パシン。
水面に波紋が広がる。
ザウッと腕が指先から水中に沈む。
バシャン。
大きく反転した身体が壁を蹴る。
プールから、水を叩く音が、二階の美術室にまで届く。――実際は、聞こえているかどうか定かではない。だが、目を閉じた静音にはその音が聞こえる。瞼の裏に、しなやかに泳ぐ姿が見える。
すう、っと静音は目を開いた。
――うん、形にできそうだ。
静音はカンバスを前に筆をとった。
「人魚、見せて」
学校帰りに立ち寄った骨董屋で、静音は奥に声をかけた。たまたまこの店に寄ったのではなかった。ここ最近、日を置かず通っているのだ。
いらっしゃい、と答えた青年は困ったような笑みを見せる。「もう、静音さんが見に来るから、売れないじゃないか」
青年の名は海棠。この骨董屋の一人息子である。この店は彼の祖父のものだが、その祖父は買い付けのためにしょっちゅう店を空ける。自然、海棠が店番をする破目になっている。
年の頃は静音と同じぐらいだろう。しかし、高校に行っている様子は見受けられない。
奥へ通された静音は、思う存分お目当ての品物を見ることができた。
硝子の人魚。
それはよく見る澄ましたポーズではなく、いまにも泳ごうとしている姿だった。淡い青の滲む透明なガラス細工。滑らかではなく、ところどころカットされた角が、光をあちこちに反射させる。
きらり。
初めて目にした瞬間、この人魚が泳いでいるイメージが、静音の頭に思い浮かんでしまった。どうにもならない衝動が、この身を襲ってしまった。
――描かなくては。
恋しちゃったんだな、と海棠は言う。
本当にそうだ、まさに恋をした。思わず、ショーウィンドウから下ろしてくれと、店内に入りしな頼んでしまったほどだ。早く売れてしまうと困るから。
――待って、私が描き終えるまで。
「何枚か描いてはみたの」
だが、硝子の人魚を見に来るたびに思い知る。
――ああ、違う、こんなものじゃない。
足りない、私の思いにまだ足りない。
うまくいかない、と思う。やっぱり、音を聞いているだけじゃ駄目か、と静音は観念した。
窓際に近づいて、下のプールを見やる。
水泳部員の泳ぎを見たって参考にならないことはわかってはいるのだが。水泳帽をかぶり、ゴーグルで顔を隠した姿は、人魚のイメージとは程遠い。
考えても詮無いことをぐだぐだ思っているうちに、プールに、ひとりの男子生徒が飛び込んだ。
とぷん。
上がったはずの水飛沫を、静音は認識しなかった。なんて静かに、潜るのか。
水に溶けてしまったのかと思った。
つと水面に指先が出たかと思うと、半身が姿を現す。一転して、荒々しい動きになった。
ばしゃり。
掻かれた漣を目で追っているうちに、彼の指がコースの終わりに辿りつく。
ターン。
――どうしよう、目が離せない。
無理やり視線を引き剥がすと、窓に背を向けて、静音はずるずるとしゃがみ込んでしまった。
とんでもない反則を食らったような気分だった。
そこには、静音のイメージ以上の人魚がいた。
静音はしばらく、骨董屋にも通わなかった。
一心不乱に、彼を形にすることだけを考えた。そのために、何度も彼の姿を目に焼き付けた。
一度など、彼が視線を上げてこちらを振り仰いだことがあった。一瞬でも目が合ったかどうかは定かではない。静音が咄嗟に視線を逸らせてしまったからだ。
目を閉じても、瞼の裏に、游魚のように彼が浮かぶ。
水に差し込む腕の角度や、適度についた肩の筋肉、見えやしないゴーグルの奥の目の光まで。
何度も、筆の色を重ねる。一筆ごとに近づくはずだった、静音と彼との距離。
それなのに。
静音が、彼のことを知ることはない。なぜなら、いまの静音に必要なのは、人魚である彼だけだからだ。
陸の彼を知ってしまったら、静音と同じ高校生の彼、テストに悩んで友だちと笑って、そんな彼を知ってしまったら、もう、彼を人魚としては見れないだろう。
近づきたいのに、近づけない。
いっそ、泡となってくれるなら良かった。未練など、持たずにすむのに。
それなのに、気づいてしまった。
彼女が人魚に恋するように、
――人魚は水に恋をしている。
「……ちくしょう。敵わないじゃん」
でも諦めない。自分には、描くことしかできない。
できあがった絵を持って、静音は久しぶりに骨董屋の扉をくぐった。自分の望みは叶えた。だから、この絵を海棠に貰ってもらおう。
「海棠くん」
声をかけると、いらっしゃい、と海棠はいつものように微笑んだ。「今日は、人魚、って言わないの?」
静音も笑い返す。
「もう、売っちゃってもいいよ。……描いたから」
静音はカンバスを手渡した。「お礼に、貰って」
「おれに?」
意外そうな顔になった海棠だが、大切なものを扱う手つきで、カンバスを受け取った。
「――これ、静音さんの人魚?」
丁寧に包みを剥がす手を止めずに、海棠は問う。
静音は、微かに頷いた。どうも気恥ずかしい。その心中を知ってか知らずか、絵を目にした海棠は、こう言い放った。
「……ふーん。静音さんは、おれが野郎の絵を貰って喜ぶと思ったんだー」
言葉は皮肉っぽいが、笑いを含んだ口調は、どこか楽しげだった。こんな冗談も言うんだと、静音は意外に思う。
だから、軽く笑い返した。
「そうねえ、ごめん。嫌だったら描きなおしてくるよ? 可愛い人魚ちゃんに」
そう言うと、海棠はまじまじと絵を見つめて、にこっと笑った。
「いや、これがいいな。――だってこれ、おれでしょう?」
「――はあ?」
静音はぽかんとした。とんでもない不意打ちである。相当間抜けた顔をしているのが自分でもわかる。
「え、なに、だって顔なんてわかんないじゃない」
「体格とか、泳ぎ方でわかるよ。……ってか静音さん、おれだってわかってなかったんだな」
呆れたように息を吐いた海棠だが、いいけどねえ、と言ってひらひらと片手を振った。
「――か、勘違いじゃなくて? だってそれ、私の学校の人だけど」
あのねえ、と返して、海棠はひと呼吸置いた。
「……おれと静音さん、同じ学校なの。気づいてなかったの? そりゃ確かにあんまり行ってないけどね。でも最近はちゃんと通ってたのになあ」
ショックだあ、と言って、海棠はしゃがみ込んでしまった。「水泳部員だよ、おれ。静音さんの邪魔しちゃ悪いから、美術室に行かなかったのが裏目に出たか」
やっと呑み込めた静音は、思わずけらけらと笑い出してしまった。
「やだ、知らなくて良かった」
「――なんだって?」
「いい、ごめん、こっちの話」
そう言いつつも、静音は笑いを堪えきれない。
――知ってたら絶対、人魚には見えなかったな。
パシン。
撥ねる水音。
二階の窓から眺める静音に気がついて、海棠はプールから大きく両手を振った。静音が自分を見分けられないと思ったのか、水泳帽とゴーグルをかなぐり捨てて、水に飛び込む。
とぷん。
ばしゃり。
コースの終わりまで泳ぎきり、海棠は身体を起こす。
艶やかに濡れた黒髪が、振られて滴を散らした。
海棠は、静音を見上げてにっこり笑う。
静音の目には、やっぱり人魚に見えた。
――まったく、不意打ちだ。
<了>
2006 01 02