳で叩いた。
「――今週のカウンター担当はうちのクラスだと思うんだけど?」
「ああ、気にしないで、すっぽかす人が多いから、僕が常勤しているだけ」
「――き」気にするって。都子はそう思ったが、賢明にも声には出さずにおいた。一瞬、帰ってしまおうかとも思う。
しかし、代役を務めると買って出た以上、朔実の顔に泥を塗るわけにはいかない。
「……あたし代理ね。なにすればいいの?」
そう言いつつ、カウンターの内側に回る。
対極に位置する、可視行動と不可視心中。
――まったく、冗談じゃない。なんであたしが、男となんぞよろしくせにゃならんのか。
男なんて、汚いし自分勝手だし気が利かないし見る目ないし、唯一女に勝っている体格と腕力をもってしないと揉め事ひとつ解決できない。それすら使えない男は、ただの意気地なし。
この偏った見解が都子の持論である。それだけでなく、この図書委員の男子生徒にさらなる偏見を持っているのだ。
彼の名前ぐらいは知っている。学年首席の那賀川真夜。男は身体能力において女に勝っているのだから、頭脳の分野ぐらい女に譲れないものかと、都子は普段から憎々しげに思っているのだ。
仕事の説明を素直に聞いているふりをしつつ、都子は横目で真夜を観察した。もちろん話すのは初めてだし、こんなに近くで見たこともない。硬質そうな黒髪に、あまり日に焼けていない肌、黒いフレームの眼鏡、痩せた体躯。
――身長はまあ、平均ちょい上。……でも弱そう。
都子は剣道部の副部長である。強さというものには敏感なため、弱いと判断した男には、軽い嘲りをこめてしまう。その視線を感じたのか、
「瑞口、だったよな。僕のこと嫌ってるようだけど、仕事はちゃんとこなすように」
真夜には、営業スマイルは通用しなかったらしい。物分りの悪い男と揉めると面倒くさいし、腕力でかかられても損をするだけなので、身につけたものだったのだが。
観察眼の鋭い男である。都子は、さっさと猫をかぶることをやめた。
「――細かいこと気にしないでよね、男のくせに」
二日目のことだった。図書室へ足を踏み入れた都子は、早々に素行の悪い連中を目にしてしまった。
奥にある六人掛けの机を占領している男子生徒たちは、机に足を乗せるという行儀の悪い事をしつつ、大声で話している。しかも、教員が来ないのをいいことに、煙草を吹かしている者までいる。
図書室内のほかの生徒は、目を合わせないだけで精一杯のようだ。むろん、彼らに文句を言う、部屋から追い出す、などの選択肢は存在しない。
――こりゃ、あたしがやらないと。
腹を立てた都子は、妙な正義感を発揮する。彼女が怒りを感じている相手は、横暴な男子生徒たちだけではなく、見て見ぬふりをしているほかの男子にもだ。
――男ってほんと、力関係に弱いんだから。
鞄を置く暇ももどかしく、都子は一直線に件の机へと向かった。
「ちょっと、あんたたち」
怒気をはらんだ声をぶつけると、対峙した男子生徒たちは挑むような目を向けた。煙草を吸っている男子がリーダー格のようだ。
都子は、いつの間にやら汗で滑る手をぎゅっと握り締めた。竹刀でも持っていれば良かった。口だけで追い出せるという保証などない。
都子が口を開きかけたとき、さっと見上げるばかりの背中が割り込んだ。軽く上下している肩を見るに、少し息を切らしているようだ。入り口から一気に駆けてきたのだろうか。のんびり考えてしまった都子だが、その声を聞いて我に返った。
「関谷、校内は禁煙だ。机の上の足も下ろして」
「な、那賀川。出てきちゃ駄目じゃない――弱いくせに」
思わず出てしまった最後の言葉に都子は口を押さえたが、その場にいるほかの者が頓着する様子はない。むしろ真夜の態度は、女子の前で恰好をつけていると思われ、相手を煽っているようだった。
関谷と呼ばれたリーダー格の男子がにやっと笑った。
「那賀川。手ぇ出せよ」
そう言われて馬鹿正直に差し出した真夜の右掌に、関谷はぎゅっと、火のついたままの煙草を押し付けた。
「――っ!」
都子の鋭い悲鳴は声にならなかった。真夜は顔を顰める。奥歯を噛むように堪える姿は、焼けるような苦痛を感じさせた。
思わず前に出ようとする都子を、真夜は無疵の左手で押し留める。平静を取り戻した真夜は、右手をそのまま握り込んで煙草を奪い取ると、相手を睨めつけた。
「禁煙。――聞こえた? あと、図書室では静かに」
ご丁寧に、口の端を余裕ありげに引き上げて見せる。その視線に怖気づいたのか、連中は黙って室内から出ていった。それを見送って、真夜はふうと息を吐く。
「瑞口、大丈夫か?」
触れるほど近くに真夜の腕がある。都子の心臓はまだ少し、通常より速いスピードで脈打っていた。思わず、都子は真夜を突き飛ばす。
「――おい、こら」という真夜の声も聞かず、
「――ちょっと待ってて」と言い置いて、都子は廊下へ飛び出した。ハンカチを濡らして戻ってくると、都子はそれを真夜に差し出す。
「……ちゃんと冷やして。保健室にも行って」
――痛いくせに、平気なふりなんてしないで。
本当に男って恰好つけなんだから。複雑な気持ちの都子に、真夜はにやりと笑んでみせた。
「なんだ。ちゃんと女の子らしいこともできるんだな」
「――どういう意味? 女だったらそれぐらい当たり前だって?」
途端にむっとした様子の都子に、真夜は言う。
「瑞口だって、男のくせに、って言うだろう?」
都子は、返答に詰まった。真夜は俄かに真剣な瞳をして、諭すように言葉を紡ぐ。
「瑞口、――決めつけは良くない」
都子は、打ちのめされたような気分だった。
男は力関係にこだわると蔑んでおいて、本当にこだわっていたのは自分ではないのか。
それを気づかされた。
それまで都子が信奉してきたものとは違う強さで。
自分が見落としてきたもの。
くるくる廻る思考。
――五日目。
そろそろ、剣道部にもどらなければ。そう思いつつ、都子の足は図書室に向かう。
ドアを開けると、今日は利用者が少ないらしく、室内は疎らだった。今日で最後だという意気込みで来たが、少々拍子抜けである。
「――ま、いっか」
カウンター内に陣取り、都子は生物の問題集を開いた。授業の記憶が薄れないうちに、宿題をやっておこうと思ったのだ。
うんうん唸っていると、背後から声がかかった。
「なに、生物?」真夜である。
「そう、ちょっとこの、問四で混乱」
「ああ、補足遺伝子な。AとBが両方あれば有色花なんだから、AB揃ってないやつを数えればいいんだ」
「ああ、うん。……どうせだったら、ノート貸してよ」
「いま、関谷に貸してるんだ」
「ふーん、関――ってちょっと!?」
それは確か、先日真夜に煙草を押し付けた張本人の名ではなかったか。
「なんか脅されたりとかしちゃってるの!?」
狼狽した都子に、真夜は口元に指を当てて、くすと笑いを洩らす。
「いや、仲良くなった」
「――ええ!? ……ええと、あの、それって、おまえを見直したぜ、とかなんとかそういうやつ?」
「まあ、そのような」
――信じられない。女だったらたぶんそんなことは起こらない。男のメカニズムは不思議である。
「……いいなあ、男って」
思わず呟いてしまった言葉。以前の自分なら絶対に口にしないだろう。そのことに気づいて、気恥ずかしげに斜め上に目線をやると、真夜がにやにや笑っていた。
「よしよし」
真夜は、冗談めかして都子の頭を撫でる。
――不思議と腹は立たなかった。
ただ、俯いた都子は、顔が上げられなくなってしまったけれど。
<了>
2006 01 09